もう知らない、耐えられない(1)
***
「……」
「う…リリーナ、ごめんね?」
ディードリヒと目も合わせず一言も発言をしないまま、自室のソファで彼をわざと放置しているリリーナに向かって、ディードリヒは情けない謝罪をのべた。
だが相変わらず返事は来ない。
「…リリーナ」
「知りませんわ」
ピシャリと跳ね返される謝罪の言葉。ことの始まりは二人が城に帰ってきた時点に遡る。
首都に置かれた駅に到着した二人は、普段の調子でタウンハウスに向かうオイレンブルグ一家と別れ、そのまま馬車で城に帰ってきた。
だが普段ならばディードリヒの誘導のもと馬車を降りたリリーナは彼と二人で城の敷地内に入っていくというのに、今日は一人でスタスタと歩き去ってしまったのである。
これはリリーナが冗談の域を超えて怒っている時のありふれた様子であった。その姿に何かを察したディードリヒは彼女を呼びながらついていくも、そのまま放置されたので彼女の部屋までついてきて今に至る。
つい先ほどミソラが二人に紅茶を淹れて持ってきたが、彼女は部屋に入った瞬間ある程度空気を察し黙って紅茶を置いた後ディードリヒに軽蔑の視線を残して去っていった。
城の敷地に入ってからここまででリリーナが発したのは先ほどの「知りませんわ」の一言である。
一応ディードリヒも彼女の思考パターンから今リリーナが何について怒っているかを考え、自分の行動が感情的であったと慌てふためきながら謝り倒しているのが現状であった。
しかしこの状況はディードリヒにとって不幸中の幸いとも言える。本当に腹の底から怒っている時のリリーナはディードリヒを自分の付近に近寄らせない。ミソラに捩伏せさせてでも接触を拒否してくる。
そこまで拒絶されていないだけ、正直今はマシな状況なのだ。
「リリーナ、ごめんね…またあいつと喧嘩なんかして」
「…」
「本当に反省してるんだ。リリーナはことを大きくするのが嫌いなのもわかってるし…」
「……」
「本当はある程度僕もあいつと仲を保った方がいいのはわかるんだけど…」
ディードリヒの長い謝罪を聞いたリリーナは、彼の最後の発言からさらに五分ほど経ってようやく口を開く。
「…私といるよりも、ヒルドと喧嘩をしている方が楽しいのでしょう? お好きになさったら如何?」
冷え込んだ氷よりもさらに冷たく平坦とした声音のリリーナ。だがディードリヒは彼女の発言に強く反発する。
「楽しいわけない! あいつが僕とリリーナを引き剥がそうとしてくるから」
「私が貴方以外の居場所に向かうと?」
「そんなの、どこだって嫌だよ。たった一秒だって…」
「私が友人と恋人を天秤にかけていると貴方に思われている段階で、私は貴方から『信用がない』と言われている状況だとおわかりなのでしたら、許される発言ですわね」
リリーナの発言から、どうやら彼女が怒っているのは一点のみではないようだと察するディードリヒ。だがそれは、それこそ“今更”という話でもある。
元よりリリーナには、ディードリヒに述べていない感情のもやがいくつもあるからだ。
ミソラ側の感情は以前聞き出せていても、未だ二人の距離の異様な近さは気になっている。その上でラインハートの存在が、彼女は心の底から気に食わない。
自分の見ていないところで何があったのかは知らないが、ラインハートのあの人との距離の縮め方は当然、それを邪険に仕切らないで相手にしているディードリヒの姿が気に食わないのだ。
どう考えてもラインハートはディードリヒが相手をできるような人間性をしていないはずで、絶対にディードリヒが普段なら近寄りたがらない人間のはずなのに。
その上でヒルドと喧嘩をして自分を放置するなど信じられない。ヒルドは何も悪くない、全ては隣の男が安い挑発に乗っているのが問題なのだ。
相手が自分に嫉妬を向けるように、自分も相手から嫉妬を受けるのだと何度話しても本当に理解しているように思えないのにも腹が立つ。
彼が喧嘩をしている相手とリリーナの関係性が友人かどうかなど関係ない。そもそもの彼の在り方が不公平なのも、自分に向ける視線も問題なのだから。
「私はこれでも耐えてきた方だと自負しています。それは貴方も同じだと思ってはおりますが、貴方は感情的になるあまり他人に目を向けすぎる」
「僕は最初からリリーナに関することでしか怒ってないけど…」
「…ご自覚はないのですわね」
相手の反応にさらなる怒りが募る。
彼は本当に理解していないようだ。ミソラの安い挑発に遊ばれて、ラインハートから手合わせを理由に言い寄られて、ヒルドとリリーナの取り合いだと言ってずっと喧嘩をしているその光景の全てに、自分が何も思っていないと本気で思っている。
その上で自分がどこかに行くと思って、自分が彼に向けている感情を彼は何も理解していない。
なんて惨めなことだろう。目の前の相手の行動があるからこそ、それを受け入れたからこそ、こんなに悔しいことはない。
「う…ごめんリリーナ…僕は本当に、誰にも君を取られたくな」
「それは、私も同じですが?」
その瞬間、ようやくリリーナがディードリヒと目を合わせた。かつてないほどの怒りを見せる彼女にディードリヒは少し気押される。
「昨日も言いましたが、私が貴方に許しているのは私を見ることであって他人に目を向けることではありませんのよ! 私以外の人間など、全て貴方の得意な愛想笑いで済ませればいいというのに!」
「!?」
リリーナから飛び出た、感情だけの言葉に驚き困惑するディードリヒ。
しかしリリーナからすれば何を今更驚いているのかわかりもしない。自分だけが相手に感情を送っているとでも思っているんだろうか。
その思考が、彼女の怒りをさらに加速させる。
「どうせ貴方のことですから、貴方がヒルドを喧嘩をしていた状況に怒っていると思っているのでしょうけれど、その根本がそもそも間違っているのです! 私は貴方以外のところにはいかないと言いますのにどうして“貴方”が、“他人”を見ていますの!?」
「リリーナ、それは」
「それは? 何が言いたいと? 私はこれでも貴方の自由を尊重してきたつもりですわ。ミソラと不要に距離が近いと思っても、グレンツェ辺境伯となぜが距離が縮まっていても、ファリカの件もありましたから言わないでいたんですのよ!」
「リリーナ、まって、それ以上は」
「知りませんわ! 貴方は私にすぐ文句を言う割に私にかこつけて交友を広げていると気づいていて!? 最初からわがままを言うくらいなら、安い挑発など流して私だけ見ていればいいと言いますのに!」
少なくともディードリヒが見てきた中で、目の前の彼女がこんなにも感情的だったことはない。
このような、感情だけで話をして、わがままを押し付けて、いっそヒステリーに片足を踏み入れようとした彼女など見たことがないのだ。
確かに屋敷にいた時に感情を爆発させたことはあった。だがあの時の彼女は己の“矜持”の話をしていたのであって、少なくともこのような、
「…っ」
このような、個人に向けた醜い嫉妬などではない。
「…〜〜〜っ!」
そして投げつけられた感情に耐えかねたディードリヒは、未だかつてなく顔を真っ赤に染めた。
「なんですの、その顔は。少しは反省して…」
リリーナは目の前の彼に不服をぶつけるも、その言葉は言い切れず途切れる。なぜなら、顔面を茹蛸のようにした彼が突然抱きついてきたからだ。
「な、なんですの!? 貴方、話を聞いて…」
「ごめん。まって。今嬉しくて死にそう」
「…は?」
「だってリリーナが…リリーナだよ? こんな、こんなの、僕…」
断片的な言葉だけを呟いているディードリヒに困惑して、少し落ち着きを取り戻すリリーナ。対してディードリヒは未だうわごとのように感情のかけらのようなものをこぼし続けている。
「嬉しい…おかしくなりそう…リリーナ、リリーナ…」
「何を言っていますの…?」
「わかんないかなぁ…わかんないよね? わかんなくていいよ…はは…」
「ディードリヒ様…?」
流石にようすがおかしすぎる、そう判断したリリーナはひとまずディードリヒを自分から引き剥がす。幸い強い力で抱きしめられていたわけではなかったので、すぐに離れることができた。
しかし、
「あぁ、ごめん。見ないで…」
ディードリヒは急に利き手で自らの表情を隠してしまう。自分の一言が、今度は彼の何を動かしたというのか。
「今きっと、見せたらいけない顔してる」
見せてはいけない、こんな喜びきった顔など。感情が昂りすぎている。今の自分は悦楽と感激に震え、その感謝の感情で醜いに決まっているから。
「…ごめんね、今本当にうれしくて。反省しないといけないのわかってるんだけどすぐに感情が…ごめん」
「…喜んでほしい場面ではないのですけれど」
「うん…わかってる。まずは謝りたい、ここまでのこと全部…リリーナを一人にしたこと」
顔を隠したまま、大きく息を吸い込んで何度か深呼吸を繰り返すディードリヒ。それから彼は、ゆっくりと慎重に掌という仮面を外しできる限りまっすぐにリリーナに目を向けた。
「確かに僕は安い挑発に乗ってたと思う。君のことになると怖いのもそうだし、誰かが触れるのは本当に嫌で…過敏になってた。でもそれで君を傷つけるなんて自覚がなくて、っていうか…」
「…?」
「僕から君に感情や愛を送ることは考えてたけど、君から僕にこんなに強い感情を向けてもらえるって思ってなくて…」
「…」
ディードリヒの一言に、リリーナは“そんなところだろうと思った”と考えつつ眉間に深い皺を寄せる。だがそれを指摘するのはあくまで彼の話が終わってからだ。
「君が僕を受け入れてくれてるのでさえこの間やっと認められたのに、すぐにこんな…反省しないといけないってわかってるし真剣に謝りたいし、今後に活かしていくべきことなんだけど、本当に、嬉しくなっちゃって…」
(決して嬉しくなって欲しくて言ったわけではないのですが…そういう人ですわね…)
乙女のように顔を赤くしながら胸元を強く握るディードリヒの姿に、リリーナはそんなことを思いながらだいぶ平静を取り戻しつつある。
だが喜びを押し付けてくるのではなくこちらの話に耳を傾けて反省しようとしているだけ成長のような気もした。全くもって悲しい成長だが。
「だってリリーナが嫉妬するなんて、僕なんかをそんなに求めてくれるなんて思ってなくて…」
「なんですかその物言いは。私は聖女ではありませんのよ、ただ受け入れるなどするわけがないでしょう」
「え…まって…こ、呼吸できなくなっちゃう…」
「何故…?」
「嬉しくて…」
「…」
少なくともリリーナから見ると、ディードリヒのこういった反応は理解できる気がしない。
少なくとも本人が感極まっているのはわかるのだが、共感は勿論理解に辿り着くことすらできないのだ。
それに対して申し訳ないと思わないこともないが、やっぱりぼんやりとしていて掴めなかったのでやがてリリーナは考えるのを諦めた。
「…少なくとも気に食わないとおっしゃるならば何かしら考えますが」
「なんでそうなるの!? 僕は今嬉しくて死にかかってるんだよ!?」
「なら、その…嬉しい、ですが」
相手の強い言葉に対して何故自分まで赤くなっているのだろう、とは思うもののなぜか気恥ずかしいような、それでいて言葉の通り嬉しい気持ちになる。
これはこれで、ディードリヒが自分に向けてくる嫉妬に呆れつつもどこがで嬉しいと感じてしまう感情に似ているような。
「あぁ、本当に嬉しい。また一つリリーナが僕のことを好きでいてくれてるんだって実感できる」
「そ、それは…」
「だからやっぱり二人だけで生きていったほうがいいよね!」
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