常連客とオーナー(1)
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ダイエットを始めて五日が経つ。
今日リリーナは、なんとか頑張って自力で早朝にベッドから抜け出し洗面所に置かれた体重計と向き合っている。
「…」
正しく緊張の一瞬だ。呼気は少しばかり震えている。
ここまでの記録では順調に減って行っていたので、大丈夫だと頭ではわかっているのだが、今日は勝負の日だ。期待と不安が心を巡る。
「…っ」
そろり、と片足を上げた。
ネグリジェのまま上げた足を体重計に乗せると、カシャンと独特な音を立ててメモリの数字を指す針が大きく揺れる。
だが片足だけでは体重はわからない。そのままもう片足もゆっくり乗せて、ぐらぐらと揺れる針が収まるのを待った。
やがてぴたりと針は止まり、その先に示された数字は…。
「…!」
***
ディードリヒ曰く、今日の彼女は朝からやたらとご機嫌だったという。
だがそれも無理はない。リリーナは無事ダイエットに成功したどころか、目標よりもさらに一キロ痩せることができていたのだから。
所詮は付け焼き刃なので今後も体型には気をつけなければいけないが、一先ず今日着る予定だったドレスは問題なく入るので目標は達成だ。
本当は記念日にプレゼントでも、と思ったのだがここ暫く祝い事が続いているので保留となっている。機会を見てこっそりと用意したいところだ。
今日のデートでは観劇をすることになっている。本当は移動遊園地が来ていると聞いたのでそちらに行きたかったのだが、安全面が心配だと却下されてしまった。移動遊園地の器具は持ち運びの問題上分解と構築を繰り返しているので、場合によっては事故が起きるらしい。そう言われると仕方ないとも思うが…さぞ楽しかったろうと思うとやはり残念だ。
だが首都で長く活動している劇団の作品を観ることになっているので、それはそれで楽しみでもある。
開演は夜なので、集合も夕方ごろとなった。
なので今、リリーナはヴァイスリリィにて絶賛仕事中である。
「リリーナ様、来月のシフト調整なんだけど…」
「リリーナ様、今度の新作の話ソフィアからされてるんですけど、本当に許可出しました?」
「リリーナ様、問い合わせが来てるんですけど…」
前回来た時から少し間が開いたからだろうか、従業員からかけられる声が止まらない。一つ終われば一つ何かが発生する。ついでに言えば今アンムートが言った新作の話については許可以前にそんな話も知らない。
さらに言えばこの状況が落ち着いたところで、やることは山のように待っている。
商品の売り上げを確認し仕入れやアンムートに用意してもらう品数の調整や、備品として申請されているものの中から経費で落とせるものも確認しなければいけない。ただでさえ昨日終わり切らなかった仕事だ。気合いを入れなければ。
特に備品に関しては、時折従業員の食べた菓子や個人のものと思しき化粧品などが含まれていたこともあり、本人に話を聞くこともしばしば。
面倒な難癖をつけたいだけのクレーマーはバートンが隣にいてくれれば大きく手を出さないことが多いが、自分がいる場合は自分が話をしなければならない。
バートンはあくまで自分の身を守ために側にいてくれるのであって、クレーマーとはいえ客を恫喝するためにいる訳ではないのだから。
そういう意味では、今日まはだそんな面倒ごとには巻き込まれていないのでマシだと言えるが…。
オーナーというのは、結局何かと忙しい。本当ならば毎日店に顔を出し仕事をすればいいのだが、そうもいかない時も少なくないので結果的にまとまった仕事を一気にこなす羽目になる。
それもこれもこの店が存続している証拠なので、ありがたいと思いこそすれやっかむことではないのだが。
そしてこの始まって短い店にも常連客というものが既についてくれている。
「ルーベンシュタイン様、お久しぶりでございますっ」
目の前にいるこの少女は、その常連客の一人だ。
「お久しぶりですわ、シュピーゲル伯爵令嬢」
イドナ・シュピーゲル伯爵令嬢。
芦毛の馬のような白髪にライトグレーの瞳を持つこの少女は、国内でも有名な観光地であるシュピーゲル領を管理する伯爵の娘である。
いつもフリルのついた甘い雰囲気のドレスにボンネットをかぶり、少し派手には見えるがマディほどあからさまなものではない。
そして少女とは言いつつも歳はリリーナと同じで、そういった側面もあってかリリーナが店に顔を出しているとよく話しかけてくれる人物でもある。
「ルーベンシュタイン様にお会いしたくてお母様と首都へ先乗りいたしましたのっ。近頃はお店でお見かけしませんでしたので少し心配しておりましたわ」
「陛下御一家にお誘いいただいて暫くエーデルシュタイン領の方に滞在しておりましたの。ご心配をおかけしましたわ」
「エーデルシュタイン! あそこのアウイナイト鉱山はまだ再開の見込みがないと聞いていますが…あぁ、王家の別荘があると聞いたことがあります。そちらへ?」
「えぇ、素敵な場所でしたわ」
いつも通り外向きの笑顔で返すリリーナ。
対して相手にそういった様子は見受けられないが、これはいつものことだ。初めてこちらに声をかけてきた時からイドナは若い年頃の女性らしい明るく若々しい印象で、いつも何かしら楽しそうにしている。似たような話し方なのに、自分とはまるで対照的な女性だ。
「まぁ! 私も行ってみたいですわ〜! ですが今度シュピーゲルにも是非いらしてくださいませっ。手厚くおもてなしさせていただきますわ。勿論、殿下もご一緒に!」
「ありがとうございます。シュピーゲル領はガラス工芸の有名な土地ですものね、ディードリヒ様もいつか視察に参りたいと申しておりましたわ」
あいにく、この発言には嘘が混ざっている。
ディードリヒは自分からすすんで視察になどいかない。基本的に面倒くさがりな男なので必要がないことまで率先して行わないからだ。
リリーナが行くと言えば是が非でもついてくるだろうが、逆に言えば彼にとって視察など常に“仕事”でしかない。
なので、実際のところシュピーゲル領を見に行きたいのはリリーナの方である。
シュピーゲル領は鉄道の通る駅が置かれた観光地で、この地で作られたガラス製品は大変有名だ。個人としての知見を深めるだけでなく、将来的にもその経験は活かされるだろう。
それでもここでディードリヒの名前を出したのは、彼女の父親にも話が向かう可能性があるからだ。イドナが何かの話題でこの話をした際、“ディードリヒも興味を持っていおるようだ”と彼女が話してくれればではあるが、確実にシュピーゲル伯爵にこの話の印象を残すことができる。
個人的に考えていることがあるゆえに、そういった機会は逃したくない。
「嬉しいですわ〜! ルーベンシュタイン様がいらしてくださることを期待しております!」
「えぇ、私も楽しみにしておりますわ」
ふと、そこでリリーナは店の奥に向かって手を差し向ける。
「シュピーゲル伯爵令嬢、本日はせっかくお会いすることができましたのでこのような場所で立ち話というのも少し勿体無く思いますわ。奥に部屋がございますので、よろしければ少し休まれてはいかがでしょう?」
急な提案ではあるが、果たして乗ってくれるか…と思いつつ相手を部屋の奥へ誘う。これ自体は前々から決めていたことだ。だが、相手に無意味な緊張感を持って欲しくはないので“ふと思いついた”という体裁を取る。
だが、相手からは予想外の結果が返ってきた。
リリーナの提案に表情を明るくさせたイドナは、やや悔い気味に反応している。
「それはルーベンシュタイン様とお茶をいただけるということですの!? 是非喜んで、時間はいくらでもございますもの!」
大喜び、といった様子でリリーナに言葉を返したイドナは、リリーナに案内されるまま店の奥へ向かう。
リリーナは道すがらグラツィアに声をかけお茶を用意してもらうよう頼むと、イドナを連れてある部屋に入った。
そこはリリーナが普段利用している部屋で、彼女はここで書類仕事を片付けることも少なくない。だが基本的にはこういった来客に備えた部屋なので、そういった痕跡は残さないよう気をつけている。
「おかけになって、今お茶を用意していますから」
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