あの小さな屋敷の、小さな庭で
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「リリーナ、ちょっといいかな」
そう、彼が声をかけてきたのは屋敷の庭に出る五分ほど前のこと。
何かと反応したら「少し風にあたりに行こう」と言うのでてっきりテラスにでも行くのかと思っていたら、なぜか庭まで連れ出されている。
白い息を吐きながら月を眺めていると、意識は自然にほんの一年前を思い出す。
(ほんの、一年しか経っていない…)
まるで嘘のようだが、まだ一年しか経っていない。最後にこの庭を眺めてから、自分がもう一度同じ場所に立つまで。
だがこの一年で何もかもが変わった。
住む場所も、生活も、見知った顔も、覚えるべきことも…隣に立つ人も。
「…リリーナ」
静かな声が彼女を呼ぶ。
少し緊張を纏ったままの、静かな声が。
「もう懐かしいね、この庭」
「…えぇ」
「もう一年経つんだね、僕らがここを去ってから。だから、僕と君がちゃんと互いを知って一年半経ってる」
「そうですわね」
最初にこの屋敷にいた期間を含めても、一年半…今や懐かしい思い出たちだ。
鮮明だから昨日のようで、懐かしいから遠い昔のよう。
それでも、貴方の一つ一つは何よりも覚えてる。
「…変わったよね、リリーナは」
「そう…でしょうか?」
不意に変わった話題に反応がぎこちなくなってしまう。
だが、それと同じだけ彼の言葉に同意するには自分に自信がない。
「うん。最初よりずっといろんな顔を見せてくれるようになった」
「顔…」
確かに言われてみれば、必要以上と自分が感じるほど息の抜けた時間が増えているように感じる。
いいようなよくないような…これが怠惰ではなく“休む”というものならばいいのだが。
「少しずつだけど、確かに休めるようになってきてる。少しずつ…君の知らない君が増えていってる」
聞こえた声は、どこか寂しそうに聞こえた。
だからふとそちらを見て、そして彼は、ディードリヒは確かに嬉しそうにも寂しそうにも感じる。
だが、それを言うのならば。
「それを言うのであれば、貴方も随分と変わられましたわ」
「僕が?」
「少し前にも言ったではありませんか。貴方は確実に変わり始めていると」
「…あんまり自覚がないな」
ディードリヒは困ったように笑う。その姿を見て、自分も嬉しくて寂しい思いを感じた。
相手が言うほど変化している自覚がないのは自分も同じで、だからこそ嬉しいも寂しいもわかるような気がしてしまう。
「僕ね、最近複雑なんだ」
「複雑、ですか?」
「そう…僕が君に望んだんだ。“いろんな顔を見せてほしい”も“休んでほしい”も。でも実際に変わっていく君を見てると、自分が置いていかれるような気がしちゃって」
「…」
「変わっていって欲しいのは本当なのに、変わってほしくないような気がして…おかしいよね、僕」
そうやって笑う彼は、困っているから寂しいような…そんな顔で笑う。
その彼の言葉に、リリーナもまた言葉を返した。
「それを言うのであれば、私も同じですわ」
「え…?」
“思わぬことを聞いた”と相手の表情は明らかに驚いている。だが嘘はついてない。
「私は貴方の変態行動を一生涯両手を挙げて肯定などしませんし、喜ばしいことだと思いたくはありません。なのでいつであってもその意思は言葉にします」
「…」
ディードリヒは静かに目を伏せる。
リリーナは彼の視線を追いかけず、ぽつりと呟いた。
「…ですが時折思ってしまうのです。“あの目は、自分に向いているはずなのに”と」
「それは…どういう、こと…?」
一度伏せてしまった視線が思いがけず彼女へ戻っていく。ディードリヒの中の何かが“自分は認められたのではないか”と、たった一言で思ってしまいそうになった。
だが“そんな簡単な話ではない”と言う自分が、しっかりと制止をかける。だからこそ言葉は慎重に、相手に問うた。
「貴方の、あの濁った目がどこかで“嬉しい”と思う自分が…いえ、貴方から明確に向けられる嫉妬が嬉しいと感じてしまう自分がいます。貴方の異常な行動が、貴方の愛だと受け入れている自分も」
「…」
「貴方が私の隣であることを望んだのは私ですわ。それなのに、貴方が変わっていくことが確かに“寂しい”のです。あの目がずっと…四六時中私に向いていたのは、たった半年だけだったというのに」
相手まで引き連れて籠を飛び出したのは自分だ。それが間違っていたとは思わない。
それでも時折見えるあの目が、誰でもない“自分”を見ているあの目が、いつかどこかで自分に向かなくなってしまったらと考えてしまうから。
貴方を好きになれば好きになっていくほど、あの目が失われるのが恐ろしくなる。
「この感情が異常であることはわかっていますし、その感情を整理することはあっても堕落するつもりはありません。ですが、変わっていくというのはいいことばかりではないのですね」
「リリーナ…」
「他の方を見ている貴方など、以前は想像もできませんでしたのに。今変わっていくことはいいことだとわかっていますのに、なぜ好きになっていくほど感情というものは大きくなっていくのでしょう。私は変わっていく貴方が好きで、あの頃の貴方が恋しいですわ」
思い返せばそれだけ心臓が痛い。
感情が昂れば、相手を思えばそれだけその場所は痛みを増して、視線は下を向いて、抱え込むように背中は丸くなっていく。
胸に手を当てても感情がおさまることなどない。
恋しい思いが溢れるだけで、愛しい貴方がもっと焼き付いていくだけで。
「!」
前が見えなくなっていったその時、そっとあの手が自分の肩を抱いた。
驚いて見上げると、貴方が泣きそうに笑っている。だけど、どうして嬉しそうにも見えるのだろう。
「びっくりした」
「何が、ですの…?」
「リリーナが僕のことをそんなに好きでいてくれてるなんて、びっくりしたよ」
「それは…っ」
そもそも話の発端はディードリヒだったはずで、自分はそれに返しただけだと言おうとして、相手の声が先に聞こえる。
「僕も今のリリーナが好きで、あの頃のリリーナが恋しいよ。そしてこれから先のリリーナだって愛してる」
その言葉は力強くて。
そこに嘘はなくて。
いっそ強すぎるくらいの思いがあるから、心に届く声になっている。
「正直、リリーナが同じことを考えてくれてるなんて思ってなくて、今ちょっと嬉しすぎるくらいなんだ。僕だったら、今すぐにでもあの頃に戻りたいくらいに」
「…それは、できませんわ。永く共に在りたいのです、私は」
「知ってる。わかってるから、大丈夫だよ」
そう口で言っていても、左手は少し強めに彼女を引き寄せる。悔しそうなその左手に、感情を隠しきれていないな、と奥歯を噛んだ。
「僕も永く…永く一緒にいたいから、大事なものを用意したんだ」
ディードリヒは一度リリーナの肩から手を離すと、互いが向き合えるよう体を向ける。
そして懐から小さな箱を取り出すと、静かにそれを開いた。
「あの時のリベンジがしたいんだけど、いい?」
「…!」
それは、気がつけば一年経ってしまったこと。
月明かりの照る中、あの時は紺のドレスを貴方が褒めてくれて。
貴方の目が、美しかった。
「…リリーナ・ルーベンシュタイン」
薄い、水色の瞳。
宝石のように美しくて、私を見ている貴方の瞳。
惹き込まれる、吸い寄せられる。
「僕は生涯貴女を愛し、共にあることを誓う。だからどうか…僕と結婚してください」
あの時なんかよりずっと心臓がうるさい。
一年でこんなに変わることがあるだろうか、こんなにも、全てが。
この、城など比較もできないほど小さな屋敷の小さな庭で、あの時とは一つ物があるかないかというだけなのに。
こんな、こんなにこの言葉が嬉しくて、頼もしくて、信じることができて、
「…っ」
何よりも愛おしくて。
誰よりも貴方を愛したいと思うのは、どうしてなのだろう。
時はたった一年しか経っていないはずなのに。
「リリーナ!?」
ディードリヒが目の前の光景に驚き、思わず声を上げた。
しかしそれも無理はないだろう。彼の目の前で涙する彼女は、あまりにも今までのリリーナとかけ離れてしまっている。
「っ…く…」
いつもならば、いや一年前ならば表情を作ることもできたのに。こんなに、こんなに感情が揺れてどうにもできないことなどなかったから。
いくつも言いたいことはあるはずで、それなのに頭の中が支離滅裂になっていく。形にならない感情だけが溢れておかしくなってしまいそう。
「だい…じょうぶ、です…ごめ、なさ…っ」
リリーナは必死に涙を拭う。
施した化粧などもう剥がれ落ちてぐちゃぐちゃだろう。そんなものは醜いし、絶対に見せたくない。わかっているのに、涙は溢れて止まってくれない。
ディードリヒはあまりのことに動揺してしまっている。おろおろとはしつつも、一度箱を閉じリリーナを少し待ってから恐る恐る彼女に問うた。
「嫌だった…?」
「ちが…っ、嬉しいんですのよ、これでも…!」
「!」
「ただ、感情を整理できなくて、涙が…」
未だに涙が止まらない。
感情が散らばって集められなくなっている。
「!?」
その散らばった感情を必死に拾い集めようとしている彼女を、ディードリヒは強く抱きしめた。
「な、何をやっていますの!? 服が汚れてしまいますわ!」
「いいよ、気にしないから」
「気にしなさい! というか驚いて引っ込みましたわよ」
想定外のことに慌てるリリーナ。涙が落ち着いたという彼女の言葉を聞いたディードリヒはそっと彼女から離れる。
リリーナはそれでも目元を拭っていた。泣き腫らした目が見られるのはやはり嫌なので、薄暗い夜でよかったと心から思う。
「全く…非常識なのですから」
「はは、ごめんね…」
「珍しく素直に謝りますわね…」
「僕はいつでも素直だよ?」
「…」
ディードリヒの言葉にリリーナは何も答えなかった。おそらく彼の言う素直とリリーナが考えている素直では意味が違う。
そこからリリーナは一度深呼吸をすると、ディードリヒに向かって左手の甲を差し出した。
「…ませ」
「?」
「指輪を、つけてくださいませ」
「!!」
リリーナの言葉に、ディードリヒはもう一度小箱を開ける。そこから一つの指輪を取り出すと、そっと差し出された左手の薬指に嵌めた。
美しい銀細工の指輪には天然のピンクダイヤモンドが嵌められている。シンプルながらも丁寧な職人技のこもった婚約指輪は、新しい花嫁への一歩をその輝きで祝福していた。
そして彼女は指輪を見て金の瞳を優しく綻ばせる。
「この結婚、喜んで受けさせていただきますわ」
言葉を紡ぎながら、また涙が溢れそうになってしまった。抑えないとと思うだけ、それは込み上がってくる。
「…婚約までしておいて今更婚約指輪って、おかしいけどね」
「そう言うのであれば一年前に渡せばよかったではないですか」
「あの時は工房側の問題で指輪までは受け取れなくて…でも『今言わないと』って思ったんだ。あの時言わなかったら機会を逃す気がして」
「それでわざわざ呼び出したと?」
「そうだよ。だってあの日は君の冤罪を晴らせた大事な日なんだよ? 区切りって考えたら重要じゃないか」
「それは…そうですが…」
言われていることには納得できる。自分もそうしたかもしれない。
つい、そんなことを考えてしまった。
「…確かに、あの言葉で実感も湧きましたから悪くはなかったかもしれませんわね」
「でしょ? よく考えてみるといい判断だったと思わない?」
「ですが指輪もないのにプロポーズとは焦りすぎではなくて? 指輪がないのであればそれはそれで言えばよかったではありませんか」
「そっちの方が恥ずかしいよ…」
「いつも締まらない貴方が言っても今更ですわ」
「その言い方は酷くない?」
「下手に格好などつけなくとも愛想は尽かしませんもの」
多少締まらない程度で愛想を尽かしたりなどしない。そんなことよりとんでもないものをあれやこれやと見せられているのだから。
「やだよ。好きな女の子の前なんだから」
「!」
「前にも言ったでしょ。好きな子の前ではかっこよくしてたいんだって」
「それは…っ」
何を今更、ということを言われているとわかっているのに顔が赤くなっていってしまう。目を泳がせる彼女は指輪の嵌められた左手を右手で握り込んだ。
「だめ?」
「駄目と言いますか…今日も一年前も嬉しかったのは事実ですので…わ、悪くはないです…」
「よかった…じゃあ喜びを表すってことで抱きしめていい?」
「! わ、わかりました。おいでなさい」
さぁ来い、と言わんばかりに腕を広げるリリーナだが、自分はいつになったらこういうことに慣れるのだろうと悲しくもなる。
いつまで経ってもこの状況では自分から愛を示すのも難しくなってしまう。
「ありがと」
そんな彼女の感情を知ってか知らずか、ディードリヒは喜びを小さな笑みに変え自分より小さなリリーナの体をぎゅっと抱きしめる。
彼女の腕が自分の背中に回るのを感じた時、今更ながらプロポーズが本当の意味で成功したような気がした。
「あったかいね、リリーナ」
「ディードリヒ様は少し冷たいですわ。今日は特段と冷えるのですから、ご無理はなさらずに…」
「嫌だよ。今この瞬間のためにこの屋敷を使う許可を出したんだから」
「風邪でもひいたらどうするのです」
「リリーナが看病して?」
「…パンのミルク粥でよろしければ、ご用意しますわ」
呆れたと言わんばかりのリリーナの声に二人で笑い合う。
それから二人はそっと離れて、優しいキスを重ねた。
月は二人を見守るように、静かな空に浮かぶ。
続
と、いうことで四巻掲載分が終了しました
最終話、言った側から文字数バーストしてるんですがここだけは分けたくなかったので許されたい
なんなら一冊(一章)十万文字というマイルールすらバーストしています。管理がガバすぎる
四巻は全体的に「なんだかんだ繋がっている」が一番できたかな、と思います。一冊単位で書くにあたってよく気をつけている場所でもあるのですが、やはり決められた枠の中での起承転結はこれからも意識していきたいですね
この巻の最後であるこの話は本当に、四巻の構想から書きたかったシーンでした
ディードリヒの闇に惹き込まれていくリリーナと、リリーナの光に引かれて前に進もうとするディードリヒ
二人が出す結論を私は彼女たちの視線で考えなくてはなりません
私の役目は二人をハッピーエンドへ導くことです。ですがキャラブレは許せません。そこはやはり難しいですね
それではまた次回の巻でお会いしましょう
ここまでお疲れ様でした。次巻も引き続きお楽しみいただければ幸いです
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