養子は予想外の人物(2)
「それはだめだよ」
その消えた表情は、まるで蝋燭の火を吹き消したかのよう。
「な…」
それに驚いたリリーナもまた、驚いたせいか高まっていた感情が一度落ち着いた。
「離さないよ」
「…なぜです?」
ディードリヒはさらにぎゅっと、リリーナの手を握る。
「離せるわけないよ、こんな…心臓が止まるかと思った」
「ディードリヒ様…」
「リリーナに触れていいのは僕だけなのに、あんな」
ディードリヒの表情は、今にも息が止まってしまうそうなほど苦痛に満ちていた。それを見たリリーナもまた、自責の念に負われ苦しみを感じる。
リリーナに触れた瞬間のルーエにはなんの迷いもなかった。あまりにも自然すぎて、いっそどこか恐ろしいほどに。
「ずっとうるさいくらい心臓が鳴ってて、抑えるのが本当に辛くて、本当に…」
苦痛に満ちていた表情が、今にも泣き出しそうなほど崩れていく。
リリーナは崩れていきそうな相手を優しく見つめ、語りかけるように問うた。
「…少しだけ、離していただけますか?」
「…」
しかし返ってきたのは無言。
苦しいまでの、無言。
「私が逃げるとお思いで?」
「違うけど、違うけど…他人が触れるくらいなら離したくないって、思って」
「大丈夫です。今ここには私と貴方しかいないでしょう?」
リリーナの呼びかけに、ディードリヒは少し沈黙し、
「…わかった」
そっと掴んでいた手を離す。
リリーナはそのままディードリヒの頭に手を伸ばすと、優しく抱え自らの肩へ引き寄せる。
「よくできました」
「え…」
「よくあそこで我慢できましたわ」
「それは…我慢するって自分で言ったから」
「言ったことを守るというのは存外難しいことです。私も警戒が薄かったですわ、ごめんなさい」
ディードリヒは返事をする代わりのように腕を伸ばし、自らもリリーナの体を引き寄せて彼女の肩に額を擦り付けた。
「リリーナは悪くないよ。あいつが、あんな…無遠慮な」
「そうですわね…よく言って聞かせませんと」
「リリーナは確かに僕のところに帰ってきてくれるけど、僕以外が触っていいわけじゃない」
「知っていますわ。痛いほどに」
「リリーナ…」
ディードリヒはすっかり気落ちしてしまっている。そしてそんな彼の背中を優しく叩くリリーナは、呆れつつもどこか優しく愛情深い表情をしているのだ。
「もう、また泣いていますの? これ以上は何にもならないでしょう」
「…泣いてないよ」
「涙が出ていないだけですわ。すっかり落ち込んで…私も自衛いたしますから」
「でもまだ他人が触れるのは…避けられない」
ディードリヒは果てしなく気落ちしてしまっている。これだけ後ろ向きなのはいつぶりだろうか。
そんなことを考えながら、リリーナは一度そっと離れる。
「では貴方が触れればいいのですわ」
そして自分の腰に回ったディードリヒの手を外すと、そのまま自らの前まで引き寄せた。
「貴方のこの手はなんのためにあるのです。私に触れるためでしょう? でしたら貴方が私に触れて全て上書きしてしまえばいいのですわ」
「…っ、だめだよそれは、またエスカレートしたら…」
「そうして思いとどまれるのであれば、以前のような結果にはならないでしょう。要は匙加減の話をしているのです」
「…」
「そもそもこれだけ落ち込んでいる時点で似たようなものですわ。いつまでもそこでうじうじしているのでしたら、多少開き直ったほうがマシというものです」
「それは…」
ディードリヒはなんとも歯切れの悪い返事の割にリリーナが取った手を繋ぎ直して指を絡める。そして悪戯に微笑んだ。
「そうかもしれないね」
「…切り替えが遅いですわ。手が焼けます」
「別に切り替わったわけじゃないけど…リリーナが開き直っていいって言ったから」
「!」
絡めたリリーナの指にキスをするディードリヒ。
リリーナが驚いていると、彼は妖艶に笑った。
「開き直っていいなら、たくさん僕の跡を残そうと思ったんだ」
「な、何をすると言うのです」
「そうだな…わかりやすいしキスマークでもつける?」
「!? そういった方向に開き直れとは言ってませんわ!」
リリーナは急激に顔を赤くする。対してディードリヒは真面目に話しているようで、どこかリリーナの反応を楽しんでいるようにも見えた。
「首に、胸に、太ももに…見えるところにも見えないところにもたくさんつけよう。そうしたらリリーナが一人でももっと、自分が誰の恋人なのかわかるよね?」
「婚前でしてよお馬鹿! 肌を晒すわけがないでしょう! 貴方、もしやこの瞬間を狙ってましたわね!?」
「まさか、そこまで計算高くないよ。でも落ち込んでもいられないなら、僕は僕にできることをしないと」
「やり方をもう少し考えなさい!」
「必死に考えたよ。でも見て明らかな方法なんて少ないでしょ?」
実に楽しそうに、薄い水色の瞳はこちらを見ている。だが言葉が本気なのも明らかで、このままでは本当にドレスを脱がされてしまう。
「お断りですわ! 大体そんなもの、相手はいくらでも知らないふりができるんですのよ!」
「じゃあわかりやすく名前を書かないといけないかな? 手の甲に刺青はどう? 勿論僕の名前で」
「ますますお断りですわ! 貴方、私が警戒を怠ったことを怒っているでしょう!?」
「んー? どうだろうね?」
「その言い方では肯定しているようなものではありませんか!」
「わからないなぁ」
「それについてははじめから謝って…んむっ!?」
うるさい口はあっさりとキスで塞がれてしまった。
ディードリヒはそのまま繋いだ片手を解くと、リリーナが逃げないようしっかりと腰を抱く。
「んん…っ」
普段より長いキスに声が出る。それを合図にするようにして離れると、真っ直ぐ見てしまった彼の目があまりにも真剣で、目を奪われた。
「リリーナ、僕は本気だよ。本気で君を、これ以上誰かに触らせるくらいなら…」
「ディードリヒ様…」
「だから、キスマークくらいは許して欲しいんだ」
「お断りしますわ」
しかしリリーナは雰囲気に流される女でもない。
流れるように正気に戻ったリリーナの言葉で要望は却下された。
「えー…リリーナが普段“雰囲気が”って言うから頑張って作ったのに」
「別の問題を無理やり持ってくるからです」
不服全開のディードリヒだがその様子をリリーナが気にかけることはなさそうである。
「そもそもこの問題は以前にも出たではありませんか。私が商売をする以上、他者との接触は避けられないと」
「だから、僕は後から上書きするだけじゃなくてそもそも予防をしようと…」
「予防は私自身がするものです。貴方の役目は私を“磨く”ことですわ」
「磨く…?」
発言の意図が掴めないのか疑問を隠さないディードリヒ。リリーナはそれに答えるように言葉を続ける。
「そうです。私の心身が曇った時、それを磨けるのは貴方しかいないのだと…貴方はもう少し自覚を持つべきですわ」
「…他人が触ればリリーナが穢れる。それをしていいのは僕だけだよ」
「確かに貴方の言うとおりであるならば、穢すことは誰にでもできるでしょう。しかし美しくすることは貴方にしかできませんわ」
「!」
リリーナの強い瞳が、真っ直ぐとディードリヒを見た。その射抜くような瞳は汚泥に塗れた彼の内部に突き刺さり、何度でもそこから引きずり上げようと在り続ける。
「貴方には穢すことではなく美しく磨くことに喜びを覚えて欲しいですわ。何であろうとも美しくするというのは誰にでもできることではないのですから」
「…それは、そうだけど」
「貴方はどんな私でも愛してくださるのでしょう? 穢れた私を愛せとは言いませんが、穢れたと思うのであれば美しくしてくださいませ」
リリーナはいつも通り堂々とそこにいるが、ディードリヒはそこで一つ大きなため息をついた。そして自虐的な口ぶりで言葉を返す。
「…無茶を言うね、リリーナ」
「何がですの?」
「僕が君を『綺麗にする』って言って、危険なことをしないって言い切れるような言葉で言うから」
「“もう”しないでしょう、貴方なら」
「絶対とは言えないよ。君に他の人間が触ったっていう“事実”が消えることはないんだから、それまで消したくなったら、僕は…」
「それでも、“もうしない”と言えるのです」
「…どういうこと?」
ディードリヒはまたリリーナの言ってることが理解できずそれを素直に表す。そこにリリーナもまた言葉を続けた。
「今の貴方が自制できているというのは勿論ですが、貴方には“貴方にとって美しい私”というものがあるのでしょう? そんな貴方が、本心から望んで私に危害を与えることなどあるわけがない」
リリーナはまるでそれが当たり前であるかのように言う。ディードリヒはそのあまりに堂々としたその態度に呆気に取られた。
「たとえ血が出るまで布で手を擦られようが私は構いませんが、貴方の理想の私はそのように傷ついた姿なのでしょうか」
「…!」
「美しく保つことと壊すことは違うのだと、貴方には最初から区別がついているのではなくて? そうでなければ、私は店を立ち上げる前に死んでいます」
“店を出す”、そう言い始めた段階で自分は死んでもおかしくはなかったと、リリーナは今でも思っている。
その一言でどれだけ他人との接触が回避できなくなるかなどわかりきっていることだからだ。そういう観点で言ってしまえば、あの頃のリリーナの行動は常に賭けだったと言っていい。
だがディードリヒは閉じ込めようとはしても結果的にリリーナへ直接的な危害を加えることはなかった。
何度喧嘩になっても、確かに「死んでもいい」と言ったあの時でさえ。
「ここまで来れば結果は出ていませんこと? 貴方にできないわけがないのです。貴方であれば穢れ曇った銀であっても丁寧に洗浄し、壊さないよう磨き上げることができます」
「そうだと…いいけど」
「あとは貴方の自信次第ですわ。貴方がご自分の何を信じたいのか、という部分からでしか答えは出ません」
ディードリヒは己の中に矛盾があることをまた一つ自覚した。
リリーナは飛び立っていくのが最も美しいと言っておきながら、翼を縛られた彼女にも美しさを見出しているが故に。
だからこそ、自分で自分は信じることができない。未だにどちらの美しさとも取れぬ自分のことは。
(でも…リリーナのことは“信じよう”って決めた)
リリーナは言った「美しく磨くことは誰にでもできることではない」と。
それなら、本当にそうならば。
「本当に、誰にでもできることじゃないなら…僕は君を美しく磨ける人間になりたい」
「それは嬉しいことを聞きました。ではどうすれば私は“貴方にとって”美しい私で在れますか?」
「それは…」
結局問題はそこなのだ。
事実は消せなくても、また美しくすることができるならば勿論そうしたい。だが何を持って自分は彼女の穢れを“落とせた”と言えるのだろう。
視線を背けるディードリヒに、リリーナが言葉をかける。
「私は」
「?」
「私は、もう何度も答えを出していますわ」
その言葉に、ディードリヒははっとした。そして空いた手を彼女の手を繋ぎ直すと、今度は丁寧に、優しく握る。
「…でも、こんなので綺麗になるかな」
「大丈夫です。貴方の体温が一番心地いいですもの、汚いものなどすぐいなくなりますわ」
「…そっか」
そうして、最初にディードリヒが気の抜けたように笑って、それを見たリリーナが優しく微笑み返す。それから、握り合った手の体温を確かに感じた。
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