北限より来たりし物 3話
きっと、どこかで兄は生きている。
ティセはその希望を支えに、聖女として敬われながら、独りの寂しさに耐えて過ごしていた。
衣食住の心配こそないが、辺境で家族と密な時間を過ごしてきたティセにとって、都会の希薄な関係性は優しくなかった。
ようやく、ようやく兄と再会できたと、そう思っていたのに。
「会えないって、どういうことですかっ!?」
「申し訳ありません。これも祓いし者であるティセ様の安全を考慮してのことです」
再会して翌日の夕方、宛てがわれた教会の一室で、ティセは抗議の声をあげた。
彼女の護衛をしている中年の男のジョンは、ティセの講義に対して、冷淡な反応を取る。
ピクリとも表情を変えず、平坦な声で、聞き分けのない子どもに言い聞かせるように、含めて言った。
「ティセ様のお兄様は、この数年行方不明になっていました。また当時、奪いし者と対峙していたのですよね? あの方が奪われていない保証はありません。護衛頭として、接触はお控え願います」
「そんな……。兄さんは奪いし者なんかじゃありません!」
「これはティセ様の安全を第一に考えての判断です」
にべもない反応だった。
どうしてたった一人の兄と会うことさえ制限されなくてはならないのか。
ティセはジョンの髪の毛一本すら生えていない禿頭を睨みつけた。
ティセは祓いし者として、たくさんの奪われた人々を診てきた。
彼、彼女たちの奪われたものを、満たしてきた。
この街の、他の祓いし者を除けば、誰よりも人とそうでないものの区別を判断できる自信がある。
――だが、その気持ちは、兄に会いたいという思いは、うまく言葉にならない。
ずっと、この街に来てから大人の言うことを大人しく聞いて、自分の意見をハッキリと言ってこなかった。
言われるがままに従ってきた習慣が、ティセから意思を言葉にする行動を奪っている。
口がもごもごと動くばかりで、そのもどかしさに地団駄を踏みたくなった。
兄に会いたい気持ちは溢れるばかりにあるのに、それを伝えて、自分の願いを通したいのに。
たったそれだけのことばできない自分が情けない。
「どうして聖女に区別できないのに、あんたにその判断ができるんだ?」
「兄さん!?」
「あ、あなたがどうしてここに!?」
不意にノックもなく扉が開き、部屋にスウェルが入ってきた。
突然の声に、ジョンが驚いて振り返り、さらに目を見開く。
スウェルは堂々と部屋に立ち、扉を閉めた。
そしてジョンの質問に、肩をすくめて答える。
「どうしてもなにも、家族と会うのに、なぜあんたの許可がいるんだ? これでも仕事中には会わないように遠慮してきたんだ。感謝こそされ、文句を言われる筋合いはないな」
「しかしあなたの面会は許可していないはずです」
「教会の門番はちゃんと話をしたら、通してくれたよ」
「くっ……あの者たちは職務怠慢ですね」
門番のおじさんたちは、ティセにいつも笑顔で優しく挨拶してくれる人たちだ。
同じぐらいの年の娘がいるからと、お菓子をくれたこともある。
きっとティセのことを可哀想に思って、通してくれたのだろう。
「それより、質問に答えてもらおう。一体何の権限が会って、俺がティセと会うことを制限できるんだ」
「私は護衛頭です。聖女様の安全を保つ必要がある」
「その聖女が会いたいと言っている人間を拒絶する権限があんたにはあるのか、と聞いているんだ」
「む……」
痛いところを突かれたのか、ジョンが言葉に詰まる。
記憶にある兄は、かつて言葉少ない人だった。
だが、その一言ひとことが強く、的確だったことを思い出した。
「あなたが奪いし者ではないという確証はない。祓いし者の存在は黄金よりも希少なのだ。万が一があったらどうする。私は自分の職務に忠実だったに過ぎない。避難されるいわれはない」
「だが、ジョンはどうなんだ?」
「なに?」
「俺が奪いし者として怪しいという。だが、祓いし者の判断が役に立たないと言うなら、あんただって奪いし者ではない、という保証がどこにある」
突然の言葉に、ティセはビックリした。
そんな疑いを持ったことなどなかったからだ。
突如自分が疑惑を持たれていると気付いて、ジョンの頭に汗が吹き出た。
ぷくりと珠になった汗は、吸われることなく額に流れていく。
「馬鹿な。私は長くティセ様の護衛をしている。危害を加えるつもりなら、いくらでも機会はあった。彼女の無事が何よりの証拠だ」
「なるほど。昨日までのあんたが奪いし者じゃなかったのは、その過去を見れば確かだな。だが、今日のあんたが奪いし者でない保証はどこにもない。昨夜襲われて、完全に奪われたあんたが、疑われない機会を狙っていた、と俺が言ったら、ジョンさん、あんたはどうやって無実を証明する?」
「…………」
ジョンが押し黙った。
答えられるわけもなかった。
「奪いし者は、完全に奪った者の存在を自分のものとしてしまうところだ。姿かたちや雰囲気まで似通ってしまう。潜伏能力は暗殺者もビックリな能力だ。……まあ襲撃時にはその擬態も分かるのだがな。奴らの特徴的な笑い声で」
奪いし者が何よりも恐ろしいのは、人々に疑心暗鬼を生み出させてしまうところだ。
あの人はもしかしたら、化け物かもしれない。
祓いし者が、あるいは力の授けられた戦士たちでなければ、判別することも、立ち向かうことすら難しい。
街に潜伏されていたら、大変な騒ぎになるだろう。
奪いし者は人類の天敵だった。
「だからこそ、奪いし者の潜伏を疑うなら、複数の人間で護衛するのがもっとも望ましい。こんなことは祓いし者の護衛なら当然知っている知識のはずだ」
「あなたは……一体?」
「知らないのか。祓いし者の能力を持っているのはティセだけじゃない。俺もだ」
「なんですって!?」
突然の告白に、ティセはもう何がなんだかよく分からなくなった。
普通の猟師だと思っていた兄が、自分と同じ、祓いし者だった。
いや、でも考えてみれば辻褄が合うところが多々あった。
たった二人で危険な北限の、さらに境界線上に住んでいたこと。
父も母も都にいる、と言われながらも、いまだどこにいるのか知らないこと。
もしかして父さんも母さんも、奪いし者と戦っていたのだろうか。
「これ以上面会を邪魔するなら、俺はあんたを正当な権利を侵害したとして、告発する」
「くっ……良いでしょう」
スウェルがジョンに近寄ると、そっと肩に手を置いた。
そしてすれ違う一瞬に、小さなささやき声を届ける。
「あまり権力闘争を幼い少女に持ち込むな」
ジョンは表情を張り詰めたものの、顔を伏せて何も言わず、足早に部屋を出た。
扉を開け締めする音の激しさが、彼の苛立ちを如実に表現していた。
二人だけになった部屋の中で、スウェルが上着を脱いで、椅子にかける。
そして軽く膝を着くと、ティセに目線を合わせた。
灰色の瞳が、どこまでもどこまでも優しくティセを見つめている。
あっ、この目だ。
いつも自分を見守ってくれていた、優しい目。
兄さんは、絶対に奪いし者じゃない。
「ティセ、大きくなったなあ」
「兄さんがいなくなって、四年も経ったんだよ?」
「むぐっ……。ほ、ほら、街でお菓子を買ってきたんだ。前に約束しただろう?」
「遅すぎるよ」
痛いところを突かれた、とばかりに顔を引きつらせたスウェルが、慌てて菓子の入った包み紙を持ち出した。
ガサガサと慌てて中身を取り出したのは、たしかに前に約束していた、ハチミツとベリーのジャムをかけたパンケーキだった。
「……悪い……。悪かったって。俺もできるだけ早く会いたかった。この気持ちは、本当だ。ほ、ほーら、美味しいぞ? 食べてしまうぞ?」
「ふ、ふふふふ、あは、あはははっ!」
「ティセ……?」
「兄さんのうそつき……」
どうにか機嫌を取ろうと必死になる兄の姿がおかしくて、ティセは笑った。
目尻に涙が浮かんできたが、これは悲しくてじゃない。
喜びの涙だ。
◯
パチパチと音を立てて、火花が散った。
夜遅く、ティセはスウェルと話をした。
スウェルがこれまでの生活を詳しく聞きたがったから、ティセはできるだけ一生懸命に、詳しく話をした。
その一つ一つに、スウェルは小さく頷き、短い応えを返した。
やがて色々なことを話し終え、言うべきことがなくなった。
そこに至って、ようやく自分ばかりがずっと話していたことに、ティセは気づいた。
兄のことを知りたい。
これまでどうしていたのか。
どうして会えなかったのか。
そして、どうして今になって会いに来てくれたのか。
「俺の話か。あの日……俺は奪いし者と戦った。ジョンという男には、俺も祓いし者としての力があると言ったが、アレは半分嘘でな」
「ええっ!? う、うそなの?」
「半分はほんとうだ」
やっぱり兄さんはうそつきだ!?
ショックを受けたティセの頭を、スウェルがぐりぐりと撫でる。
「俺は父と母の二人から力を授けられた戦士だったんだ。二人分だからすごく強かった。ただ、その加護も日に日に弱まっていてな。戦い方を教わっていたし、残る加護は十分な働きをしてくれたから、あの夜もティセを守ることができた」
「兄さんは、大丈夫だったの?」
「いや。……大丈夫じゃなかった。俺の存在が、八割ほども奪われてしまった」
「そんなに……!?」
教会の診療所に入院している患者でも、半分ほど奪われれば多いほうだ。
それが八割となれば、ほとんど廃人と変わらないはずである。
「俺は祓いし者じゃなかったが、それでも血筋が影響したんだろう。加護の力を手繰って、存在を取り戻そうとした」
「それで治ったの?」
「ああ……まだ完全じゃないけどな」
「わたしが治そうか?」
「いや、今は良い。それよりも、ティセが祓いし者になっていたなら、伝えておかないといけないことがある。俺が存在を取り戻そうとしていた時に知ったことだ」
スウェルが表情を厳しくさせたのを見て、ティセの胸中に一気に不安が湧き上がった。
いつだって、どんな時だって優しかったスウェル。
そんな兄が、過去に一度だけ厳しい顔になったことがある。
それが奪いし者の襲撃してきた夜だった。
つばを飲み込む。
「な、なに?」
「祓いし者が扱っている本。あれは元々、奪いし者たちの秘宝だ。あいつらは奪っているんじゃない。取り返しにきていたんだ」
「え……うそ……」
声が震えた。
たちの悪い嘘だと、ティセは思った。
またいつものように、からかっているんだと。
だがスウェルは、今度は嘘だとは言わなかった。
――カンカンカンカンカンカンカンカン!
ティセが呆然とし、スウェルが落ち着くのを待っていた時。
街中から鐘を乱打する音が響いた。
鐘をそのように叩く時の意味は一つ。
襲撃の知らせだった。




