ルーベンシュタイン邸にて(2)
「…殿下」
はじめにディードリヒを呼んだのはマルクス。
少し緊張感の強いその声に、ディードリヒは少し身構える。しかし、マルクスの表情は緊張ではなく悲しみと不安を表していた。
「リリーナは、まだ同じステップを踏んでいますか?」
一つ、溢れるようなその言葉は今までの話題からはあまりに唐突と言える。
「まだ背筋を正す練習をして、日毎夜中まで勉学に励み、己を追い込み続けているのでしょうか?」
それは心配に、さらに心配を重ねたような声。
ただただリリーナの“今”を心配する、一人の親の言葉。
ディードリヒはその言葉に返そうと口を開くも、それより先にマルクスが言葉を続ける。
「私たちは、誓ってあの子に『至高であれ』と強要したかったわけじゃない。ただ、ただ幸せになって欲しかったのです」
「…幸せ、ですか」
「パンドラで女性が一人生きていくことは難しい。何故ならば女性は家督を継げないという風習があるからです。法で決まっているわけではないのに、何故か疎まれ蔑まれる」
「この国で女性というのは子を産むための存在なのです。そして嫁いだ先には乱暴な男が待っているかもしれないし、醜い現実が待っているかもしれません」
「私たちはそのリスクを、少しでも減らしてあげたいだけでした。王妃という立場であれば、国からは守られ、平和である限り食べ物や衣服に困ることはない」
この言葉は一つ一つ全てが懺悔だ。
ディードリヒはそう思いながら目の前にいる“彼女”の両親の言葉を聞いている。
「リヒター王子との許嫁関係は、こちらが持ちかけたものでした。幸い国王様が快く受けてくださり、話はすぐにまとまりまりました」
「確かに家庭教師は一流のものを選りすぐってつけました。ただ娘に危害が出ないようこまめに顔を出すなどはしていたので、酷いことをされたりなどは、なかったと思うのですが」
それはディードリヒも知っている。そして実際リリーナになにかしらの危害を加える家庭教師はいなかった。
リリーナはいつも褒められるばかりで、そしてそうであろうと何度も復習を繰り返してきたのだから。
「どの家庭教師も言いました。『優秀すぎて恐ろしい』と。最初こそ娘は才能に恵まれた子だったのだと浮かれていました、ですが…」
マルクスは一つ息を呑む。
「ある侍女が言ったのです。娘が『何度も同じことを繰り返している』と」
「…」
「ダンスも、歩法も、勉学も、音楽も…初めからできたのではなく何度となく同じことを繰り返して、できる様になるまで練習していただけだったのです」
そうだ、その通りだ。
何度も何度も見てきた、自分が道標にしてきたものこそが、その姿で。
その積み重ねていく努力の全てが、自分の光だったのだから。
「私たちはそれに気づかなかったことを強く恥じて、あの子にはすぐにやめるよう言いました。子供が無理をすることはない、もう褒められるほどできるのだからやらなくていいのだと」
「ですが、その言葉は届きませんでした。あの子は私たちが何度言っても、己が気高くより至高であることを求めてやまなかったのです」
リリーナの血の滲むような努力に気づいてしまった両親の感情とはいかほどのものだったのだろう。
自分ですら、報告を聞く度に感動や尊敬と同じか、それ以上に体調を心配したというのに。
リリーナのことを両親に伝えたのはおそらくミソラだが、そもそもそれを言うように指示を出したのは自分なので当然だろう。
それだけただひたすらに高い空を目指した彼女の翼が、壊れてしまうのは恐ろしくて。
でも同時に、相反するように彼女にただただ憧れた。あの気高さは何者にも変えられなくて、美しくて、どこかで壊れたりなどしないとも考えてしまっていたことを今でも覚えている。
「ですから心配なのです。そちらに行っても、あの子はまた人知れぬところで無理をしているのではないかと」
両親の表情がみるみる内に沈んでいく。
奥歯を噛み締める父親と、目に涙を溜める母親は、見ていて痛ましい。
「殿下、見知り得る限りのことを教えていただけませんか」
「あの子のことが心配でやまないのです。どうか、どうか…!」
こちらに訴えかける、震え不安に塗れた声は確かに胸に届いた。
だからこそ、自分がはじめにかけられる言葉は、これだけ。
「無理をさせないための僕ですから」
たった一言だが、俯いた両親は確かにこちらへ顔を上げる。ディードリヒは、かけられる言葉を続けていく。
「こちらで保護していた間も、彼女は決して努力を諦めませんでした。なので同じ話を何度もして『頑張らない君が見たい』と言ったこともあります」
そしてディードリヒは、仮面の笑顔などではなく、心から両親に笑いかけた。
「彼女の素晴らしいところは、確かに積み重ねてきた努力もそうですが何よりその強い精神性にあります」
言葉を失う両親に、ディードリヒは語りかけるように続ける。
「決して高みを諦めず、自らを振り返り前へ進み続けようとするその精神が彼女の美点なのですから。少し努力を休んだところで、彼女の何かが変わるわけではない…そうは思いませんか?」
「殿下…」
「今は彼女の侍女たちも事情を理解して動いてくれています。なにせリリーナは休むのが下手ですから」
そう言って、最後は少し困ったようにディードリヒは笑った。
流石にこれまでやってきた人には言えないあれこれは伏せたので多少話を変えたが、言っていることに嘘はない。そのストイックさが美点であるリリーナは、同時に“休む”ということの加減を測るのが苦手だ。
だいぶ肩の力に緩急はついてきたが、休めているかと言われればまだ足りない。人間、時には全て投げ出すような日があってもいいのだから。
「もう一度もステップを踏むな、とは言いません。ですがステップを重ねるだけが努力ではないのだとわかってもらえるように頑張ります」
ディードリヒは終始冷静に、穏やかに言葉をかけ続け、両親はその言葉を噛み締めた後で安心したように笑い合う。そしてエルーシアは目尻にたまった涙を拭い、マルクスがその肩を抱いた。
「ご両親の願いは、僕が叶えます。リリーナが時に普通の女性でいられる世界が、僕の望む世界です」
世界は広いもので、だからこそそのどこかにはリリーナがずっとありのままでいられる場所もあるだろう。だからこそディードリヒは、それが自分の隣であって欲しいと動いている。
そのために前へ進まなくてはいけないのだ。彼女の不安を少しでも削り、背を正さなくても安心できるように。
隣を歩けるように、彼女をが自分を支えてくれるように自分も彼女を支えるためにも。
「ありがとうございます、殿下…!」
マルクスとエルーシアは揃って頭を下げた。ディードリヒが少し驚いて「顔をあげてください」と言うと、恭しく姿勢を正す。その姿に、娘への確かな愛を感じた。
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