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刺繍という苦い思い出

 

 ***

 

 台所では調理音と共にリリーナとソフィアが会話をしながら作業を進める話声が流れている。

 作業の進行を確認しあったり事前の打ち合わせになかった追加品目の話などで話は止まらずここまで来ているが、話をしながら作業をつづけることが二人にとっては造作もないせいで、実際は慣れや技術の必要なことであると指摘する人間はいない。


「そういえば、思いの外作業に支障が出るほど腕は落ちていませんでしたわね…」

「そうなんですか?」

「えぇ、長く台所には立っていないので包丁の扱いやオーブンの時間を計るのは少し不安があったのですが…嬉しい誤算でした」

「やっぱりリリーナ様ってすごいんですね…」


 ふとした拍子に出たリリーナの言葉に素直に驚くソフィア。ここまで見てきたリリーナの動きは、うまく効率化しつつオーブンの熱加減や焼き時間などもうまく計算されていて、さらに料理をしながらこまめに洗い物までこなしていた。


 オーブンの加減やある程度の動きだけならば要領のいい人間ならすぐにこなせるようになるだろうが、合間に洗い物をこなすというのは慣れがものを言う。

 洗い物というのはどうしても手を濡らす作業なので、手を拭くための一手間を踏まなければ次の作業に入れない。さらに何をいつ洗うか、それは洗ってすぐ使うものなのかなどの優先順位もある。

 それを合間合間にこなそうというのは次の作業が明確化していてどのくらいの猶予があるかを計算して動かなくてはいけない。こればかりは状況判断が都度できるようになるまでに慣れが必要になるものだ。


 だがリリーナは今の今までその洗い物をやって、すでに次の作業に入ってしまっている。だが本当に何年も台所に立っていなかったのか、という驚きとこれだけ忙しない調理をリリーナのような上級貴族が本当にやるのか…? という驚きが二つソフィアの中には生まれた。


「そういえばリリーナ様って得意な料理ってありますか?」

「ふむ…得意なものがあるかと言われると少し悩みますわね…ある程度種類は作れますが特筆したものとなると…今日も追加で作ることにしたキッシュでしょうか?」


 リリーナは花嫁修行として料理と裁縫、掃除に洗濯も叩き込んではいるが、基本的にはレシピや講師の指示通りに作りつつ様子を見て判断する…というなんともつまらない覚え方をしてしまっているので、意識的に練習したのは飾り切り程度である。


 リリーナに料理を教えていたシェフは腕がよく教導にも優れていたため、基礎から丁寧に学び成長していった彼女が苦労することは大してなかった。

 その教わっていた中で、リリーナが大きく褒められた記憶があったのがキッシュである。その時はある意味テストのようになっていて、メニューや素材、味付けも全て自分で決めなくてはならず実質的に自らの意思で組み立てた料理であった。

 そういったテストは他に何度もあった上、特に自覚があって得意なものだとも思っていないが、言われてみて思い当たるものと言うのもそれしか浮かばない。


「キッシュ! 美味しいですよね。あたしもたまに作ります。大きい型を使うと何回か食べれるくらい作れるので便利で…」

「しっかり火を入れて調理するものですし、固くなることもないですから分けて食べるのはいいアイデアだと思いますわ」

「キッシュ作る時好きな具材とかありますか?」

「薄く切ったカブを入れるのが好きですわ。少し焼き目をつけてから入れると香ばしさとホクホク感が同時に味わえて美味しいのです」

「カブかぁ…美味しそう…」


 リリーナのアイデアを想像するソフィア。カブというと自分はスープなどの煮込み料理にしてしまうことが多いので、今度やってみようか。


「ソフィアはキッシュに使う好きな食材はありますか?」

「あたしはチコリーを入れるのが好きです!」

「チコリーですか…事前に火は通すのですか?」

「生のまま適当に切って入れてるだけですよ〜。パイ生地の上に生のチコリーと炒めた挽肉とか入れて卵液を入れたらオーブンにぽいってしちゃいます」


 なるほど、とリリーナは少し感心する。確かにキッシュにチコリーは聞いたことがない。斬新で美味しそうだが、疑問も一つ。


「ですか少し苦味が目立ちませんこと?」

「個人的にはそれが美味しいんですけど…苦手だったらクリームソースとかかけると苦味も消えますよ」

「クリームソース! キッシュというとそのまま食べる印象でしたので思いつきませんでしたわ」


 会話に集中しているようで作業は一切止まっていない二人。リリーナはケーキの仕上げをし、ソフィアは煮込み料理とスープの最終確認をしている。あとはパンを軽く温め全体の盛り付けをすれば完成だ。

 強い火を使っていると流石に会話をするのは危険なので、ここにきて二人の会話は大きく盛り上がり始めている。


「あっ、この間市場で白アスパラガス見ましたよ。春なんだなぁって実感しました」

「確かに私のディナーにも出てきましたわ。季節を感じる食材は素敵ですわね」

「白アスパラガスって、何にしても美味しいですよねぇ…ふふ…」


 今にも口の端から涎が垂れそうになる程度に表情を崩すソフィア。今彼女の脳内では白アスパラガスの煮込み料理に焼き物、衣をつけて揚げたものやスープもいい…とさまざまなメニューが広がっている。


「そうだ、春っていえば布屋さんでもイチゴ柄とか花柄の布が増えてました。あたし普段は刺繍用の無地のやつばっかり買うのにその時は浮かれてイチゴ柄のやつ買っちゃって…何を作ろうか悩んでます」

「ソフィアは刺繍が趣味ですものね」

「はい。だから普段は無地の布を買うことが多いので、柄物って持て余しちゃって」


 鞄でも作ったらいいのだろうか…とソフィアは最近頭を捻っていた。

 リリーナは彼女の悩みを聞きつつ、出来上がったケーキのクリームが溶けてしまわないよう氷が詰められた箱に移しながら何気なく問う。


「その布は大きめの柄なのですか?」

「んー、柄は大きめかなって思います。イチゴが蔓みたいなのに生ってる絵なんですけど、蔓には葉っぱもついてて可愛いんです」

「では柄の一部に沿って同じ模様の刺繍を重ねるのはどうでしょう? 柄が際立ち立体感が出るので何かに加工した時少しお洒落かもしれません」

「あっ! それいいですね!」


 リリーナのアイデアに表情を明るくするソフィア。その様子を見ながら何か役に立てたようだと微笑むリリーナだが、そこでソフィアはふと疑問を口にする。


「あれ、でもリリーナ様って刺繍やるんですか?」

「!」

「柄ものの上に重ねるなんて初心者さんの言葉じゃないような…」


 この瞬間リリーナは“しまった”と内心で唇を噛む。

 なぜならリリーナが刺繍を得意としていることは、おそらくディードリヒでさえ知らないはずで、自分はそれを大きく話題にしたくないからだ。

 刺繍は確かに花嫁修行の一環としてやるにはやるが、リリーナが上手くなったのは監獄生活のあまりの暇さに時間を潰すために始めたものの結果でしかない。


 あの頃関わっていた人間は食事を運びにくる看守だけで、それでさえ時折しか話をしなかったので監獄として用意された貴族用の簡素な部屋を維持するための家事が終わってしまうと本当にやることがなくなってしまう。

 しかしあのベッドとトイレとシャワーに小さな窓だけがついた簡素な部屋と、自分の肌に合わなかった硬いドレスでさえ自分が最低限貴族であったからこそ用意されたのだろうとは当時から感じていた。


 それこそ平民以下の囚人にまともな部屋や服はなかっただろうと想像するのは容易く、その中には何人自分と同じ冤罪の人間が混ざっていたのだろうか。下手な貴族に罪をなすりつけられて投獄など、リリーナのような上位の立場でも耳にしたというのに。

 かといって反省と思考だけで時間は潰せない上、そればかり考えていても仕方ない。本を読むのは脱獄の手段に使われたことがあると言われ許されなかったので、その中でなんとか捻り出したのが刺繍であった。


 最初はその刺繍さえ“針を使う”という理由で渋られたが…何度か交渉を重ねて道具を手に入れ、やっと暇つぶしができると始めたら自分でもおかしいと感じる程度には上達してしまったのである。

 始めた当初は子供の頃に学んだ基礎程度しかできなかったが、気がつけば記憶している絵画をそのまま刺繍するようになっていた。正直大作になる程時間を潰せるのでそうなっていっただけなのだが。


 そしてあの看守がディードリヒの息のかかったものでないならば、彼はリリーナの苦い過去の一つを知らず、リリーナはそうであってほしいと願ってしまう。あんな惨めな自分は彼に知られたくない。

 改めて思い出したくない記憶だ…あの頃は時間が潰せればそれでよかったが、今のリリーナにとって刺繍という存在は投獄自体を思い出す苦手な技術である。


 だが自分の中で当たり前になっている技術というのは、どこまでが常識的か判別しづらい。そういった意味だと今のアイデアは完全に墓穴を掘ってしまったとしか言えない。


「花嫁修行に裁縫は含まれますから、必然と知識はつきますわ。そこまで得意ではありませんが…」


 深掘りされたくないので嘘を混ぜて誤魔化す。こう言っておけば何かあっても簡素なものを作ればお茶濁しにはなるだろう。彼女個人としてはなるべく刺繍針に触れたくはないが、墓穴を掘った以上それは仕方ない。


「そうなんですか!? わぁ、すごい。あたしリリーナ様が作ったやつ見てみたいです! 今度見せっこしませんか?」

「えっと…」


 しかし感情と理性を分離させても、予想していた展開に対して言葉が詰まる。先ほど考えた通り基礎的で簡素なものでお茶を濁せばいいとわかってはいるのだが。


「あたし、リリーナ様がさっき教えてくれたやつやってみるので…あ、でもリリーナ様ってなんでもできちゃうしあたしのじゃしょぼいかも…」


 そう言ってソフィアは一人盛り上がりながらもやや困ったように笑っているが、リリーナはこの純粋な視線になんと言葉を返したものかと心が痛い。

 感情だけで言うならば、やはり刺繍針に触れたくはない。あれは結果として積み重なって“しまった”だけのもので、そこにいい感情や思い出はないからだ。


 だが同時に、このままでいいとも思えない。

 あの時間はもうとっくに過ぎ去ったもので抱えている意味はないし、刺繍という技術に罪があるわけでもないのだから。


 ならば今自分は、また一つ過去と向き合うべきではないだろうか。

 そう思った時、つい言葉が口をついた。


「では互いに渾身の作品を作って見せ合いましょう。あくまでそこに優劣はつけませんが、思い切って全力を出し合おうではありませんか」

「えっ、本気でいいんですか…? それならあたし柄ものの布の柄をなぞるなんてしないで、好きな布に思いっきり刺繍したやつ持ってきますよ!?」

「勿論構いませんわ。私も先ほどは簡素なものであれば作れるとは言いましたが…本気を出します。互いに全力を出しあいましょう」


 今刺繍に手を付けて納得のいくものが作れるかも、そもそもやり始めて嫌な思いをしないかもわからないが、前に進むならまずやってみるところからではないだろうか。そしてせっかくやるのならばいっそ大作を作ってしまった方が吹っ切れるような気もする。


 しかし義務的に克服するわけではない。少なくとも自分の中にあるのは“前を向きたい”という感情で、苦い思い出をそのままにするのが嫌だっただけ。

 たった一年であろうが牢にいたのが事実なように、今目の前の景色も現実なのだから。


「じゃあ楽しみにしてますね、リリーナ様! あっ…そういえば私の作業は終わりかな? リリーナ様はどうですか?」

「私もちょうど終わったところですわ」

「じゃあ、あたしみなさんに声かけてきますね!」

「いえ、私が行きますわ。ソフィアには取り分けるための食器などを用意して欲しいのです」

「そっか、確かにリリーナ様は食器の場所わかんないですもんね。わかりました!」


 作業を終えた二人は一度解散し、リリーナは台所のドアを開ける。彼女の後ろに広がる台所には、流し台やパンなどを作るための作業机、そしてコンロに敷き詰まるほどの料理たちが置かれていた。

 そしてリリーナが台所から一歩出た矢先にふと右を向くと、廊下を歩くファリカの背中が見える。


「ファリカ」

「! リリーナ様、どうかしたの?」

「料理の支度が済みましたのでアンムートに声をかけて欲しいのです。大きな机は最後に動かすと聞いていますので」

「そっか、了解だよ! 今声かけてくるね!」


 リリーナからの頼みに対して“待ってました”と言わんばかりに表情を輝かせたファリカは、元気よく頼みを聞き入れぱたぱたと軽い足音を立てながら去っていった。

 その背中を見送った後、リリーナは用事が一つ済んでしまったので配膳を手伝おうとそのまま台所へ踵を返す。


五千文字超えてるシリーズなので切ろうか悩んだんですがいいところで切れなそうだったのでそのまま上げました

長かったと思うので申し訳ないです…


ご飯作りながら喋るのって結構慣れると怪我なくできるものなんですが、世の中フライパン煽るのも慣れって必要なのでリリーナやソフィアってやっぱすごいんですよ

実は当たり前みたいに難しいことをやるのが共通点の二人です


“リリーナ様は刺繍が得意だけどやりたくない”は何かと話に出ていましたね

どうでもいいですが彼女はモネみたいな淡く少し不透明な空気の柔らかい絵を好みますので、多分牢の中で刺繍していたのもそういうやつだと思います

刺繍ってすごいですよね、本当に絵画の繊細な色使いを色とりどりな糸の使い方一つで再現できてしまうわけですし。私は不器用の極みなのでソフィアやリリーナが羨ましいです


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