君がただ“君だけ”になるために(3)
「リリーナ!」
「っ!?」
大きな声が聞こえて驚いたら、そのまま知らないうちにまた俯いた頬を持ち上げられた。だがそれはいつかのような乱暴で強い力ではなくて、優しくてしっかりした支えるような手つき。
目の前の彼は変わらずこちらを心配そうに見ているけれど、少し怒っているようにも見える。それなのに虚な印象はなくて、とても…正面から自分と向き合おうと真っ直ぐに見ているような気がした。
「思い出してリリーナ。そもそも君は僕から逃げられるのかについて」
「!」
「僕と生きるために君が努力する必要なんて最初からないんだよ。君は生きてるだけで僕に相応しいんだから」
「…そんな目で見るのは、貴方だけですわ」
誰もが自分を汚い目で見てくる。利用できるかどうか、突いたら埃が出るか、言うほど自分は彼に相応しいのか。
だから自分は、常に彼に相応しく在るように立ち回らなければ。彼に負担のないように、彼が傷つかないように。
全ては彼のそばにいたい、それだけ。
「どうして他人なんか気にするの? 誰が何を言ったって、君の故郷で起きたようなことは繰り返させないのに。君は僕の、僕だけの君なのに」
「そういった、気持ちの問題では」
「そういう問題だよ。君を攫ったあの日から君は僕のお嫁さん以外に道なんてないのに、どうして他人程度のちょっかいで離れられると思ったの?」
ふっ、と光の消える目にリリーナは絶句する。
確かに今までも同じようなことは言われていたし、自分でもそうだろうと思ってはいるが、それとこの家を貰い受けることがつながらない。
「あのね、確かに僕は君が死んでも君と結婚するし君が気にするであろう責任は全うするよ。それなのにだらけたくらいで気持ちが変わるわけないでしょ」
「そ、それと己の責任を全うするのは別の話ですわ」
「それとこれを引き離すためにここがあるんだよ? それこそ責任の話ならリリーナは僕になんでもない君を見せるのだって責任だから」
「そんなことが、責任なんですの…?」
疑問を呈するリリーナに、ディードリヒは少し不貞腐れた様子で言葉を返す。
「何もない君の前では、僕だって何もない僕でしょ?」
「!」
「前にリリーナが僕に言ったんでしょ…忘れないで」
確かに昔そんなことを言ったような…とリリーナは考える。あれはそう…多分市井に降りて二人で市場を歩いた時だ。
そうだ、あの時のあの服装なら、なんでもない古着の自分たちなら貴族らしい苗字なんて持つことはできない。だからこそ、互いに何もない自分たちでいられる。
そう納得は持ちつつも、疑問も一つ。
「確かに言いはしましたが…しかしそもそも私が死んでも貴方のそばにいれるのであれば、結局私は今のままでも同じなのではないでしょうか?」
「それは…僕に喧嘩売ってるの?」
「何故そうなるのです…素直な疑問ですわ、言葉に齟齬を感じますもの」
自分の発言に対して怪訝な表情を見せるリリーナに大きなため息をつくディードリヒ。
全くもって彼女は、こういう時ばかり他人の気持ちが理解できない。
「君が死んでもそばに置くことと、君が今休まないことは関係ないよ」
「そうなのですか?」
「そもそも僕は、今や“何もない君”だって好きなんだから、休んでほしいと思うのは当然でしょ?」
「!?」
突然何を言っているんだ、と絶句するリリーナ。
だがディードリヒはそんな彼女をそのままにして言葉を続ける。
「君は嫌いみたいだけど、何もしてない自分とか」
「好きとか嫌いといった問題ではありませんわ。私は積み重ねることで結果を得ているのですから、何もしないなど…」
「それは“努力”以外の自分がわからないからだよね」
「…何が言いたいんですの?」
狼狽えながらも怒りを露わにするリリーナは強く相手を睨みつけた。言葉が強くいつもより砕けた様子に強い怒りが伺える。
だが変わらず暗い目で彼女を見るディードリヒに動揺した様子はない。
「確かに君の諦めない姿勢は美点だよ。でもさ、本当にそれだけだって思ってるの?」
「それは」
「好きな花を眺めている時の表情も、僕に怒ってる時の砕けた様子も、故郷と別れを告げて泣いた時も、ご両親にプレゼントをもらって喜んでる君も…全部君なのに」
「…っ」
いつもの暗い瞳だというのに、いつものような盲目さを感じないのは何故なのだろう。
あの暗い、闇に染まったような渇望を自分に叩きつける時の瞳が今は何故自分を見透かしていると思うのかが、わからない。
わからないことが、恐ろしく感じる。
「何もないリリーナに“価値がない”なんて、誰が言ったの?」
「それは、それは私自身が言いましたわ!」
そうだ、その言葉は確かに自分が言った。
あの家で、あの立場で、何もできない結果を示せない自分など無意味だといつかに自分で言い続けてきたからこそ今がある。
そうでなくたって、何にも才能などなくて積み重ねるしかないとわかった時にはもうそれしか残っていなかったのに。
だからといって積み重ねても、全てを得られるわけではなかった。虚しさだけが積み重なった時こそそう言い聞かせてきたのに!
「ねぇ、それって君以外の誰が言ったの?」
「…っ」
それなのに、“彼”は正面から自分を否定した。そして彼の暗い瞳は静かな怒りを込めて私を見る。
その姿に、リリーナは狼狽えないでいられない。
(どうして貴方が、“私”を否定するの?)
「私は、公爵家の一人娘で、幼い頃にはもう王族の婚約者がいたのです。だからこそ、他人に恥じる私でいるわけにはいかなかった!」
「じゃあ誰かが言ったの? “休まず頂点に立ち続けろ”って」
「! それは…」
確かに、それは誰も言っていない。そう思うと目が泳いだ。
誰にも言われなていないのに今の自分をやめられないのは、確かに自分のエゴでしかない。
「本当にここだけは現実を認めないな、君は。まだ結果が足りない?」
「結果は出せています。しかし常に上を目指す精神がなければ維持することもできません。私はあの屋敷でそれを思い知ったのです」
リリーナの目は怒りと悔しさ、そして強い意志を持ってディードリヒを見る。しかしその姿を見た彼は、大きくため息をついた。
「…えっと…ごめんリリーナ。僕は一個君のことを勘違いしていたみたいだ」
「…何を仰りたいのです?」
「あのねリリーナ、“秘密基地”で過ごしてた時間って覚えてる?」
「? 三時間が精々だったと思いますが」
昼食を食べた後に行くことも少なくなかったので、二人はそう毎度長い時間を秘密基地で過ごせたわけではない。
だがそれでも、リリーナはディードリヒの質問の意図が理解できていないようだった。
「僕は最初から“ここで生活してほしい”とは言ってないでしょ? ここは秘密基地なんだから、あくまでリリーナがいたい時間ここにいればいいってだけだよ。それもだめ?」
「あ…それは…」
かぁ、と顔を赤くして俯くリリーナ。
確かに言われてみれば秘密基地で過ごす時間は限られていたし、言われてみればここは屋敷のように生活する場所として用意されたわけではない。だからこそ彼はここを“秘密基地”と呼称したのだろう。
これでは自分は話の最初から勘違いをしていたことになる。ここは屋根も壁もあるので一泊する程度はできるだろうが、それも行うかどうかは自分の自由なのだ。
こうして考えていると、確かに周りの言う通り少し張り詰めすぎていたような気がする。
「君はこの話題になるとちょっとデリケートだから…何もしてない自分がコンプレックスなんだろうとは思ってたけど、ちょっと極端じゃない?」
「ごめんなさい…今は、まだと思ってしまって」
今はまだ気を抜けない。本当に大切な時期で、彼の幸せの第一歩が始まるかもしれないのに。
そんな大切な期間に自分が足を引っ張るわけにはいかないから。
「確かに今は大切な時期だよね。一度いろんなことが終わって、僕たちが新しい場所へ向かうために結婚式も迫ってる。気を張りがちなのはわかるけど、だからこそ何もしない時間はとても大切だよ」
「はい…」
「リリーナがそれを一人でやるのが難しいのはわかってるから、僕が隣にいる」
「ごめん、なさい…自己管理はしていたつもりなのですが」
リリーナはすっかり落ち込んでしまっている。今も彼女は自分に向かって不甲斐ないと思っているのだろうと思うと、これは根が深いな…とディードリヒは気を引き締めた。
「責めてないよ。ただ心も体の一部だから大切にしてほしいんだ。リリーナの心はもう張り詰めてないと崩れそうになってる、このままじゃ戻れなくなっちゃうから…」
そう言う彼は、少しずつ声音が泣きそうに震えていく。リリーナはそれを聴きながら、自分に少し問いかけをしていた。
なんでもないと思っていたのに、目の前を乗り越えることは当たり前だと思っていたのに、どうして自分の心は貴方に心配をかけるほど擦り切れてしまったんだろう、と。
「僕も仕事の手伝いしてもらっておいて言うことじゃないんだけど…リリーナのこれからやりたいことのために、心の余裕を作ってほしいんだ」
「これから…やりたいこと」
「だってもう僕たちは屋敷にいないからさ、僕は君が好きなことしている君にも僕を好きになってほしいんだ」
「!!」
そう言って笑う彼は、いつから瞳の輝きを取り戻したのだろう。それだけ、自分を見る彼が綺麗で心臓が少し逸る。
「リリーナにはいつもどこでも、もっと僕を好きになってほしいんだ。立場に囚われなくても、好きだから僕のそばにいるって思ってくれるくらいに。僕もリリーナがそう思ってくれるように頑張るから」
「…っ!」
(またそんな、安易に歯の浮くようなこと言って!)
顔が熱い。また心臓が痛くておかしくなりそうだ。
結局何度だって、何度だって私は貴方の全てに狂わされる。狂わされてしまうのだから…。
だからそんなの、貴方に言われなくたって私は、
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