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さざなみが呼んでいる 3話

 無機質な電話のベルが響く中、痛いくらい脈打つ心臓を押さえ込むように自分を抱いた。父を見ると、険しい顔をしながら固定電話に手を伸ばしている。訪問に続き、どこかで聞いているとしか思えないタイミングでの電話。

 私は父の近くに身を寄せ、受話器の向こうから聞こえる音に耳をそばだてた。


「?」


 受話器からは何も聞こえてこなかった。静まり返った部屋の中、父と私の呼吸音だけが耳に届く。


「無言電話かな、嫌がらせ?」

「いや……何か聞こえる、なんだ? 波……?」


 私にも聞かせてほしいとジェスチャーで訴えると、受話器が差し出された。耳を宛てると確かに、遠くの方から波の音が聞こえる。


 ざざん……ざざーん……で……ぃ……ざざーん……


 波と波の合間を縫うように、何かが聞こえた。

 誰かが、呼んでいる?

 もっとハッキリ聞こえないかと意識を集中させれば、押し寄せた波があっという間に私を飲み込んだ。

 海の中、魚の群れが私を取り囲んで、こぽり、こぽりと泡を吐く。無色透明の泡はオレンジ、ピンク、そして赤に変わり、いつの間にか真っ赤に染まった海の只中(ただなか)で私は、その身を。


「由香?」


 心配そうな父の声が、私を現実に引き戻した。立っているのはリビングで、赤い海も魚も、もちろんどこにもありはしなかった。

 受話器からはツーツーと通話の切れた電子音が聞こえる。波の音に紛れて何か声のようなものが聞こえなかったかと尋ねたが、父は首を横に振った。気のせいだったのだろうか。あの沈んでしまいそうな感覚も、全て。


「とりあえず、ウシオさまについて話すのは一旦やめよう」

「うん……そうだね」

「明日、この地区の寄り合いがあるから、なにか聞けそうだったら聞いてみるよ」


 空になったマグカップを二つ、シンクに置いて水を流す。マグカップに溜まった水がほんのりと黄土色に濁って、どんどんと透明になっていくのを眺めた。少しぼんやりしていると、流れ出る水から潮の香りがした気がして、慌てて蛇口を捻った。


 排水口から流れていった水は、いつ海に辿り着くのだろう。その海に、高瀬さんはいるだろうか。


 たった数時間。昨日、学校にいた間だけしか共に過ごしていないというのに、高瀬ゆいの存在が頭から消えない。美しい立ち姿、握る手、残り香、私に向かって微笑む彼女の顔が、苦悶の表情へと変わっていく。泣き、叫び、私の方に手を伸ばしながら、見えない何かに下半身を引きちぎられ、そこに群がる魚、魚、魚が、ウロコが煌めいて、魚の群れに飲み込まれて、私も海の底に。


「違う、高瀬さんは殺された。魚に食べられた訳じゃないし、海に飲まれた訳でもない」


 それなのにどうしてさっきから海と魚のイメージが絡みついて離れないのだろう。

 ダイニングテーブルに置いたままにしていたスマホが、ポコンと音を立ててメッセージの受信を知らせる。画面に表示されたポップアップウインドウには、橋本くんの名前が表示されていた。


『やほ、せっかく連絡先交換したし、送ってみた』


 続けて送られてきたテンションの高いハムスターのスタンプに少し心が軽くなる。高瀬さんのことは、一度忘れよう。そう決めて返事をした。


『ありがと、よろしくね』


 送信ボタンを押すと、吹き出しのマークが表示された瞬間に既読の文字が付く。スマホの向こう側に橋本くんの姿が見えるような気がした。


『小林って明日ひま?』

『ひまだよ』

『よかったらなんだけどさ、隣町まで行かない?』

『いいけど、何かあるの?』

『小林に話したいことがあるんだ』

『わざわざ隣町に行かなくても』

『だめなんだ、ここじゃ』


 返事を打とうとしていた指が止まる。やりとりを始めた頃の軽妙さは消え失せ、文面越しに必死さが伝わってくるようだった。

 橋本くんは、町民側の人間だと思っていた。ウシオさまや祭りの話をしている時も、他のクラスメイトたちと同じように笑顔で私を見ていたはずだ。

 けれど確かに、高瀬さんが選ばれたという話を私にしてしまったのだと気付いた時の慌てよう。委員長に助けを求めたあの必死さは、この町に馴染んでいなかったせいなのだろうか?


『隣町でも大丈夫か分からないけど、ここよりはましなはず』


 返事をしない私に痺れを切らしたのか、橋本くんから更にメッセージが届く。やはり橋本くんも違和感を覚えていて、監視の目の届かぬ場所へ行きたいということなのか。

 まだ確かなことは何もない。今の時点で橋本くんを信用することはできなかった。


『何の話? 何言ってるの?』

『分からないなら、それでいい。思い当たる節があるなら明日、11時に隣町の駅前、誰にも言わずに来てほしい』

『分かった』


 誰にも言わずに一人で来るようにと、二日連続で言われるとは思わなかった。嫌でも昨夜の出来事がフラッシュバックして、追い出すように頭を横に振る。昼間に駅前での待ち合わせならば、死体が待ち構えていることもないだろう。

 余計なことを考えないよう、好きな歌を流して過ごした。湯船に浸かる気にはなれなくて、シャワーだけで済ませる。シャワーでさえ、気を抜くと流れていく水の渦に飲み込まれてしまいそうになって、必死に何度も聴いたフレーズを大声で歌った。


 一緒に寝ようか?と冗談めかして尋ねてくれる父に大丈夫と返し、自室のベッドに転がる。思っていた以上に疲れていたらしく、私の意識はすぐに溶けて、深い眠りに落ちていった。


++<


 高瀬さんが、波打ち際で笑っている。ああ、これは夢だ。私は少し高いところから高瀬さんを見下ろしている。まるで宙に浮いているような感覚。

 高瀬さんは、笑っている。私に向かって両手を伸ばし、赤い涙を流しながら笑っている。口がぱくぱくと、何かを伝えようとしているみたいに動いているけれど、声にならない言葉は一つとして意味を成さなかった。


 ザザザザと、ノイズにも似た音が響き渡り、海から大きな影が飛び出してきた。その先端にぽかりと空いた穴には大小様々な牙が乱雑に生えている。高瀬さんの下半身を乱暴に食いちぎり、大量の血液を撒き散らしながら海に戻っていくソレには長い首があり、更に長く複数の関節を持った腕のようなものがあり、いくつもの乳房があり、腰のようなくびれの下にはまるで人魚のような、(うろこ)尾鰭(おびれ)が。

 高瀬さんの血液と海水が混じり合って雨のように降り注ぐ中、やっぱり彼女は笑っていた。


「……か……由香、大丈夫か」

「うぅ……お父、さん?」

「うなされてたから起こしたんだけど……」

「ヤな夢、見ただけだから大丈夫……でも、最悪」

「やっぱり、リビングで一緒に寝るかい?」

「…………そうする」


 高校生にもなって、父親と一緒に寝るなんて。けれど、そうでもしなければもう一度目を閉じることなんてできなかった。あの化け物が、今にも襲いかかってくるような気がして。


 リビングの床に布団を並べて敷き、数年ぶりに父の隣で眠りに就いた。

 悪夢は、見なかった。


>>>


 隣町の駅前は、T町に比べ格段に栄えていた。駅ビルとは行かないまでも、少しばかり小洒落た駅舎の中にはカフェの併設されたパン屋や百円ショップが並ぶ。

 改札を出たところで待っていると、私の乗ってきた電車の次の便に乗って橋本くんがやってきた。


「うわ、ごめん待たせた」

「大丈夫、ここ来たことなかったから駅前少しぶらついてた」

「そこのパン屋さん、ハニーオレが美味しいんだけどこばやん飲む? (おご)るよ」

「…………ありがと」


 呼び名について突っ込むことはしなかった。あからさまに残念そうな顔をされたが、くだらないやりとりを避けたいくらいには疲れていた。


「話さ、あんまり人がいっぱいいても微妙だけど、かといって誰もいないようなところも怖いんだよね」

「公園とかある? 子どもたちが遊んでるようなところならいいんじゃない」

「あー、ちょっと行ったところに児童公園がある、そこにしよう」


 正直なところお腹も空いていなかったけれど、橋本くんに(すす)められるままクロワッサンと練乳フランスパンを買った。


 エアコンの効いた店内から出ると、肌にまとわりつくような湿り気を帯びた熱風が身体を撫でていく。蝉の鳴き声を聞きながら、並んで歩いた。

 公園には想定通り何組かの親子連れと、小中学生がいた。絶えず笑い声やはしゃぐ声がしていて、これなら大丈夫だろうと思えた。


 日陰のベンチを見つけ、そこに腰掛ける。既に氷の溶けかけたハニーオレを飲んでいると、橋本くんは周囲を確認し、ふぅぅと大きく息を吐いてから話し始めた。


「こばやんはさ、クラスのみんなとか、担任とか、…………変だって思う?」


 探りを入れられている可能性を考えなかったわけではない。けれど、私を見る橋本くんの瞳が今にも泣き出しそうなくらいに揺れていて、そこにある恐怖心みたいなものは本物だと思った。今、自分が感じているものと同じだと。


 だから。


「変だと思う。高瀬さんはどうなったの? ニェギって、祭りって、ミコとか、そもそもウシ……っ!」


 私の言葉は最後まで紡がれなかった。真っ青な顔をした橋本くんの両手が、私の口を塞いだから。その手は、酷く震えていた。


「こばやん! 別のとこにしよ! せっかくのデートなんだし、もっと景色のいいところ探そうよ!」


 がしりと腕を掴まれ、強引に立たされる。そのまま駆け出した橋本くんに引き摺られるように、私も走った。いつの間にか蝉の声も、笑い声も、一切の音が聞こえなくなっていて、公園内にいた全ての人の目が、私を、見ていた。


>++


 どれだけ走っただろう。子どもたちの笑い声が響く別の公園で、橋本くんはようやく立ち止まった。全身から汗が噴き出し、喉が痛い。目を開けているのも苦しくて、よろよろと木の根元に座り込んだ。

 隣に崩れる橋本くんも、ぜぇぜぇと荒い呼吸を必死で整えている。周囲を見渡し、泣きそうだった顔が少し緩んだ。


「名前は、呼んじゃダメだ、あれとかそれに、して」


 嫌と言うほど分かった。思い出すだけで鳥肌が立つようだった。ウシオさまは、人間ではないのだ。盗聴器なんかある訳がなかった。父に説明するためにウシオさまの名前を出した時からきっと、全て聞かれていたのだろう。


 ハニーオレは置いてきてしまったらしい。持ってきていた水筒を空にする勢いで水を飲む。橋本くんの方を見れば、公園に設置されている水飲み場を何とも言えない顔で見つめていた。私は溜息を吐き、水筒を差し出した。


「残り、飲んでいいよ。水道使うの怖いんでしょ、気持ち分かる」

「え、あー、でも、間接キス」

「ハッシーって、もっとチャラいと思ってたわ。気にしないからいいよ。私、今それどころじゃないから。ハッシーだってそうでしょ」

「うん……ありがとう……」


 遠慮がちに水筒を持った橋本くんは、しかし喉の渇きには(あらが)えなかったようでごくごくと水を飲み干した。ようやく息が整った私たちはベンチまで移動し、背もたれに体重をかけてだらりと座った。うるさいくらいの蝉の声が、むしろ心地よかった。


「俺と委員長は、じいさんたちからこばやん担当って言われててさ、仲良くならなきゃって思ったらこんな感じになっちゃっただけで、別にチャラいとかは……クラスの女子とはあんま、喋らんし」

「わたし担当……」

「子どもは子ども、大人は大人が相手するのが一番だって。あの、ごめん呼び出しておいてあれなんだけど、俺、別にあれについて詳しいとかではないから。むしろ知りたい側っていうか……、こばやんと同じなんだ」

「同じ?」

「俺、去年の春に転校してきたから」


 意外だった。クラスの中で、橋本くんだけが浮いているような感じはしなかったし、当然のようにこの町で生まれ育ったのだと思っていた。


「うち、父さんいなくてさ。母さんと姉ちゃんとここに越してきたんだ。二人とも信じられないくらいこの町が気に入ってて、あれのことも当然のように受け入れててさ、俺だけおかしいのかもしれないって思ってて……でもそんなの、誰にも言えないし……」

「それは、……そうだろうね」


 クラスメイトや担任、警官の様子を見るに、ウシオさまを疑うような発言をすれば何をされるか分からない。笑顔のまま海に突き落とされそうな予感さえした。


「姉ちゃん、去年の祭りで選ばれたんだ」

「えっ、それって……先生が言ってた?」

「そう、名誉なことなんだって。祭りの最後に名前を呼ばれた姉ちゃん、泣いて喜んでたよ。でさ、その日の夜に大人たちに呼ばれて行ったと思ったら」


 突然黙り込んだ橋本くんは、きょろきょろと視線を泳がせた後、唇を震わせ、絞り出すような声で言った。


「下半身だけになって、帰ってきた」

「は?」


 あまりのことに思わず声が出てしまい、慌ててごめんと呟いた。そんな衝撃的なことが起こりうるのだろうか。でも、今の私は似たような出来事を知っている。

 橋本くんに覚悟を決めるよう忠告してから、高瀬さんの写真を見せた。ニェギの意味するところを知らなかったらしい橋本くんは、見る間に顔色を悪くする。


「もしかして橋本くんのお姉さんも、こんな風に……」

「いや、高瀬さんのそれと、祭りで選ばれるものは別物なはずなんだ……姉ちゃんは、死んでない」

「え、でも、下半身だけ帰ってきたって」

「うん、でも母さん、姉ちゃんの骨を納戸にしまったんだよ。それに、下半身と一緒に受け取ったお守り袋を後生大事に持っててさ、酔った拍子に言ったんだ。”この中には、あの子のうろこが入ってる”って」

「…………それじゃあ、ハッシーのお姉さんは」

「選ばれて、人魚になった」


 私と橋本くんの間を、一陣の風が吹き抜けていった。

 あぁ、それで私を呼んだのか。私を見つめる橋本くんの瞳からは、いつの間にか恐怖の色が消えていた。


「俺と一緒に、姉ちゃんを探してほしい。祭りは毎年あるから、人魚は一人じゃないはず」

「……私が人魚を探すのは、お母さんのためなの」


 橋本くんの話を聞いて、黙っているのは流石にフェアではないと思った。


「父子家庭なんだと思ってた」

「お母さんは、東京にいる」

「そっか」

「だから、その、最悪の場合……お姉さんに少し、お願いしてもいいなら」

「最悪の場合、ね」

「よろしく」

「こちらこそ」


 熱のこもった握手を、蝉の声が包んでいた。

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