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私を見ないで(1)

 

 

 ********

 

 

「リリーナ」


 あの人が、私を呼んでいる。


「…リリーナ」


 いつもより低いあの人の声が、“私”を呼んでいる。


「どこにいくの?」


 そう貴方は問うけれど、私は動けない。なのに後ろから伸びてきた貴方の腕が、私を捕らえるように抱きしめて、


「リリーナ」


 何度も私の名前を呼ぶ。


「こっち見て、リリーナ」


 囁かれるままに、ゆっくりと真上を見上げる。

 そうすれば、やはり貴方は私を見ていて…その目は深く濁っているから。


「あは、やっとこっち見てくれた」


 この笑顔は私に向いているのだと自覚する。

 貴方の狂気は、確かに“私”を見ているのだと。


「リリーナ」


 あぁ、見ている。

 貴方がその目で、私を見るから———


「———!!」


 喉が痛いと感じるほど強く息を吸い込んで目が覚めた。

 飛び出しそうなほどの爆音を立てる心臓を握り潰すように胸を押さえつけながら、ゆっくりと起き上がる。


「はぁ…は…っ」


 息が荒い、吸い込む力が強過ぎてうまく吐き出せず、乾いた空気で喉が痛む。

 ふと横を見ると、カーテン越しに光が差しているのが見える。だがミソラが来ていないということは、いつもより早く目が覚めてしまったようだ。


「ふぅ…」


 朝日に意識が向いたおかげか、漸く少し呼吸が落ち着き始める。心臓の辺りはまだ痛むが、もう少しすればこちらも落ち着くだろう。


「…」


 なんて夢を見てしまったのか、あんな…あんな恐ろしい夢を。

 自分は負けたくない。その誘惑は、努力を重ねない、抗わない理由にはならないのだ。

 少なくとも彼を否定した自分が認めていい感情ではない。


「はぁ…ふぅ」


 大きく深呼吸をする。心臓も少しは落ち着いたのか、痛みもだいぶ薄くなった。

 そこに軽いノックの音が入ってくる。


「おはようございます、リリーナ様。ご起床のお時間でございます」


 案の定ドアの向こうから聞こえたのはミソラの声で、また一つため息が出た。もうそんな時間なのかと考えたが、これだけ日が昇っていれば不思議ではないと考え直す。


「…起きていますわ」


 一人で目が覚めているのにこの言葉を使うのは初めてかもしれない。いつもなら朝は弱いので、ミソラの声で起き上がることすら滅多にないのだから。


 心はざわついて収まらないが、自分の返事を合図に部屋へ入ってくるミソラやメイドたちを眺めながら、なんとか一度気持ちを切り替える。

 あまり余計な心配はかけたくないし、この件に関しては詮索もされたくはない。


 よく考えてみれば、すぐ布団を被り直して寝たふりでもしておけばよかった。

 

 ***

 

 今日は少し一人にして欲しいと、侍女の二人に話をしたリリーナは図書館で適当に抜き出した本を眺めている。

 本当に最悪だとしか言いようがない。よりにもよって今日のような日に心を乱すなど。今日はディードリヒが指折り数えて待っていた日だというのに。


 ディードリヒが言うには、今日が付き合い始めて一年の記念日なのだそうだ。正直あの時の自分は思っていることを伝えるだけで精一杯で、日付など意識の隅にも入っていなかったというのに…よく覚えているものだといっそ感心する。

 確かに普段のディードリヒを考えれば、記念日が幾つあろうと全て覚えていて不思議ではないのだが。


 別荘から帰ってきてからというもの、彼は本当に毎日こちらに声をかけてカウントダウンをしていた。余程楽しみだったのだろうというのもあり今日を忘れることもなく迎えている。


 ただ、当の本人は緊急の仕事が入ったせいでデートの一つもできないわけだが。

 こういったイベントに気合を入れたがるのはどちらかというとディードリヒの方なので、さぞかし残念だったろうとリリーナは思う。なにかしら手伝えることがあればよかったのだが、あいにく今回出番はなさそうだ。


 せめて、ということで今日の夕食は二人きりの場を用意することになっているのだが、そこにきてのあの夢である。なんとか顔を合わせるまでに自分を落ち着かせなければ。


「…」


 本を開き眺めているはいいものの、かけらほども頭に内容が入ってこない。心がずっと揺れ続けていて、ページを捲る指すら動かせない始末だ。

 ディードリヒとはおそらく夕食まで会うことはないだろう。急な仕事と言っていたし、逃げられないような案件ならば城の中を彷徨くようなことも少ないはず。


 ならばディナーまで時間はある。それまでが勝負だ。

 それにしてもうまく感情をコントロールできないというのは本当にもどかしい。こういったもどかしさを所謂“もやもやする”と言うのではないだろうか…そう思いつつ、一つため息をつく。


「…また悩んでいますのね、私」


 誰にも聞こえないよう、小さく小さく呟いた。

 この国に来てからというもの、散々状況に振り回されてきたというのにまた振り回されている。

 どれもこれも自分にない感情が生まれるばかりで頭がおかしくなりそうだ。


(いえ…もうなっているのでしょう)


 そうだ、もうとっくになっているに違いない。

 あの“願い”は、自分が否定したというのに。

 彼の根底にある泥を、彼を連れ出すと言い張って。


 俯いている場合ではない。

 彼がどんな自分でも好きだと言うのならば、屁理屈だと言われようが自分はいつだって彼に強い自分を好きでいてほしいのに。


「…っ」


 本の中身に完全に気がいかなくなってしまった。仕方がないので平静なふりをして席を立ち本を返しにいく。

 こういう時に積み重ねてきたものが一つ役にたつというのは、なんとも皮肉だ。

 

 ***

 

 大人しくしていられないならば庭にでも行こう、そう思い城内を歩く。

 ミソラはどこかで自分を見ているのだろうが、その程度ならばいいと放置している。彼女の基本的な仕事は自分の護衛で、何より今は身内が目に入る範囲にいないのが重要なのだ。


 気遣われたくない。今この状況というのは、そもそも自業自得でしかないのだから。

 周りにいてくれる人たちは優しすぎるのだ、自分になにかあれば気にかけてくれる。だがこれはそういった優しさで収まる問題でもない。


 誰かにこの感情を話したところで、むしろ煮詰まるだけだ。ただ心の中では曖昧になっていた部分が言葉という形になってはっきりしていくだけ。

 それならば、そこにある感情を認めて感情を切り替える以外にできることなどない。


 そう、あの人みたいに。

 あの人はいつだって私を見て笑うのだから。

 なんでもない風に、抱えたものをうまく隠してしまえる。


「私には積み重ねることしか、できない」


 そうだ、やるしかない。できるまでやるしかないんだ。

 だが今は時間がないので、せめて表面だけでもいい。少し彼の目を誤魔化すことができれば、時間は…


「きゃっ」


 考え事をしていたせいで、廊下の曲がり角に出た瞬間に誰かにぶつかってしまった。リリーナは慌てて反射的に一歩下がり頭を下げる。


「申し訳ございません、私の不注意ですわ。お怪我は…」


 一度下げた頭をゆっくりと上げていく。怪我をしていたら申し訳ないと思ったからだ。

 しかし、彼女の視界に入ったのは、


「大丈夫? リリーナ」


 確かにディードリヒの姿で、思わず言葉を失う。


「…」

「あれ? ミソラたちは? 一人なんて珍しいね」

「…」


 今日は運が悪いのだろうか。

 本当に、一番会いたくなかったというのに。おかげで唇がすぐに動かない。


 それでも焦るな、落ち着け。なんでもないように今は笑うんだ。

 たとえそれが、無意味な足掻きだとしても。


「リリーナ?」

「!」

「大丈夫? どこか痛む?」

「い、いえ、申し訳ございません。本日はディナーまでお会いできると思っておりませんでしたので、少し驚いてしまって…。ミソラたちとは少し離れているだけでございます。お手洗いに行こうと思っておりましたので…」


 顔を見るだけであの夢が脳裏を過ぎる。今の彼はなんでもない、いつもの姿だというのに。

 あの笑顔が、瞳が、ちらついては脳に焼き付く。


「申し訳ございませんが、私この後も予定がございまして…所用の済み次第向かいますので私はこれにて…」


 笑え、笑え。

 なんでもない、なんでもないんだ。

 こんなことを考えているから余計に焦る。そうわかっているのに必死になって止まらない。


 だって、


「待って」


 ディードリヒの横をすり抜けようと一歩踏み出したリリーナの体を、彼の手が止める。感じた視線に恐る恐る目を向けると、彼はこちらを射抜くように見開いた目でこちらを見ていた。


「それはなんの嘘?」


 そのたった一言に、心臓が締め付けられて呼吸が乱れる。

 だから今会いたくなかったのだ。


(…だって)


 だって、私が貴方を騙すのは無理なことだもの。

 今の私では、尚更。


「…嘘など、ついておりませんわ。はしたない話ではございますが少しばかり急いでおりますの。ですのでその手を離してくださいませんこと?」

「それも嘘。僕がわからないなんて、思ってないでしょ?」

「それは…きゃあ!」


 不意を突くように抱き抱えられた体は有無を言わさず運ばれていく。ディードリヒは適当な空き部屋のドアを開けると、まともな電気すら付いていないその部屋のドアをやや乱暴に閉める。

 それからそっとリリーナを降ろしたかと思うと、すぐ壁際まで追い込んだ。彼女の真後ろにある壁に手をつき、逃すまいと立ちはだかる。


「どうして嘘つくの?」


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