この喜びは、認めてはいけない罪だ(1)
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「…夢を見るのです」
あの空き部屋から出た瞬間、ディードリヒはリリーナの手を掴むと迷うことなく自分の部屋に向かった。リリーナがそれに抵抗するような様子はなく、部屋に入った瞬間ベッドに放り込まれディードリヒがそのまま彼女を組み敷こうとも、彼女は何も言わないまま押さえつけられている。
ただ全てを受け入れているリリーナは、視線を合わせることだけはしない。その中で訪れた沈黙に一つ、そう呟いた。
「夢?」
「貴方の低い声が聴こえる夢を見ますわ。その中で、私は毎日のように己の罪を自覚しますの」
ぽつりぽつりと話すリリーナは、自分に覆い被さるディードリヒから顔を背け続けている。しかし珍しくディードリヒがそれを指摘する様子もなかった。
「貴方が甘く低い声で私の名前を呼ぶ度、貴方の濁ってしまった瞳が私を映す度、貴方の根底にある泥のような感情が自分に向いていること感じる度、私は己の罪を自覚する」
「…何が罪なの?」
彼の問いに、リリーナは一呼吸程度の時間沈黙する。それから、心を決めたように唇を動かした。
「その全てを“嬉しい”と思ってしまうこと」
「!」
驚きのあまり目を見開くディードリヒをそのままに、リリーナは言葉を続ける。
「滑稽ではありませんこと? 貴方のそれを否定して、貴方を連れ出したのは誰でもない私ですのに」
リリーナは一見無表情のままだ。だがその声音は自身を嘲笑い、同時に途方に暮れている。
「確かに私は、貴方の感情を否定したことはありません。ですが『そのまま立ち止まってはいけない』と申したのも私ですわ。それは確かに、貴方の望みを否定している」
「…」
「貴方の持つその感情は、確かに破滅へと繋がっていくものです。だからこそ連れ出したといいますのに、それを向けられて喜ぶなど矛盾もいいところですわ」
目の前の男から顔を背ける彼女の視線が動くことはない。まるで“向けられる顔などない”と言うように。
「私の願いに嘘はありません。私は誰が見ても貴方が幸せに見えるように、貴方を幸せにしてみせる。だからこそ、この感情は時と場合を使い分けなければいけないのです」
「使い分け?」
「えぇ、そうです。表向き幸せの形に嵌っていても、それは本当に貴方の幸せでしょうか? 貴方の望みの中に私と二人きりの破滅が存在する限り、密かな時間であろうともその願いを叶えたいと思ってしまうのです」
ディードリヒは、リリーナから溢れる言葉の数々に耳を疑い、言葉を失う。
まるでこんな言葉は、幻聴のようだ。
そう思い目を見開いたまま彼女を見るディードリヒの姿を、リリーナは見ていないのだが。
「所詮そんなものは擬似的でしかありませんし、貴方が本当に幸せを感じてくださるかはやってみなければわかりません。ですが私は強欲な女ですので、できることは全て行いますわ」
「リリーナ…」
「ですから、貴方のあの視線を“嬉しい”などと口が裂けても言ってはいけなかった。それを認める私はずるく、浅ましく、それこそ本当に自分のことしか考えていないのです」
本当に浅ましい。腹の底から自分を軽蔑する。
何度貴方を否定しただろう。愛と嘯いて、前を向くと言って、貴方の破滅を否定した。
言葉に嘘はない。前を向く幸せも本当で、それが一番いい選択であるという気持ちは変わらないから。それなのに一方で破滅を招くそれを受け入れたくなってしまう自分を軽蔑する。
「発言には責任を持つべきですわ。ですが今の私にそれはできていません。そして貴方がどんな私でも愛してくださると言うのならば、私はいつだって強い私を好きでいてほしい。こんな自分は見せたくありません、だから黙っていたのです」
最後にそう言い切って、リリーナは完全に黙り込んだ。
ディードリヒはピタリと動かなくなった彼女の白い首筋を眺めながら、少し浅い呼吸で彼女に問う。
「…どうして、リリーナは僕のその目が嬉しいって思ったの?」
震える声音の問いに、リリーナは初めて視線をディードリヒに向けた。ゆっくりと動く頭部が布ずれの音を立てながらベッドに広がる髪を乱す。
「私の“努力”を愛してくださったのは、貴方だけですもの」
その一言に、ディードリヒは目を見開き少し強く息を吸い込む。
リリーナは視線こそ彼に向いているものの、その様子を気に留めず真っ直ぐに彼を見つめながら言葉を続けた。
「両親やミソラは『やめろ』と言いました。第一王子殿下は去っていくだけでした。他の人は…私を表面しか見なかった」
「…」
「だけど、貴方だけは愛して、追いかけて、ここまで来てくださいましたわ。その感情が重たければそれだけ、逃げられないのであればそれだけ…私は貴方に本当に愛されているのだと感じることができる」
リリーナの静かで、落ち着いた言葉にディードリヒは何も返すことができないでいる。
彼女の言葉の一つ一つを処理するので思考が満杯になってしまって、言葉を返す余裕などかけらもない。
ただ強いて言うならば、今聞いている彼女の話の全てが彼にとって思ってもない言葉だということだけ。
「今でも貴方のやり方が正しかったとは思いません。ですが、以前貴方が言ったようにこの奇妙な距離がなければ私たちが思いを通わせることはなかったでしょう」
これは、恐らく傷。そうリリーナは思う。
孤独に嘘をついて、前だけを向くことで見ないふりをしてきた自分の傷だ。
どうして今まで見ないふりができたのだろう。結果が出れば肯定的な反応があると信じて重ねてきたものを、遠回しに否定される孤独を。
どこかでそれをわかっていたから、見ないふりをしたのかもしれない。
わかって欲しい、などと泣き言が言えたら楽になるのだろうか。貴方はきっと優しくしてくれるとわかっているから。
「そういう女なのです、私は。貴方も今度こそ幻滅したでしょう? もう強い私などどこにもいませんもの。私の願いなど所詮私の大口に過ぎないのですから、貴方の好きにしてくださって構いませんことよ」
リリーナは再びディードリヒから顔を逸らす。その姿はどこまでも投げやりに見えた。
こんなものは自業自得だと、彼女は思っている。己の感情を見定めて行動してきたつもりでいて、ただ逃げていただけの代償だ。
彼に捨てられたとしても同じこと。積み重ねてきたものが瓦解していくこの瞬間の音に比べれば、ここから先に絶望が待っていようと生ぬるい。
だが、項垂れる自分の手首に強い力を感じた。彼の手に拘束されているその場所に力は込められていて、本来ならば痛みを感じそうなものなのに何も感じないことに疑問を感じる。
「…どうして」
「…?」
ふと、声に釣られて眼球が動く。目尻まで動いた瞳は確かに彼を捉えたが、なぜか彼は俯き震えている。
どうしてだろう、と素直に疑問を感じた。
「どうして、僕がリリーナを手放すと思ったの…?」
「私がただの醜い女だと露見したから…ですわね。貴方を否定しておきながら、自分の都合のいいところだけ得ようというのは、醜く浅ましい行いですわ」
「君は何も変わったりなんかしてない…綺麗なままなのに」
「本当にそうでしょうか。己の傷さえ見て見ぬふりをした弱い人間でしてよ、私は」
「それは」
自分の言葉にたいして、彼はとうとう言葉につまったとリリーナは感じた。
だがディードリヒはそこから勢いをつけて顔をあげ、思い詰めた表情でリリーナを見る。
「そんなの、それこそ前に君が言ってたことじゃないか! 君は人間なんでしょ、リリーナ」
「勿論そうです。ですが私は人として浅ましいと言っているのですわ。貴方が手元に置く価値はない」
「そんな…そんな程度のことで捨てると思ってるの?」
ディードリヒの言葉に、リリーナはぴくりと眉を動かした。それから再び彼と顔を向き合わせ、彼女は怒りを表にする。
「程度とはなんですの!? 己を否定されて悔しくはないのですか、貴方は!」
「少なくともリリーナには思わないよ!」
「腑抜けたことを抜かさないでくださる? 色ボケも大概になさい!」
「…っ色ボケ程度で君を殺そうとするわけないだろ!」
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