君がただ“君だけ”になるために(2)
「貴方はここで私を“休ませたい”のですわよね? それはここまで私が答えを見つけられなかった問題で、それなのに貴方は今こうして問題の答えまで導いてくださっていますもの」
「リリーナ…」
“あぁ、またできなかった”、そんな忘れてすらいた感情が心の表面にまで顔を出す。
今の自分になるまでに数え切れないほど味わってきた自分の不甲斐なさから生まれるこの感情が、リリーナの中で暗いもやの入った箱が開くように広がっていく。
しかしそれも、自己満足で入れた頃はまだ良かったのだと、今ならば確かに思える。
今の自分はなんだろう。自分のミスに何度も他人を巻き込んで、たくさんの人から同じことを言われるほど何かを失っている。
その現状を“申し訳ない”と、“不甲斐ない”と思わないではいられない。
「貴方がそう言うのであれば、ますますこの場所をいただくわけにはいきませんわ。ここは上王様の思い出を大切にするためにあるのであって、私の不甲斐なさを補うために利用されていい場所ではありませんもの」
言いながら、沈み込むようにリリーナは目を伏せる。
だがディードリヒは、強い意志で彼女に言葉を返した。
「それは違うよ」
そう言った、言い切った彼に迷いはない。そしてリリーナはその言葉が確かに嬉しかった。
だが同時に、自分の不甲斐なさが情けなく後ろめたく…顔を上げることはできない。
それでも彼は、彼女をまっすぐに見つめ続ける。
「月と太陽は、毎日位置を変えるよね」
「…?」
突然飛び出た彼の言葉に、リリーナは少しだけ目線が上がった。
「リリーナの常により良くあろうとする姿は太陽みたいに眩しくて綺麗だけど、でも太陽だって一日のうちに場所を変えるでしょ?」
「…」
「君はいつだって輝いていないといけないって思ってるみたいに見える。でもそれは君を傷つけるんだ。時には月に光を任せて君も“一人の女の子”に戻る時間がないといけない」
ゆっくりと語りかけるような彼の言葉は、リリーナの膝に落ちた彼女の手に彼の手が重なりながら優しく紡がれる。
リリーナはその重なった手に視線を向けて、悔しいと言いたげにきゅっと唇を結ぶ。
「リリーナにとっては今が当たり前で、“当たり前”って変えるのがすごく難しいことなのを僕は知ってる。だからここは君にとって必要な場所だと僕は思ってるよ」
「…っ」
「確かに少し狭いけど…二人でのんびりするのには最高だと思わない?」
ディードリヒは最初、屋敷での経験から彼女を強制的に拘束することで時間を持て余したリリーナが己を休めるような行動に出るのだと思っていた。
だがそれは大きな間違いだったと、暫くしてディードリヒは思い知る。
リリーナにとって“常に努力を忘れず、己の立場に対して模範的であること”は最早当たり前のことなのだ。
誰かが見ている環境では、誰かに求められる環境では、彼女が自発的に精神を休もうという考え方を持つことはない。きっと彼女の中では精神的に張り詰めている自覚すらないのだろう、それが“当たり前”であるが故に。
だが他人から見たら彼女は常に張り詰めたピアノ線のように在ることなど明らかなのだ。
確かに何も知らない人間が彼女を見れば、常に余裕を持ち冷静に立ち回る彼女のその笑顔は薔薇のように華やかで、そして柔らかく見えることだろう。
だが彼女と親しくなればなるだけ、その姿こそハリボテなのだと思い知らされる。彼女は“何もない自分”が想像もできないからだ。
自分は常に求められる人間で在ることに価値があり、そう在らなくてならない…無意識で彼女はそう考え、全てを行動に移す。
「大丈夫だよ、リリーナ。そんなに唇に力を入れる必要なんて、ここではないんだ。血が出ちゃうからやめよう?」
「……」
では何故屋敷ではリラックスした彼女が見れたのだろう、そうディードリヒは長く考えていた。
一見あの屋敷は他人が…自分と使用人が居る。ならば彼女は休めないはずだ。
だが“秘密基地”には?
自分と彼女しか、あの場所には常にいなかったのだ。そして彼女を、“ルーベンシュタイン”の彼女を求める者は誰もいない…。
もしその推測があっていれば、この家ほど適した場所はないと、この間リリーナからこの家について問われた時にディードリヒは閃いた。
城の中には誰かしら自分以外の他人がいる。その他人たちは皆貴族としての彼女しか知らないのだから、当然彼女は当たり前に貴族として行動してしまう。
だから個室一つ用意して縛りつけても意味がなかったのだ。貴族としての彼女に声をかけにくる人間がいつくるかもわからないのだから。
だがここにそんな人間は来ない。ここは城の敷地の中でも目立ちづらい場所にあるし、このような古い一軒家に誰かが住んでいると思う人間がいたとしても、貴族のような華美なものを好む人間が積極的に来たりはしないだろう。
この家は心肺に問題を抱えたフランツが生活しやすいようにあえて狭く作られている。トイレや食事など移動が必要な場合でも負担が少なく、非常時には隠し通路も作られいる。
貴族的な生活とはまるっきり違うこの環境と、自分しか…立場のない彼女を求め受け止めてもらえた自分だけがいる空間が、今のリリーナにとっては大切なのではないかと…自惚れかもしれないとは思いつつもディードリヒは考えたのだ。
「リリーナ…きっと今“周りに迷惑をかけてる”って思ってるよね」
「それは…」
「でも僕はそんな君が好きだよ。リリーナが僕を振り回すたびに“僕がリリーナのそばにいるから巻き込まれてるんだ”って思えるし、そんなことでリリーナに何かできるなら嬉しいに決まってる」
「…」
貴方はそう言うだろう、そう思って視線を逸らす。
だって貴方はそう言ってなんでも私の悪いところをいいところみたいに言うもの、私は貴方がそう言ってくれるから嬉しくて“頑張ろう”って思える。
でもそれは、他人から自立しない理由にはならない。立場を忘れずとも、休むことはできるはずだから。
「…まだ、私にはやりたいことが」
「それは、今やらないと死ぬようなこと?」
「!」
何故だろう、彼の言葉に驚いて顔が上がってしまった。そうしたら彼の目はまだ真摯に自分を見ていて、そのまま釘付けにされる。
「リリーナが幸せじゃないと、僕は幸せになれない。そして幸せって一つじゃないでしょ?」
「…それは」
「やるべきことはやるべき時にやるから意味があるのであって、今リリーナがやるべきことは環境を整えて全部を忘れる時間を作ることだよ」
そんなはずはない、リリーナはそう思った。でもその言葉は自分に言い聞かせるようにも聞こえて、その齟齬に脳が混乱する。
だって、やるべきことをやるべき時はいつ訪れるかわからない。だから常に備えなくては、そして自分ならそれができる。
貴方に何かあっても、貴方に不安がないようにしたいと思う。
全部を積み重ねた私なら、少しはそれができるはず。だけれどそれはいつも上を目指さないと維持することもできないと私は知っているから。
だから、全部忘れていい時間なんてあるはずないのに。
「リリーナ」
「…」
「リリーナ」
「…っ」
彼の声が自分を呼んでいる。それは諭すようで、語りかけるようで。
どうしてその声を聴いていると手が震えるのだろう。どうして今、何かがせめぎ合うように脳が思考を巡らせて、それに合わせるみたいに鼓動がうるさいの?
積み重ねることしか私にはできないから、何もしなくていいなんてことはない。言い訳はできないし、必ず貴方に応えて見せるから。
だからそんな、心配そうな顔をしないで、と心が叫ぶ。
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