体を冷ます夜風と少し狭いベッド(1)
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夜風の通る冷えた部屋のテラスで、リリーナは一人夜風を浴びている。
この別荘に滞在する前、それこそミソラの言う通り感謝祭より以前から上手く寝付けずにいるが、今日は特段とその気が強い。
春が来るにはまだ遠く、冷える季節なので寒いのは当たり前なのだが今はその冷たさでできた風が心地よく感じる。ベッドの中で抱えた動悸の熱が抜けていくようで、少しばかり緊張が安らいだ。
「…」
今日はまた一つ緊張の糸が張り詰めた時間の中にいたと、思い返す。
自分は人間関係の上にある立ち位置の問題上、試されるのは早い段階で発生しかつ数多いものだと思っていた。だがディードリヒが何かしらで試されるような事態になるのは、まだもう少しだけ先だと思っていたのに。
そうは言っても、フレーメンでの成人は十六歳、飲酒の解禁が十八歳だと考えれば案外妥当なのだろうか。それでも、あと一年は先と思っていた。
完全に自分が王家に籍を入れるまでは何かと慌ただしい可能性や、フレーメン国内で大きな問題がないことなどから時間はもう少しだけゆったりと過ぎていくような気がして、あと一年有余を持てると考えていだのだが。
ただそんなものはただの直感に近い予測に過ぎず、ハイマンがいつ不慮の事態でディードリヒに王位を譲らざるを得ない状況になるかなど誰にも想像はつかない。
そう考えれば、明らかに今日の話は正しかったと納得できるもので、自分の甘さを痛感する時間でもあった。
緊張で張り詰めているのと常に細かい部分にまで目を光らせるのは違うことである。自分はいつも前者で、後者になるには視野が狭い。客観的であろうとは心がけているが、根本は主観的な人間なのでまだまだ何かを背負うには足りないようだ。
己の未熟さに課題を感じながら眺める景色には、広大な草原にかかる大きな夜空に月が浮かんでいる。テラスの手すりに手を置くと、月明かりに照らされて手元がわずかに光った。
光に釣られて視線を手元に落とすと、左手の薬指に嵌められた婚約指輪が月明かりを反射していたことに気づく。
毎夜眠る前に眺めるのがすっかり習慣になったこの指輪は、今日も宝石と共に輝きを放っている。
ただ少し気になるのは、リング部分の形が少し変わっていること。一見なんでもないような雰囲気ではあるのだが、よく見るとこの指輪には何かが欠けているような印象を受ける。まだ何か、付け足せるものがあるような…。
だがそれも今は些細なことだ。この輝きを見つめるたびに詰まった思い出が溢れてきて、それだけで明日への活力になってくれる。今の自分にとってはその感情の方が余程大きなものだ。
「!」
そこに、ノックの音が飛び込んでくる。テラスにいるので一瞬気のせいかとも思ったが、少し間を置いて二回目のノックが聴こえたので確かにこの部屋のドアが叩かれたのだと確信した。
しかし、今日は事前に来客など聞いていない。突然誰が尋ねてきたのだろうか。
だが緊急事態だったとしたらと思うと無視をすることもできないので、リリーナは少し緊張を抱えながら静かにドアの前まで歩いていく。
「ど、どなたですの…?」
我ながら声が震えていると思いつつ、相手に誰かと尋ねるとすぐに答えは返ってきた。
「僕だよ、リリーナ。ディードリヒ。ドア開けれる?」
(ディードリヒ様?)
なぜこんな夜中に…?
まず最初にそう疑問を感じる。だがやはりなにか大事な要件だといけないと、ドアを開けることにした。
ディードリヒに偽装して自分に危害を加える人間など早々いないだろうと頭では分かっていても、やはりあの幼い頃に読んだ小説の恐怖感は拭えずゆっくりと、かつできうる限り身を引いてドアを開けた。
「そんなに怯えなくても…ちゃんと僕だよ」
開かれたドアの向こうにいたのは確かにディードリヒ本人ではあったので安堵する。しかし入ってきた本人は不服そうだ。リリーナはそこに申し訳ないとは思いつつも、秘密がバレないよう少し誤魔化したような発言をする。
「世の中に似た声の人間は三人いると言いますわ」
「え、何それひどい」
だがディードリヒはリリーナの言葉に少し機嫌を損ねてしまったようで、彼はリリーナの体を引き寄せると背中からしっかりと抱きしめ、耳元で囁きはじめた。
「僕の声が他のやつと同じに聴こえるの?」
「! そういうことでは」
「だってそうでしょ? 僕以外に二人は似た声のやつがいるって言ったのはリリーナなんだから…ちゃんと“僕”の声を覚えてよ」
「…っ」
「ほらリリーナ、返事は?」
耳に届く彼の声の振動が肌を僅かに震わせる度、声と共に触れる吐息が薄い皮膚の下の神経を撫でる度、脳と背筋がぞくりと騒めき心臓が高鳴っていく。
美しい声は一音聴こえる度脳に焼き付いていくようだ。だが確かにこの声が美しいと言えるのは彼の声音だからであって、他の人間と聴き間違えるなど難しいほどのことだというのに。強がりを言おうとした自分が悪かったのだろうか。
「〜〜〜っ、わ、わかりましたから離してくださいませ! そもそもどうしてこのような時間に私の部屋に来たんですの!?」
暴れるリリーナを眺めながらくつくつと笑うディードリヒは、やや渋々といった様子でリリーナを解放する。
リリーナが照れた怒りを残したまま振り向くと、今度は少し寂しげに微笑む彼が目に入った。
「眠れなくて、どうしてもリリーナに会いたかったんだ。リリーナも眠れなかったの?」
「私は…」
“眠れていないのはここ暫くのことで、今日に限った話ではない”。そう言ったら相手はどんな反応をするだろう、そう質問に対して反射的に考えてしまい一度言葉に詰まる。
もし自分の今が相手にバレていたとして、それでも不要な心配を重ねることだけは避けたいと目にクマが浮かぶことはないよう気を付けてはいるが、流石にそろそろそれも限界かもしれない。
「…今日は、少し緊張いたしましたので。明日には帰ると思いますと早く眠らなければいけないのですが」
「あは、同じだね。僕も今日は緊張したから」
ディードリヒは安堵したようににこりと笑う。リリーナもまた、彼に笑顔を返した。
「テラスにいたの?」
ふと、ディードリヒが部屋の大きな窓を見る。その窓は扉にもなっていて、開かれたままのそれは部屋の外のテラスから冷たい風を吹き入れていた。
「少し風を浴びていました。緊張で火照った体にはちょうど良かったのです」
「またそうやって自分から寒いところに行って…風邪ひくよって言ったのに」
「風邪をひいても看病してくださるのでしょう?」
「勿論喜んでするけど、それとこれは別だよ」
「大丈夫ですわ。体を壊すほど風を浴びていたわけではないですから」
リリーナは上着の下に伸びるネグリジェの裾をひらりと翻しながらディードリヒに背中を向けると、そのままそっとテラスへ通じるガラス窓を閉じる。それから軽くレースでできた薄いカーテンを閉めて彼に振り返った。
「ディードリヒ様はこの部屋でどうお過ごしなさいますか? メイドにお願いしてホットミルクでも持って来させますか?」
この時間でも見回りの使用人が誰かしら屋敷を歩いているはず。それならばその使用人が近くを通った時にでも声をかければ飲み物くらいならば持ってきてもらえるだろう。
「いや、いいよ」
彼女の問いに対してディードリヒは横に小さく首を振り、未だ窓際に立つ彼女へと歩みを進める。それから不意を突くような形で彼女をひょいと抱き上げた。
「!?」
「一緒にベッドに入ってればあったかいでしょ?」
「また貴方は…! ここでそのようなことをしたら、あらぬ疑いがかかってしまいますわ! 城であってもよろしくないと言いますのに、このような場所でまで…」
「大丈夫だよ、ここで朝まで寝たりしないから。ちゃんと落ち着いたら部屋に戻る」
「…本当ですわね?」
「うん、約束する」
こういった話の時にふざけない彼が嘘をついたことはない。どうやら本当に寝付けなくて来たようだし、少しの間ならば…とリリーナは大人しくなった。
リリーナが言外に許可を出したことを確認したディードリヒは、優しく彼女をベッドへと運ぶ。
一度は眠ろうと試みたのか少しばかり崩れたベッドへ彼女を降ろすと、そのまま彼女はもそもそと布団の中へ入っていく。それに連なってベッドへ潜り込んだディードリヒと向き合うように寝そべると、広く感じたベッドが狭くなって少し安心した。
「まだ中が冷たいね」
「すぐに温かくなりますわ」
「…手、繋いでいい?」
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