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無用の塔 3話


 ナイチンゲールがジャグジャグと鳴いた。

 夜が明けた。外は相変わらず鉛色だった。

 僕は壁を、壁の上の文字を見つめていた。


 後ろで扉がノックされた。僕は応えなかったが、少しの沈黙の後にルシアンが入ってきた。


「おはよう」彼は言った。「調子はどう?」

「夢を見ました」

「そうか」


 僕はルシアンにこの話をしたかった。彼もそれを分かっていて、静かに待っていた。


「塔が出てきました」僕は夢の始まりを探した。「それは実在する場所で──僕の祖父母の家の近く、何もない荒れ地(ムーア)の真ん中に、ぽつんと立っているんです」


 頭の中の歯車が軋みながら回る。ルシアンにこれについて話したことはあっただろうか? きっとなかったはずだ。


「それは……そのあたりは、何世紀も炭鉱の街として知られていましたが、鉱山が閉鎖して人々が仕事を失った時、政府は貧民を援助するために──つまり、ただ施しを与えるのは具合が悪いから──何の意味もない建物を作らせました。その塔も、そういうもののうちの一つです。

 それは一度もちゃんと使われることがないまま、静かに朽ちていました……休暇で祖父母の家を訪れた時、僕はいつもそこで遊んでいました」

「君の秘密の城?」

「そう言ってもいいかもしれません、」僕は頷いた。「子供の僕にとっては魔法のかかった素晴らしい場所でした。

 夢の中で、僕は子供のまま無用の塔(フォリー・タワー)の前にいました。何もかもが大きくていたるところに不思議を隠している、記憶にあるそのままの姿でした。僕は枯葉や割れた煉瓦を踏んで中に入りました。屋根は穴だらけで雨漏りがするし、螺旋階段は腐っていて登れません。窓の一つには銃弾の穴が空いていて──このあたりで事件が起きたことはなかったから、誰かがふざけて猟銃でも撃ったんでしょう──蜘蛛の巣のように(ひび)が広がっていました。その穴から外を見ると、知っているはずの場所がどこか馴染みのない、よそよそしい景色に感じられました……夢の中で、僕はその穴を覗きこみました」

「何が見えた?」ルシアンが尋ねた。

「言葉です」


 僕は壁を指差した。


《神の犠牲(いけにえ)は砕かれた魂》


 ルシアンはそれを読み、再び僕の方を見た。


「それで……?」

「僕は目覚めました」


 僕は目を閉じた。瞼の裏にあの文字が焼きついている。


《悔い改め、砕かれた魂》

《神よ、あなたはそれを蔑まれない》


「これは僕が書いた」


 僕の声はほとんどため息のようだったが、ルシアンは聞き取ってくれた。

 僕ははっきりと言い直した。


「これは、施設で何度も、繰り返された言葉です……僕は僕の罪を知っており、それを悔い改めなければならない……」

「君の中に傷のように刻まれたのだね」

「ええ、でも……」


 僕は目を開いた。彼の灰色の視線がそっと僕に注がれ、続きを待っていた。


「僕はずっと自分に問いかけていました」僕は口を開いた。「僕の罪は本当に目の前にあるのか? 僕にはそれが見えなかった。彼らは僕に罪があると言った。それならばそうなのでしょう。でも僕は憐れみを求めません」


 問題になった『青の物語』は僕にとって最も美しい幻想だった。それを自らの手で打ち砕く?

 その犠牲(いけにえ)の先にあるのが地獄より良い場所だとは思えなかった。


「だから、僕は逃げました」

「君は落ちた……」ルシアンが言った。

「神は僕を蔑むはずです」

「私は君を蔑まない」


 僕は笑った。それこそが僕にとっていちばん重要だった。僕は彼のことが大好きだ、そして彼も僕のことが好きで、それがとても嬉しい。

 だが、彼は僕から目を逸らした。


「ルシアン?」僕は呼びかけた。

「……私には自分の罪が見える」


 彼は僕の下半身、車輪の付いた石柱を見た。


「ルシアン」僕は彼の手を握った。「落ちたのは僕の選択です」

「そもそも、君は落ちる必要もなかったかもしれない……」

「でも、同じ目に遭ったらあなただって──それとも、あなたは僕のために落ちてくれないんですか?」僕はちょっと気を悪くした。

「私は君のために落ちられる」ルシアンは言った。「だが君に──私のために犠牲を強いたくなかった」

「これは犠牲じゃありません。ただの結果です」


 僕は犠牲(いけにえ)を捧げない、僕は砕かれない、僕は赦されるために無用の塔(フォリー・タワー)を建てたりしない……ルシアンだってそうだ。

 彼は納得していなかったが、とりあえず引き下がってくれた。


「……朝食にしようか」



 ルシアンが朝食を用意する間、僕はふと思い立って玄関ホールに向かい、白い扉を開いて外に出た。

 雨は小降りだったが空には分厚い雲が垂れこめ、完全に止むことはなさそうだった。庭は野草の合間に好きなものを植えているような印象で、熱心にガーデニングをしているようには見えない。昨日窓越しに見かけたポピーは眠ったまましくしくと雫を垂らし、シダ科の植物とタイムが縄張り争いをしており、その中にひょっこりと顔を出した紫のジギタリスが、僕の姿を見て笑っていた。石垣のそばでは柘榴(ざくろ)の木が蕾をつけ、いちばん日当たりが良いであろう場所に白薔薇の株が陣取っていた。家の方を振り返ると蔦に覆われていて、秋になると燃えるように美しかったのを僕は覚えている。

 僕は野放図で美しい庭をぼんやりと眺めた。

 だが、僕が立っている石畳にはゆるやかな傾斜があったらしく、僕の車輪は優美な蔓草を模った門扉に向かってガタガタと進み、我に返ってレバーを引く前に石と石の間に落ちてガタンとはまってしまった。止まった衝撃で体の中の瓶がバシャリと水を撒き散らした。僕が覗きこむと、魚が責めるようにこちらを見上げていた。


 雨が強くなり始めた。

 しばらくの間、僕はなすすべもなくそこに引っかかっていた。冷たい水滴が僕を覆い、空と同じ灰色に染め上げていく。僕の体は震え、こんな体でも寒さを感じるのがなんだかおかしかった。

 やがて玄関扉が開いて、ルシアンが迎えに来てくれた。


「リース──」

「すみません、はまってしまったみたいです」


 ルシアンは横から僕の腰に腕を回して引っ張り上げようとしたが、車輪は上手く引っかかっているらしく動かなかった。彼は僕の前に移動し、僕の針金の肋骨を壊さないように注意しながら僕を抱きしめるようにして持ち上げた。今度はちゃんと車輪が外れた。

 彼はそのまま扉の前まで進んで僕を下ろしたが、すっかり体温を奪われた手で僕を抱きしめたまま動かなくなった。雨が彼のシャツに取り憑いてぴたりと肌に食らいつき、彼の銀髪は濡れて鉛色に変化している。

 僕は首筋に彼のため息を感じた。


「君がどこかに行ってしまったかと」ルシアンは呟いた。

「あんな話をしたばかりなのに?」僕は笑った。


 ルシアンは少し体を離して僕と目を合わせ、僕は顎を上げて彼を見返した。彼の灰色の瞳は闇に近い色に見えた。水滴が彼の顔の皺の上を這う。

 僕は水を吸って重くなった肺を膨らませ、それから息を吐いた。

 ルシアンは目を閉じ、額を僕の額にくっつけて囁いた。


「君がここにいてくれて嬉しい」


 僕は瞬きをしてまつ毛の上の水滴を払った。ルシアンの薄い瞼の皮膚に血管が透けている。

 僕の目の前にあるのは決して罪などではない。

 やっと家の中に戻る頃には、僕は肺はぽたぽたと水を滴らせていた。



 ルシアンはリビングの暖炉に火を入れた。緋色の炎が影を生み出し、彼らはそこかしこで踊り始めた。

 甘やかな香りを感じてあたりを見回すと、食卓の皿の上にドライフラワーの薔薇の束が用意されていた。

 ルシアンが乾いたタオルを持ってきて、一枚を自分に引っ掛けてからもう一枚で僕の髪の毛をわしゃわしゃと拭き始めた。


「早く着替えないと風邪を引きますよ」

「君もね」


 彼は僕の肩から腕、背骨を伝って下半身の柱を軽く拭った後、入り組んだ上半身に取りかかった。

 彼はタオルでそっと僕の肋骨を撫でた──彼の爪が針金に当たって微かに音を立て、湿気で曇ったパイプたちが軽く共鳴する。彼は肋骨を鳥籠みたいに開き、できるだけ中の水気を取り去っていく。僕は屈んだ彼を見下ろす。銀髪の先に小さな雫がぶら下がり、暖炉の光を受けて金色に輝いている。

 ルシアンは僕の革製の肺を眺めて言った。


「これは乾くのを待つしかないね……具合は悪くないか?」

「大丈夫」


 彼が革袋に滲む水滴を拭っても何も感じなかったが、そのあと胸の金属の球に触れた時は一瞬ぞわりと熱を覚えた。彼は瓶の中の魚に「居心地はどう?」と話しかけ、魚はぱくぱくと何かを訴えていた。

 ルシアンは僕の肋骨を閉じ、自分も着替えるためにリビングを後にした。


 僕はあらためて自分の体を眺め、魚と目配せをし合った。そして、やはり何かが足りないという気持ちになった。

 革の肺はそう簡単に乾かないだろう。パイプにも黴が生えるかもしれない。これらをすべて取り除いてしまって、新しいものを入れるのは可能だろうか? おそらく。そもそも、これらは僕の元の肉体の代わりにここに収まっているのだから。

 そんなことを考えているうちに、僕の中で欠けているものが何なのか気づいた。

 ちょうどルシアンが戻ってきたので、僕は言った。


「ルシアン」僕は胸の金属の入れ物を指差す。「ここの鍵を持っていますか? 中が見たいんです」


 ルシアンは再び僕の前に回りこみ、僕の体の中を覗きながら少し考えた。やがて彼はぱっと微笑むと、掛け時計から巻き鍵を取り出した。


「これを試してみよう」


 彼は少し屈んで僕の肋骨を開き、金属の入れ物に触れた。それからそっと鍵を穴に挿しこんで、ゼンマイを巻くようにカチリカチリと回した。

 キィと小さな音を立てて蝶番が動き、蓋が開いた。


「上手くいった」


 ルシアンは満足げに言い、ふうっと中に息を吹きこんだ。わずかに埃が飛んでいく。彼は僕を見上げるような形で微笑んだ。

 僕は前屈みになって自分の中を見た。入れ物の中は雨も侵入できなかったらしくからりとしていて、仕切りやくぼみがあるだけだった。

 何もない……。


「ここにも何か入れる?」ルシアンが言った。

「はい」


 ルシアンは食卓の上の薔薇を見たが、しっくり来なかったらしくすぐに目を逸らし、何か考え始めた。

 そして彼はポケットから何かを取り出し、目の高さに持ち上げた。

 それはガラス玉だった。つややかで瑠璃のように澄んだ青。硬く、確かな重さがある輝き。


「黄昏の青」僕は言った。

「これを君にあげよう」


 ルシアンは薄い唇でガラス玉にキスした。彼はゆっくりとした動作でそれを入れ物に納め、蓋をしてカチリと鍵をかけた。肋骨も閉じてしまうと彼は身を起こし、悪戯っぽい表情で僕を見た。僕はこうやって彼を見上げ、淡い虹彩の中の金色の粒を眺めるのが好きだった。

 ルシアンは鍵を僕に差し出した。


「これはどうする?」


 僕はそれを受け取り、口の中に入れて飲み込んだ。すぐに管のどれかに落ちていく澄んだ音がした。


「時計を巻けなくなりましたね」やってしまってから、僕は気づいた。

「構わないよ、鍵なら他にもあるから」



 僕たちは食卓に着いた。というか、僕はテーブルの前に突っ立ち、ルシアンは僕の向かいに座った。

 僕は目の前に置かれた皿の乾いた薔薇を手に取り、どうしようか思案していた。茎には棘を取り除いた跡があった。僕はとりあえず花の部分を茎からむしり取り、花の方を飲み込んだ。少しひしゃげながら薔薇は喉を通っていく。(がく)がパイプの途中で引っかかってしまったが、そのうち下まで落ちていくだろう。

 僕は茎の部分を残して薔薇を全部平らげた。

 ルシアンはペストリーを紅茶で流しこんでいた。


「君がもう少し元気になったら、無用の塔(フォリー・タワー)を見に行こうか」彼は言った。

「どうでしょう……」


 僕は自分の下半身を眺めた。この体では無理かもしれない。それに、祖父母に会うのもなんだか気まずかった。僕が舞台に立ち始めてから両親にはすっかり愛想を尽かされていたし、祖父母からの便りもないので彼らも同じなのだと思う。

 だが、ルシアンは塔に大きな興味を抱いているらしかった。


「私も君の城を見てみたい。荒れ地(ムーア)の真ん中にあるんだろう?」

「ええ、あたり一面にヒースが生い茂って岩がごろごろしている……たまに羊の群れや野生の馬が現れたりして……遠くには黒い山脈(ブラック・マウンテン)が広がっています。夕暮れ時には丘が紅色に輝いて、岩々の影がものすごく長く伸びて怖い妖精みたいに見えるんです」 

「さぞ美しいだろう」


 思い出すと訪れたくなるから不思議だ。もう子供時代の魔法は失われているのに。

 塔を建てた人々は何を思っていたのだろう。生活のために、何の意味もないと知りながら働くのは──きっと祈りのようなものだ、意味のある労働よりずっと本物の祈りに近い……。


「あなたの故郷は、南の方でしたよね……」僕は言った。

「そう、化石海岸のあたりだ」


 そこにはジュラ期の地層があり、運が良ければアンモナイトの化石が取れるし、そうでなくても土産屋で買うことができた。以前ルシアンと一緒にその海岸を訪れたことがある……僕はさらに記憶をひねり出した。


「魚竜の墓……」

「よく覚えていたね」彼は嬉しそうだった。


 昔、そのあたりで魚竜の化石が見つかってちょっとしたニュースになったという。化石自体は博物館に寄贈されていた。

 僕たちは眠りを妨げられた魚竜をかわいそうだと思い、岩で隠れた潮溜りに墓を作った。砂を掘り、石を積み、チョークで立派な墓碑銘も書いた。


《そよ風が吹き 白い飛沫が舞い

 航跡は気ままに船を追う

 汝は初めて飛びこんだのだ

 その静寂の海に》 *


 あれはとっくに流されてしまっただろう。

 だが、僕はこう言った。


「いつかまた、あの墓を見に行きましょう」

「そうだね」ルシアンは笑った。


 なんとなく、次の食事は彼が集めていたアンモナイトの化石になりそうな気がした。




◆注

* S. T. コールリッジ『老水夫行』

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