彼は彼女の素顔を知らない(1)
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結局生垣の迷路では少し遊んでしまい、写真も撮って…などしていたら予定より時間が押してしまった。
やや慌てて馬車に乗りこみ移動した先は、首都郊外にある小さな森の中。
「…随分広い場所だね」
その場所はディードリヒとしては少し意外な場所で、子供が何人も走り回れそうな空き地なのだが同時に整えられた芝と常緑樹のみという、緑に溢れてると言うべきかやや寂れていると言うべきは悩んでしまうような場所であった。
リリーナはどうしてこに来たかったのだろう?
だがそんな疑問を口にする間もなく、近くで馬車の音が聞こえてくる。
「来たようですわね」
馬車の音は段々と近くなり、そしてゆっくりとこちらに来たそれは、やがて自分たちが乗ってきた馬車の後ろで車輪を止めた。
するとそこから慌てた様子で降りてきたのはミソラとファリカ。彼女たちはなにやら大きなバスケットと折り畳まれた布を持っている。
「お待たせ、リリーナ様!」
「到着が少し遅かったようですね。直ちに準備いたします」
二人はそう言って足早に自分たちの前を通り過ぎると、芝生の中心で何やら行動を始めた。ファリカが持っていたバスケットを一度置くと、ミソラが持っていた布を二人で芝の上に広げる。
「できたよー!」
ディードリヒには何が何だか、という感覚だが、何やら準備ができたらしい。それに軽く手を振って答えたリリーナがこちらに向くと、状況に取り残されたままのディードリヒの手を引く。
「ほら、行きましょうディードリヒ様。今日のお昼はサンドイッチですわ」
「リリーナ、これって…?」
「私が両親に頼んで手配していただきました。朝や昼ならば貴方を驚かせる準備ができるともう知っていましてよ?」
リリーナは朝食の際、手ずから紅茶を淹れると台所に向かった。その時“久しぶりの実家で少し勝手がわからない”と母エルーシアを呼び出し、その際にこっそりと手配したのである。
シェフに「今あるものでいいから」とサンドイッチを用意してもらうよう頼み、ミソラたちが運搬してこの場所で落ち合う手筈になっていた。
その後、二人で話すふりをしてルーエには“昼頃この場所に来たい”とだけ話し、移動を始めたのである。ルーエとリリーナが時間を気にしていたのはこのせいだ。
「リリーナ、少し狡賢くなってない?」
「何がでしょうか? 私は貴方の恋人ですもの、貴方をたくさん驚かせて、たくさんの表情を見たいと思うのは当たり前ではなくて?」
「それは…!」
クマのぬいぐるみをプレゼントした際のサプライズから、相手にも“隙”があることをリリーナは学んでいる。
それならば、時として恋人の驚いた顔が見たいと思うのは当たり前ではないだろうか。
「さぁ、ルーエはもうミソラたちに合流していますわ。お昼は皆で食べるのですから、貴方も行きませんと」
「みんなで」
「こういった食事は大人数のほうが楽しいと思いまして」
「…複雑なんだけど」
リリーナの言いたいことがわからないわけではない。だが、今日はただでさえ二人の時間が早朝だけだったのだ、このままでは二人の時間がみるみるうちに削れていってしまう。
「二人の時間が短いのであれば、その分濃くすればいいのではなくて?」
「できるかなぁ」
「…なんですのその疑問系な口ぶりは」
不服そうにむくれるリリーナに、ディードリヒは揶揄うように笑う。
「だってリリーナはすぐ照れちゃって何もできなくなっちゃうでしょ?」
「!!」
「濃いもなにも、リリーナが僕に好きなようにされてるだけだしなぁって」
「〜〜〜〜っ!」
「リリーナってば、そういう自覚ある?」
リリーナはこれまでを思い返してしまい顔を真っ赤に染める。それから怒って背中を向けてしまった。しかしその割には、手は繋いだままなのだが。
「知りません! ほら行きますわよ!」
「自覚あるのリリーナ? 可愛いね」
「知りませんと言っているでしょう!」
「今からでも二人きりにしない?」
「しません! 意地の悪い方の意見など聞きませんわ!」
「えー…」
不服そうではあるがリリーナに手を引かれ移動を始めるディードリヒ。行動は一見素直だが、やはり表情が全てを物語っている。
***
五人でランチを済ませ、女性陣が話に花を咲かせている中、男二人は腹ごなしにと軽く周囲を散策していた。
やはり歩いてみてもリリーナがこの場所を好き好むような要素は見つからない、と疑問が積もっていく中一先ず少し離れはするが女性陣が見える程度の位置の木陰で一休み。
「義兄様…」
ぽつり、とルーエがこちらを呼んだ。
しかしその声は強く動揺し、少し震えてすらいる。ディードリヒはルーエが体調でも崩したのかと少し身構えた。
「どうした?」
少し警戒しつつディードリヒがルーエを見ると、彼は和やかに話し続けている女性陣を見つめたまま動揺の表情を隠せないでいるように見え、そこからうまく言葉を選べない躊躇いを唇に残したまま口を開く。
「今日見てきたリリーナ姉様は、本当にリリーナ姉様なのですか…?」
ルーエの視線は未だに驚きゆえか揺れている。
ディードリヒはルーエの発言の意味がすぐにわからず、一瞬疑問を浮かべるもすぐその中身に気づいてはっとした。
ルーエが驚いているのはリリーナの表情だろう。侍女たちと話すリリーナも、王城の展望台でで柔らかに微笑み写真に映るリリーナも、同じく王城の庭でディードリヒの手を取りはしゃいでいたリリーナも、“年頃の少女らしい”リリーナをルーエは恐らく知らないのかもわからない。
「あえて言いませんでしたが、ずっと驚いていました。姉様があのような…年相応に豊かな表情を見せるところなど見たことがありません…」
ルーエからすれば、まるで今のリリーナは別人のようだ。顔も体もなにも、見える範囲は何も変わっていないはずなのに、リリーナにはあんなにも豊かな表情や感情があったのだと今更感じさせられている。
「…だろうね」
ディードリヒはそんなルーエを見て、それから苦笑して…その一言が最初に口をついた。
そして改めてリリーナが実家でどのような生活をしていたかが窺えてしまい内心ため息をつく。
「僕とかリリーナの侍女、そして友人…いろんな人が言葉にして彼女に伝えたんだ。『リリーナは無理をしすぎだ』って」
「ご無理を…そう、だったのですね…」
「…その言い方は、君は今まで何も感じていなかったってこと?」
ディードリヒの言葉に、ルーエは少し申し訳ないような、それでいて寂しそうな表情を見せた。それから困ったように小さく笑って、義兄の質問に答える。
「リリーナ姉様…ルーベンシュタイン本家の方々と会うことはそう多くありませんから。なにせマルクス様がお忙しいので…“知らない”と言うのが正しいと思います」
「なるほどね…」
「リリーナ姉様はいつも周囲を気遣ってくださって、幼い頃から周りの大人に負けないほど堂々とした方でした。うちの兄様はちょっと…優しすぎる人なので、対照的だったのをよく覚えています」
ルーエは少し表情を柔らかくして、遠い記憶の一ページを思い出していた。しかしその裏にある複雑な感情もまた、彼の瞳の中に見え隠れしている。
「何年か越しに会うと、リリーナ姉様はいつも驚くほど綺麗になっていくんです。まるで手の届かない人みたいに」
そして大人のように綺麗な顔をして笑うのだ。
自分と同じように感情を絶え間なく入れ替えるところなど、見た記憶はあっただろうか。
「…君も、そう感じていたのか」
「君…“も”?」
「!」
無意識に溢れた言葉をすかさず拾われてしまい、咄嗟に口を閉じた。
ディードリヒが「なんでもない、気にしないでくれ」と少し動揺しながら返すと、ルーエは訊かれたくないことなのかもしれない、とそれ以上追求せず視線をリリーナに向けて戻す。
「…姉様の評判は僕にも届くほどいいものばかりで、自慢でした。だから人を殺めたと聞いた時『嘘だ』って強く思って」
「ルーエ…」
「まぁ、結果的には本当に嘘で…ほっとしましたけど」
「…」
安堵の声が柔らかいルーエの言葉に、ディードリヒは考える。
ルーエのように、リリーナのことを本心から信じていた人間はどれほどいたのだろうと。
きっと自分が考えるよりはいたのだろう。目の前にこうしているほどなのだから。リリーナはきっと、自分が助けなかったところで一人になることはなかったのかもしれない。
だがそれでは駄目だ。自分が耐えられない。
耐えられないのだ。あれは千載一遇のチャンスだったのだから。
何を犠牲にしてでも、今だって自分はリリーナを求めているのに。
自分たちの間に他人が入る隙間など、与えない。許すものか。
きっと“今”は正しかったに違いないのだから。
「そうして、気がついたら義兄様と結婚することになって帰ってきて、あんなふうに笑うだなんて…」
リリーナを眺めるルーエは、心から喜ぶように優しく笑う。
「驚きましたけど、きっとその方がいい。姉様には今が一番いいように思います」
彼の笑顔は、慈愛に満ちていた。きっと本当に今のリリーナを心から“素敵だ”と感じていて、そうなっている今が嬉しいのかもしれない。
「…リリーナは僕の婚約者だ」
だからそれが少し羨ましくなって、大人気もなく不機嫌になってしまった。
だがルーエは少し困ったように笑って返すばかりで、ディードリヒを揶揄ったり笑ったりはしない。
「わかっています。ぼくも姉様の隣は義兄様がいいって、今改めて思っていますから」
「そう思うなら気安く触れるな…というか、親類であっても公衆の面前で女性に気安く触れるものじゃない」
ディードリヒのこの言葉ばかりは、リリーナが聞いたら「どの口が言うか」と怒りかねないだろう。なんせ公衆の面前でリリーナに抱きつこうとしたりするような男である。特別な間柄なら許されるのか、と言われれば複雑な話ではないだろうか。
「ごめんなさい…嬉しくなると出やすくて、気をつけます」
「その方がいい」
人当たりがいい、人懐こいということが決して悪いわけではない。そこから善人が過ぎるとルーエはこれから話し合いの場に立つ人間になるので変わっていかなければならない部分もあるだろうが。
かといって人懐こいから公私混同をしていいのか、と言われれば勿論違う。たとえ相手がディードリヒでなかったとしても、自分の恋人に必要以上に触られて不快に思わない人間は少ないだろう。
「義兄様」
「…どうした?」
「僕は昨日、姉様に会えてとても嬉しかったです。でも今日、それは不安に変わっていこうとしています」
「不安?」
不意な言葉にディードリヒはやや疑問が浮かぶも、あまり蔑ろにしないよう言葉を選んでいく。ディードリヒなりに、ルーエに気を遣っているのだ。
勿論打算は多くあるが…そもそもルーエはラインハートのように自分を押し付けてくるタイプの人間でもないので、こちらの機嫌を逆撫でしてく要素が少ない、というのもある。
ルーエは気持ちを保つようにこちらに目を向けて笑っているが、無理をしているのはやはり明らかで、その笑顔には強い不安が滲み出ているのがわかってしまう。
ディードリヒはその彼の揺れる感情が、どこか気になった。
「不安です…“姉様の代わりになれるか”僕は不安なんです」
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