眠れない夜の秘密の話(1)
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「やぁ、ルーベンシュタイン嬢」
今日のディナーはいつもより余程緊張した、と改めてベッドの中で思い返したリリーナはそのまま寝付けなくなってしまった。
すぐに気持ちは切り替えられなそうだと諦めたリリーナは、キッチンに向かい明日の仕込みを行なっているシェフからホットミルクをもらって、リビングで一息…としていたところに不意に声がかけられる。
「陛下…!」
声の主はハイマンであった。
リリーナは慌てて立ち上がり頭を下げるも、脳裏には“なぜ彼がここに”という疑問が過ぎる。
この時間であれば大概の人間は寝ているはずなのだが、他人と早々眠れないことが被るようなことなど珍しいとしか言いようがない。
「こんな時間に会うとは思わなかった。寝付けないのかね?」
「えぇ、今日は少し…賑やかでございましたので。陛下はこの様な時間に如何しまして?」
「この時期だけは寝酒をすると決めていてな。とっておきがあるんだ」
「とっておき…」
「あぁ、だがディアナには内緒にしておいてくれ。内緒で買った酒なんだ」
そう言って酒瓶を見るハイマンの表情は気まずそうだ。リリーナはそれに少し微笑ましさを感じ、笑ってしまいそうになるのを堪える。
「わかりました、王妃様には内緒にしておきますわ」
「そうしてくれると助かる。まぁまずは座ろう、ルーベンシュタイン嬢も楽にしてくれ」
「ありがとう存じます、陛下」
リリーナはハイマンがソファに腰掛けるのを見届けてから自分もソファに座り直す。
彼女の目の前に置かれたローテーブルを挟んで向こう側のソファに腰掛けるハイマンは、ローテーブルにブランデーの酒瓶とウイスキーグラス置き、ブランデーの栓を開けグラスにいくらか注いでいく。
それからブランデーの注がれたグラスを手に取ると、ゆらゆらと軽く液体を回し色合いや香りを楽しんだ。
「ディードリヒとはどうかな? あれが迷惑をかけてないかね」
「迷惑などそんな…いつも優しくしていただいていますわ」
「隠さなくていい。どうせ浮かれたあいつのことだルーベンシュタイン嬢には日々迷惑をかけていることだろう」
「…なんと言いますか、迷惑というほどではございませんが、愛情表現が大袈裟な方でいらっしゃるのは事実だと思いますわ」
リリーナは言葉を選びつつ少し視線を逸らす。
そんな彼女を見て、ハイマンは「はははっ」と軽く笑った。
「犯罪にまで手を出しておいて、大袈裟というのは少し優しすぎるな」
「!」
ハイマンの一言に驚くリリーナ。
しかし少し思い返すと、ディアナはハイマンにもディードリヒの話をしたと言っていたことを思い出す。
「その反応は、ディアナから話は聞いていないのか?」
「いえ…存じてございます」
「そうか、ならいいんだが」
そう言うと、ハイマンはグラスの中のブランデーに初めて口をつけた。
「…君がここに来る前のディードリヒは、基本的に大人しい奴でな。俺たちにも笑いかけはするが、いつからかどこか遠くを見ている子供だった」
ゆっくりと、ハイマンは語り始める。
唐突に始まったディードリヒの話にリリーナは少し驚くも、同時に彼の言ったディードリヒの印象に対して内心で“そうだろうな”と感じた。
少なくとも初めて出会った幼少期のあの日の彼に活発そうな印象は見受けられず、ドレスもあったとは思うがあの大人しさに余計に“女の子”という印象を自分は受けたのだから。
「教育の成果は基本的にそこそこといった様子で、覚えはいいが発展させるのはあまり得意ではない…幼い頃ほどそういう傾向の子供だったな」
ハイマンはまた一口、静かにブランデーを口に含む。舌の上でそれを転がし、鼻に抜ける香りを楽しんでから飲み込んだ。
「いろんな人間が言ったんじゃないか? あいつは『ある時を境に急に伸びが良くなった』と」
「…よく聞き及んでおりますわ」
「まぁ実際それは間違いじゃない。だがやはり上の空なのも変わらなかった…いや加速していった」
「…」
「常に遠くを見ている子だった。誰かが目の前にいても、どれだけ言葉を、努力を、思い出を重ねたとしても、あいつの視線はいつだって目の前にはない」
そう語る一人の父親の瞳はどこか遠くを見ている。思いを馳せるように、どこか後悔するように、我が子の過去へと。
「あいつなりにこちらへ意識を向けていたことはわかっている。父上…上王たちがこの別荘に越してからも、あいつは祖父らの前でことを荒立てるようなことは決してしなかった。常に身の程を弁えて行動し、他人に対して自分がどうあればことを荒立てずに済むか…と言うことを一番念頭に置いて行動していたな」
その言葉には強く同意できる。
ディードリヒは常に他人と“ほどほどの距離”で接し、その関係を水に流して深めようとしない。
他人を見て、顔を覚えていたところで、決して意識を向けることはなく、有象無象のように流し見て視界から外すのだ。
最近ではようやくその枠から外れる人間も多少出てきた様だが、その本質が変わることはなく彼の中で一定以上の親交をもつ人間は相変わらず存在しない。
ただ一人、自分を除いて。
「そうすることで常に他人を拒絶していた、そういうふうに俺は考えている」
「…」
「関係性が浅ければそれだけその傾向が強くなっていくな。それは今も対して変わらんし、仕事ができているならそれでいい。本来あいつも馬鹿じゃないからな、あの愛想笑いをわざとやってるのはわかっている」
「私もそういう方であることは感じております」
そしてハイマンはブランデーをもう一口…といこうとしてグラスを下げ、小さくため息をついた。
「…だから、その分の感情が全て君に向いていることが問題なんだ。ルーベンシュタイン嬢」
「…存じてございます」
「そうだろう。君はそういう女性だと、俺も思っている」
「ありがとう存じます」
ハイマンの言葉に、自分が反論できることなど一つも存在しない。それどころか、同意するほどだ。
そしてその感情に雑音が混ざってはいけない。
「あれの上の空の原因が君だったとはな…最初に話を聞いた時は頭を抱えた。犯罪を犯していたことは勿論だが、君に一辺倒になっていたあれが社交を疎かにしていたのは元々ディアナと問題にしていたからな。そのせいで妃選びは候補が上がるばかりで進まなかった」
「…」
自分が直接口を出していたわけではないとはいえ、やはり申し訳ない気持ちだ。感情の有無に関わらず、元を辿れば自分の行動一つが他人の人生を狂わせたことに変わりはない。
親の立場になって同じ気持ちを抱くことはできないが、そうでなくともまずいことをしてしまったと思うには容易いことだ。
こちらに来てしばらく、好意的な歓迎も少なくなかったので自分もまた浮かれていたに違いない。自分は間違いなくディードリヒの人生を捻じ曲げ、狂わせたのだという意識が薄いように思う。そういった事実は忘れてはならない。
「あぁいや、そんな顔をしないでくれ。責めたかったわけじゃない…と言ってもこの言い方では言い訳もきかんな。だが、君がいなかったらディードリヒが今ほど出来た男になることもなかっただろうと、俺は思っているんだ」
「そう、でしょうか」
「初めに言ったが、ディードリヒは何をやらせても“そこそこ”にしかならなくてな。基礎は覚えるが発展させるまでの柔軟さがない。誰に似たのかと言われれば俺だろうが、同時に目の前の物事に対しての必死さや関心のようなものも薄かったように思う」
グラスの中のブランデーは静かに揺蕩っている。
しんと静まったリビングには、静かな語りとそれに対する相槌だけが響いた。
「あぁだが、思い返すといつからか冒険譚は好きだったな。何かを追いかけるように何冊も読んでいた。あとは動物だな、馬に乗ることは後に生かされているが、魚を釣るのも好きだった様に思う」
「彼の方は釣りもお好きなのでございますね。ご本人から乗馬がお好きであることは聞いているのですが」
「一度父上とエドガーも巻き込んで、レーゲンの沖で釣りをしたことがある。あの頃はまだ父上たちも首都にいたからな、ディードリヒはよく遊んでもらっていた。少なくとも、釣りをしている時のあいつは楽しそうに見えたよ」
「素敵な思い出ですわ」
「…すまない、話が飛んだな。まぁそんな奴だったもんで当時はそれはそれで頭を悩ませていた。成績がそこそこであることよりも、柔軟性のない思考はどうしても後に響く。ディードリヒしか後継がいない状況では流石にこのままではいけないと」
ハイマンの言う通りだと、リリーナも頷く。
政治、外交、ひいては戦争においても、柔軟性のある思考は有利な状況を生み出す鍵になる。
フレーメンの世継ぎは現状ディードリヒのみだ。それならばそういった点を重視するのも当たり前だろう。
なぜ彼に兄弟がいないのかはわからないが、そこにもなにか事情があるに違いない。なんせ世継ぎが一人では、何か起きた際に王家の未来を失う可能性が高いからだ。
誰もディードリヒが暗殺されないとは言っていない、誰も彼が不慮の事故で死なないとは言っていない、そういうときのある種スペアになるのが、本来彼の兄弟でもある。
リリーナの母親は体が二人目の出産には耐えられないと医者に言われ二人目以降の子供を諦めたとリリーナは聞いているので、ディアナも同じだったのだろうかとどこかで考えた。
「確かにあいつが十歳…十歳の頃だったな。あれは夏だった。子供の頃、ディードリヒには世間を学ぶ一環として新聞を読むことを日課にさせていた。有事を学ぶことは勿論だが、新聞には娯楽記事もある。民衆が何を楽しんでいるのかを手軽に覗けるものでもあった」
確かに手軽でありながら多様な記事を取り扱う新聞は便利なものだったのではないだろうか。新聞社によっては偏ったゴシップ記事も多いが、王城に届くものを扱っている新聞社がそういった愚行にでることもなかっただろう。
ハイマンの言う通り有事に関する記事や娯楽記事、更には掲載されている広告など…よく見ると新聞というのは発見が多いものでもある。
「その頃だ、あいつが変わり始めたのは」
リリーナの前で時折酒に口をつけるハイマンのペースは、今見ると少し早いのではないかという間隔になっていた。
最初はゆっくりと味わっていたものが、話が進むに応じて少しずつペースを上げていっている。
「突然何事も必死にやるようになった。一時期はそれこそ自分を追い込む様にな。親から見ればどう考えてもおかしい変化だ、だが同時にそれを指摘してもあいつから実りのある答えが返ってくるとは思えず、ディアナと話し合って少し様子を見ることになった」
「…」
「流石に人が変わるほどではなかったが覚えのいい部分が出たのだろうな、ある程度思考も柔軟になり知識がついた分周りくどいことができる様になって…大人を真似るように論文を出し始めるまでそう時間はかからなかった」
目の前にいる父親の語りは、淡々としている様に見えて感情の色を載せている。寂しさ、郷愁、悲しみ、喜びと楽しさ、何より憂い…。
その語りを聴きながら、リリーナは考える。
当時のディードリヒは一体どのような顔をしていたのだろう、と。
必死に自分を磨く先にはリリーナしか見えず、他人には愛想笑いを貫き関係を作ることを放棄している…そんな彼の誰も見ていない瞬間の表情とは、どの様なものだったのだろうか。
「ディアナは特に何も言わなかったので俺も口を挟んだりはしなかったが、今思い返してみればあの頃のディアナはなにかと上機嫌な日も少なくなかったな…あいつのことだ、ディードリヒの奴が何に対して足掻いているのかを知っていてその様を楽しんでいたのだろう」
ふと、そこである疑問が口から出る。
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