アポを取り、確実に、自分を売り込むこと(1)
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「ですから、ルーベンシュタイン様に下働きのようなことをさせるわけには…」
とある午前中、ディードリヒが執務を進めるための執務室において、ある男がやんわりと相手の要求を断るも食い下がられている。
だが要望を断られ食い下がっているのはリリーナだ。であればディードリヒが彼女の要望を断るなど早々ある話ではない。
実際に困っているのは執務室にいる三人目の人間、ディードリヒの秘書であるミイルズ・シュヴァルツヴァルト。
本来冷たい印象すら与える整った切れ長の吊り目は困ったように下がった眉に釣られて目尻を下げ、その奥にある琥珀色の瞳は明らかに動揺している。暗めの橙色の髪をオールバックにした背の高い青年は、自分よりずっと背の低いリリーナに詰め寄られ困り果てていた。
ミイルズはディードリヒを通して今日リリーナが執務室を訪問することを知ってはいたが、まさかその中身が「ディードリヒの仕事を手伝わせて欲しい」という要望を直に交渉するためだとは思っていなかったからである。
正直突っ込みたい部分が多すぎて対応に困っている、というのが今の彼の状況であった。
「上王妃様は上王様と共に国政に深く関わっていたと聞きます。私も本格的にこの地に住まうものとして、ディードリヒ様に万が一起きた時にために常にお支えできる人間であるべきだと考えたのです」
「お気持ちは大変素晴らしいものと思いますが、殿下のご職務は主に議会への出席と承認案の最終決定となりますので…ルーベンシュタイン様にお支えいただきたい部分は否が応にも下働きの様なものになってしまいます。仮にも王太子妃になろうというお方がそういった扱いを受けるのは、外聞がよろしくないかと」
リリーナの言葉が真摯的で真剣であることは、ここまであまり交流のなかったミイルズにも伝わってくる。だがやはり彼女の扱いを自分が許容するわけにはいかない、こんな場所で自分のやっていることの更に補助のようなことしか任せられない現状ではとてもリリーナの立場を容認するには難しい。
「リリーナがこの部屋にいてくれることに何の不都合があるって?」
「殿下は少し黙っていてください。ややこしくなってしまいますので」
ミイルズとしてはディードリヒにもリリーナの交渉に加わって欲しいほどだ。
事前に訪問を伝えアポイントを取った上でこの場に現れ、真摯な態度で要求を述べているリリーナの言葉に嘘はないだろうし、正直に言ってしまうとありがたい提案でもある。
だがやってほしい作業など書類の整理、分配や必要な資料を都度用意する程度のことで、そんなものは子供でもできてしまう。とてもリリーナ・ルーベンシュタインという隣国の公爵令嬢で、未来の王太子妃で、輝かしいカリスマと美貌と知性で民の人気を引く存在にやらせるような仕事ではない。
かといって雑用と一口に言ってもディードリヒの立場上機密書類を扱うことも多いため、信頼できるであろう人間に頼みたい仕事でもあると考えると、元来人間不信なのが透けて見えるディードリヒが全幅の信頼を置いているリリーナが手伝いを申し出てくれたのはありがたいと言わざるを得ない状況なのが更に悩みどころだ。
だとしても今し方ディードリヒの口から出た発言はおそらく要らぬ欲に塗れているのでそれは無視するが。まともに話をする気がないなら黙っていてほしい。
「いいじゃないか、ミイルズは何でも自分でやるせいでいつも過労なんだから」
「そういう問題で済めば軽い方だと貴方もわかっているでしょう。何が悲しくて未来の王太子妃に下働きの様なことを頼まなくてはいけないのです」
「リリーナが淹れてくれた紅茶があれば僕の仕事効率は三割上がる。断言する」
「バカなことを言わないでください。自分の婚約者を何だと思っているのですか、貴方は」
「片時も離れたくない唯一無二のお姫様」
「…」
眉間に深い深い皺を寄せ大きくため息をつかざるを得ないと言わんばかりに首を振るミイルズ。それでもため息をつくに至らないのは公爵家の当主である故の忠義の表れなのだろうか。
リリーナは二人のやりとりを聞きながら、ディードリヒに遊ばれているミイルズに同情し、ふざけ倒している恋人を強く睨みつける。だがリリーナの強い怒りに満ちた視線に対して当のディードリヒはにっこりと笑い返してきた。少なくとも反省するつもりはないらしい。
「…殿下、貴方はそこまでしてルーベンシュタイン様をお側に置きたいと?」
何とか荒れる感情を抑えて言葉を絞り出すミイルズ。王太子の秘書の立場としてのミイルズは、ディードリヒの側にリリーナを置きたくないのが本音だ。
シュヴァルツヴァルトの家系は領土の六割を占める“黒い森”と呼ばれる地域を管理するのと同時に、代々王族の秘書としてその執務に関わってきた家である。
神話に現れる悪魔と呼ばれた人外の生き物を封じた洞窟のある曰く付きの土地を管理する役目からやがて相談役として王家との関わりを変化させ、結果的に今は国王、そしてその王位継承者の執務やスケジュールの管理をする立場に落ち着いた。
神話に関わりがある程度には王家との関わる歴史が長く、同じく長い歴史を誇るオイレンブルグや今は降格してしまったシュヴァイゲン家とは馴染みの仲として扱われることが多い。
そんな彼なので、当然ディードリヒとの付き合いは長く歳も同じなのだが、ミイルズから見るとディードリヒ・シュタイト・フレーメンという男はリリーナをこの国に迎え入れてからすっかり変わってしまったように見えている。
それまではどちらかというと冷静で静かな人間で、人間不信であることを隠そうとせず必要な場面では愛想笑いしかしない印象であった。
歳や将来的な立場が近いからといって深い関わりがあったわけでもないので、自分の目には見えていない彼は確かにいただろうとは思う。しかしだからと言って、リリーナが来てからのディードリヒはまるで違うと言っていい。
確かにリリーナが関わらなければ大差ないが、一度彼女に出会って終えば馬鹿のように彼女に付きまとい、構い倒し、周囲に見せつけるようにいちゃついている。
そんな人間が、当の彼女が目の前にいる状態でまともに仕事をするとは到底思えない。何を根拠に信じればいいのだろうか。
だが頭ごなしに否定できるほど自分には強気な行動に出れない理由がある。案の定ディードリヒはミイルズの言葉に「いや?」と否定的な枕詞をつけて返答してきた。
「勿論リリーナはいつだって側に置きたいけど、状況を見てリリーナの提案を受け入れるのがいいと思ってるだけ。僕はリリーナを信用しているし、ミイルズにはもっと任せたい仕事もある」
「ディードリヒ様…」
「何より僕は万能でも不死身でもないからね、有事に際して動ける人間が信用できるならそれが多いに越したことはないだろ?」
「…貴方という人は」
“これだから頭ごなしに否定できないのだ”、そう内心で呟きつつ、同時に脳内でのみ大きなため息をつく。
ディードリヒは初めから自分の反応などわかっていたのだろう、それをわかっていてふざけたようなことを言っていたのだ。ミイルズから見て、いやディードリヒの周りにいる人間の大多数から見て、ディードリヒはそういう男である。
状況を理解した上で、何かしらの理由があった上で、ふざけていい場面か見てから相手の神経を逆撫でする…何とも嫌なやつとしか言いようがない。
だがディードリヒは公私を分けて基本的に行動しているのはミイルズにもわかっている。リリーナを見掛ければすっ飛んでいくのは事実だが、長々と絡むことはなく五分ほどリリーナで遊んだらあっさりと次の予定に向かいいつも通りに仕事をこなすのだから。
そんな彼がリリーナの要求を飲もうというのは、流石に何か理由があるのだろうとすぐに思いつく。確かに一度「リリーナを毎日一日中執務室に置きたい」などと言い出した時は目が本気な割に私欲に塗れていたので突っぱねたが。
「リリーナの能力なら僕が保証するよ。彼女は手ずから経営している店もあるから声はかけてなかったけど、本人から希望してくれるなら申し訳ないけどこんなにありがたいことはない」
「それはわかりますが…」
「お前がリリーナに振り分けたい仕事の中身は予想がつくから言うけど、書類の整理や資料の分別から学べることはとても多い。むしろそれができないとそこから先には進めないんだ。僕だって父上の手伝いはそこからだったわけだし」
そうは言いつつ、ディードリヒとしてはリリーナにこれ以上予定を埋めるような行動をとってほしくない気持ちは変わっていないので心境は複雑である。
だが世の中には非常事態という言葉がある通り、本人に備える気持ちがあるなら備えてほしいと頼らざるを得ないのが王政という政治方式だ。
海外には王族というものはすでに形骸的なもので王族が国政に関わっていない立場になっている国もあるそうだが、フレーメンはそれに当てはまらない。内政も外政も代表者と最終決定は王族の裁量に委ねられている。
今はハイマンが国王として現役であり上王であるアダラートも健在であるが、二人が明日死なない保証はどこにもない。それは自分も同じこと。
ならば備えなどいくらあっても問題はないのだ。自分に何かが起きたとしても、リリーナの持つ高い知性と強いカリスマ性があれば有事を任せることはできるとディードリヒは考えている。
「シュヴァルツヴァルト公爵、私の予定というものは基本的に融通のきくものが多いですわ。急にディードリヒ様のお仕事を全て代わろうという話でもありませんので、少しばかりお手伝いをさせてもらえませんこと?」
リリーナの予定の中で融通が利かないのは、基本的にヴァイスリリィに顔を出したり、ディアナなど自分より上の立場の人間に声をかけられている場合だ。
ヴァイスリリィには基本的に事務仕事や取引先との交渉など、店の経営に深く関わるものが多いので大きく予定をずらすことはできない。店の経営が安定し、規模の大きくない店だからこそ毎日顔を出さなくても仕事が成り立っているのも事実である。
確かに社交を主な役割として担う以上、見た目は小まめに整えなくてはいけないし、自らに課した姿勢やダンスの小まめな見直しなどもあるがそこばかり気にしているのならば他にもやることがあるとリリーナは考えているのだ。見目や基礎を蔑ろにはしないが、常に自分のできることを模索している。
本来貴族など遊び呆けて金を浪費するのも仕事といえば仕事だが、リリーナは単純にそういった行いが性分に合わないので別のことをやっていることが多い。ただし買い物をすると決め、自分が気に入ったものには金の糸目をつけないようにしている。
「お二人にそうまで言われてしまうと、自分は立場がないのですが…わかりました、では書類の整理からお願いします」
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