ある意味これは全ての始まり
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「あいにくではございますが殿下、今日リリーナは私の部屋で眠ることになっております。本日の蜜時は諦めてくださいませ」
「ほう? オイレンブルグは客人に部屋を用意しないと言うのだな。無礼な話だとは思わないのか?」
「今日のことは事前に二人で決めていたことですもの。ね? リリーナ」
「えぇ、それはそうですが…」
ディナーを終え食後のもてなしとして出されたミルクティーをローテーブルに置いたまま、リリーナは目の前の言い合いに困惑している。
今リビングにはリリーナとディードリヒ、ヒルドの三人しかいないが、つい先程までキーガンとグリゼルダの姿もあり和やかな空気が流れていた…はずなのだが。
今日一日オイレンブルグ邸にて過ごしたリリーナは、この屋敷の女主人でありヒルドの母であるグリゼルダ夫人のもてなしの手腕に感動を重ねていた。
グリゼルダは一見消極的でもの静かな印象ながらなにかとこちらを気にかけてくれていたのだが、細やかな気遣いを何かと感じることが多く流石は公爵家の夫人であることを納得させる。
話しかけて問うたことに対しての反応の速さ、紅茶を新しいものへ取り替えるタイミングを正確に判断するメイドたち、くまなく清掃の行き届いた庭や屋内、鉄道を利用したとはいえ長い移動を経てオイレンブルク領へやってきたリリーナたちを労る気持ちが伝わりながらも華やかさも忘れないディナーのメニュー…。
少なくとも今日ディードリヒが来ることは急に決まったことだというのに、出迎えからもてなし、使用人たちの行動までもが鮮やかに整えられている。これは普段からはっきりとした規則を設け、使用人たちへの的確な指示ができているグリゼルダの女主人としての手腕が常に有能であることを示していた。
規律の整った動きというのは一朝一夕でできるものではない。常日頃から使用人とそれを取り仕切る女主人が有能であるからこそ、今回のようなイレギュラーにも正確に対応することができるのだから。
そんなグリゼルダが食後の紅茶をミルクティーにして出してくれたのも、眠る前の温かな時間に対する気遣いの一つだろう。敢えて少しミルクを多くしてあるロイヤルミルクティーは、疲れた体に優しく染み渡る。
だが穏やかな時間の中、キーガンとグリゼルダが諸用を理由に一度席を外すとディードリヒが何気ない様子で「後で部屋に行ってもいい?」とリリーナに問うたのが、全ての発端だった。
リリーナが“今日は難しい”という旨を伝えようとした時、彼女が口を開く前にヒルドが「申し訳ありません殿下、本日は諦めていただきたいのです」と口を挟み若干の睨み合いから今に至る。
「ここはオイレンブルグの屋敷でございます。王城とは訳が違うのですから、リリーナの意思を尊重していただけないでしょうか?」
「それとこれは話が別だと思うがな。公爵位の家が客人に部屋を与えないなど聞いたことがない。お前は親の顔に泥を塗ろうと言うのか?」
「リリーナの部屋はきちんと用意させています。そんなありきたりの皮を被った文言など結構、素直にリリーナと夜を過ごせないのが嫌なだけでしょう? 無理やりついてきた挙句に彼女の自由まで奪おうだなんて、紳士として信じがたいわ」
一見静かな話し合いのようにも見えるが、会話の内容が言い合いではなくいがみ合いになってしまっているのは明らかだ。こんなに冷え込んだ空気など早々味わえるものではない。
「口の利き方に気をつけろと教育されなかったのか? オイレンブルグ公爵令嬢。お前は今誰に喧嘩を売っているのかわかっているのだろうな?」
「私に見向きもしなかった王太子様ですわ。貴方というお人は私の未来だけでなくて友達との時間まで奪うおつもり?」
険悪と言って過言でない状況に困惑したままのリリーナ。
今の状況では、自分がどちらかに加担した瞬間どちらかを傷つけてしまう。ディードリヒが最愛たる存在なのは確かだが、ヒルドとは事前に“今日はベッドで話をしながら寝よう”と約束をしているのでそれを無碍にもしたくない。
「ひ、一先ず二人とも落ち着いてくださいませ」
「ごめんねリリーナ。今は難しいよ、来るべき時が来たんだ」
「あら、こんなことばかり気が合うだなんて信じられませんが私も同じことを考えていました」
困惑の籠った制止で二人が止まるはずもなかった、とリリーナは反省する。かといってもう一度同じことを言ったところで二人の間で散る火花が収まるような気もしない。
キーガンやグリゼルダがいれば最低限ヒルドに一言注意を入れることはしてくれるだろうが、あいにく二人は今ここにいないとなると…どうしたものか。
「殿下は普段からリリーナを独占しているようなものなのですから、三日程度くらい貸してくださいな。リリーナにはリリーナの人間関係があるのですから」
「それは承知の上だ。しかしオイレンブルク公爵令嬢、君とリリーナの親交は少し深すぎるように僕は感じている。リリーナは僕の婚約者だ」
「あら、嫉妬ということでしょうか? 未来の王たる者がなんと器の小さいことでしょう、嘆かわしいわ。私とリリーナは対等な友人なのですから、一晩ベッドでお話しするなんていつものお茶会と何も変わりませんのに」
「対等とはよく言ったものだ。僕を差し置いてリリーナを独占しようなど許されるとでも?」
「そのような言い方では、まるで私がリリーナの貞操を奪おうとでもしているようではありませんか、ひどい言いがかりだわ。それにはしたない」
「お前がそう感じるということは、何か後ろめたいものがあったんじゃないか? やはりリリーナをお前のところに置いておくのは不安でしかないな」
居間の空気が真冬のように冷え込んでいく。とても今が春だとは思えなくなりそうだ。
言い方がよくないかもしれないが、ディードリヒにとって自分がヒルドと…というか気心の知れた友人と同じベッドで眠るのはそんなに気に食わないことなのだろうか。ヒルドもヒルドで食い下がっているあたり、昼に言っていた通り今日という機会を楽しみにしてくれていたことは伝わってくる。
正直リリーナとしては、自分にとってとても大切であるがゆえに二人にはある程度穏やかな仲を維持してほしいのだが、なぜ今のような空気になっているのだろう。
もうやけがさして三人で寝たら解決するのでは、と一瞬脳裏に過ぎったもののそれはそれで二人にあらぬ噂が立つのでやめようと思考を遮った。
どうしたら二人にせめて制止が効くか…と頭を悩ませていると、ノックが一つ入ってくる。リリーナが音のした方に体を向けると、キーガンがドアを開けて半分ほど身を乗り出した状態でこちらに声をかけた。
「殿下、少しお時間をいただきたいのですが…」
「すまないが今は忙しい。公爵の愛娘殿と重要な話し合いをしているものでな」
「そうですお父様。もう遅いのですし、お話は明日のほうがよろしいのではなくて?」
かけられた声に目も向けず返事をしながらも睨み合う二人。その様子を見たキーガンの今にもため息をつきたいと言わんばかりの姿に、リリーナは内心で静かに同情する。
だが、驚くでもなく呆れた様子を見せるあたりドアの前で話を聞いていたのだろうか、とリリーナは少し気になった。
今のキーガンは、まるで言うことを聞かない子供に向かって「やれやれ」とでも言いたげに見える。
「申し訳ございません殿下、ここでしかお話しすることのできない重要な案件でございまして…どうかお時間をいただければと」
一度呼吸を落ち着けたキーガンが一言食い下がった。すると意外にもディードリヒは目の前の睨み合いをやめキーガンに視線を向ける。
少なくともディードリヒにとってキーガンが“重要”という言葉を使う時は、本当に外せない要件であることばかりだ。
ディードリヒから見てもキーガンの仕事に対する姿勢は見上げるものがあるゆえに、渋々であろうがキーガンの呼び出しには対応した方が良さそうだ彼はと考える。
「…わかった、今向かう」
ディードリヒは不服を拭いきれない様子でソファから立ち上がり、ヒルドとの“話し合い”を一時休戦とすることにしたようだ。ヒルド本人も何も言わないあたり、父親の発言を優先し言外にディードリヒの行動に同意したのだろう。
だがディードリヒは去り際ヒルドを見ると「決着はつけるからな」と残してからソファを離れキーガンと合流する。
「ヒルド」
そんなディードリヒの背中をヒルドが睨みつけていると、キーガンが彼女を呼ぶ。
「はい、お父様」
「もう遅いから早く寝るように。同じ部屋で寝るならお友達もな」
「!」
キーガンはそう一言言い残すと、ディードリヒとともに部屋を去っていった。閉まったドアを見届けてからリリーナが振り向いていた体を戻すと、向かいのソファに座るヒルドが目を見開いたまま固まっている。
「…どうしたんですの?」
恐る恐る声をかけるリリーナに、ヒルドは見開いた瞳のまま視線をリリーナに向けた。
「いえ、その…うまく言えないのだけれど、少し驚いてしまっていて」
「何かあったということですの?」
「お父様が…いえ、もう少し落ち着いてから話すわ。とりあえず私の部屋に行きましょう」
「…? わかりました」
ヒルドの様子は明らかにおかしいが、一息ついて落ち着きを取り戻しつつあるもののまだ少し混乱いている様子の彼女に踏み込む気にもなれず、一度言われた言葉を受け入れる。
だが確かに、先ほどのキーガンの様子はリリーナにも見ていて引っかかりを感じるものがあった。
先ほどのキーガンは、どうやらヒルドとディードリヒが険悪な雰囲気であると察した上で“話し合い”をしている二人に、いやヒルドに注意を入れなかったのがリリーナには少し気になる。
何を話していたかをキーガンが知っているにしてもそうでなかったとしても、娘が王太子であるディードリヒと真っ向から睨み合いをしているなど“無礼だ”と叱り飛ばしてもおかしくない光景だというのに彼はそれをせず、あくまでやんわりと二人を引き離した。
キーガン・オイレンブルグ公爵は、現王であるハイマンに対し厚い忠義を捧げているので有名であり、礼節に厳しく階級思考が強いと言われている。その上でその仕事ぶりは合理性が最優先で、時に非情な議題を承認する場合があるとも、リリーナは聞いたことがあった。
そこにヒルドの言っていた“学んだことを復習する時間”についての話が重なれば、自然とヒルドが階級を重んじ礼節を弁えた行動をとるように厳しい教育をされているであろうことは明白になる。
だが先ほどのキーガンの行動からそれを感じさせることはなかった。偶然だったのだろうかとも思うが、そう思うには少し不自然にも思える。
先ほどヒルドが固まっていたのも、自分と同じようなことを考えたからなのだろうか…そう思いつつ、小さなわだかまりを抱えたままリリーナは自室へ移動するヒルドの後ろを歩く。
私は“聡い”“頭がいい”とされるキャラクターが「明らかにおかしいだろ」と読者が突っ込むような点にフラグもなくスルーする描写が苦手です
後からネタバラシがある(つまりキャラが気付かないフリをしていた)、何か気づいているような描写はあるけどキャラが大きく動かなかった、気づくべき点の視点が物語からはややズレたミスリードであった、などであればいいのですが…単純にただスルーして挙句に果てに後で驚いている、という展開になってしまうとツッコミを入れたくなります
なので、リリーナ様には長考してもらいました。リリーナの憶測があっているかは別として、やはりあぁいった描写はキャラによって使っていきたいところです
そしてディードリヒとヒルドの仲に亀裂が入りつつありますね。入りかけというよりはもう半分くらい切れてそうですが
リリーナから見た通り、普段城で見かけるディードリヒとヒルドは社交辞令程度の挨拶をしたら終わり、みたいなドライな仲です
なのでリリーナ様は「どうしてこうなった」となっています。頑張れツッコミ役
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