うろくづのまなご 3話
雨谷村の役場の職員は、「取材」というものに興奮しているようだった。フリーライターなる斉木の名刺は世間的には胡乱だろうし、実績として記載した誌名も知らないようだったが。
「『マナを待つ会』──この辺りでは上って呼んでますね」
眼鏡をかけた職員は、応接スペースの窓にちらりと目をやった。そこには紅葉が彩る山並みが広がっている。そのどこかに、斉木が調べている「カルト村」が独自の共同体を築いているのだ。
「もう二十年近くになりますか、お付き合い……と言いますか、お世話になってますね」
「お世話に、ですか」
無論、斉木だって馬鹿正直にカルト村の取材で、とは言っていない。地域活性化の事例云々と、それらしい口実を考えてある。まともな記者を装うために、慣れないスーツを引っ張り出して、ネクタイの息苦しさにも耐えて。だが──
(トラブルはない、のか? カルト団体が傍にいるのに?)
職員の表情はにこやかそのもの、彼が期待したような「カルト村」との軋轢の気配は見えない。
「でも……村の皆さんには、すでに出来上がった人間関係とか、あるわけでしょう。外から大勢の人が移住することで、問題が発生したりとか──その、上手くやっていく秘訣があるんでしょうか」
露骨に問題を期待する発言は、さすがにできなかった。ふんわりとした質問に、職員は軽く首を傾げる。
「まず、山を有効活用してもらえるのが嬉しいですよね。人がいないと荒れるので」
「はあ」
先祖代々の山を買い叩かれた、のような恨み節のほうが聞きたかったのだが。斉木の覇気のない相槌には構わず、職員は上機嫌で続ける。
「実のところ、関係というほどの関係はなかったりもするんですが。でも、若い人に転入していただければ、数字の上では村は若返るわけですしね。時々、セミナーみたいなこともやってらっしゃるでしょう。参加者の方たちが買い物してくれたするのはありがたいですね」
では、セミナーの参加者とやらもお行儀が良いのだろう。ゴミを散らかしたり──強引に布教したり、なんてことが起きていたら、こんな笑顔で語れるはずはない。
思えば、雨谷村の役場は思いのほかに明るくて小綺麗だった。「マナを待つ会」が落とす金で潤っているということなのかもしれない。
(なんだよ、本当に地域活性化してるのかよ)
斉木の胸中で、落胆が育っていく。役場では大した情報を得られそうにない。
(あとは住人への聞き込みか……?)
胸算用しつつ、無難な質問をいくつか重ねて、斉木は取材を打ち切った。丁寧に辞去の挨拶を述べると、職員は三つ折りのリーフレットを差し出してきた。
「真名子祭も近いんですよ。良かったら、そちらの取材もどうぞ」
「まなご……?」
リーフレットの表紙には、年賀状にありそうなデフォルメされた絵柄の蛇が、笑顔で「真名子祭にようこそ!」と言わせられている。
「秋の収穫を神様に捧げて、感謝と翌年の実りを記念するお祭です。真名子っていうのは、ここでは巫女のことをそう呼ぶんです」
「へえ、蛇の神様をお祀りしてるんですね」
リーフレットをを開くと、祭の由来を解説する文章と、何枚かの写真が並んでいた。
古びた神社、祭壇に並んだ神饌の米や野菜に、祝詞を捧げるらしい神職の姿。中華街の龍舞のような張りぼての蛇。緋袴の巫女装束を纏った小学校低学年くらいの少女たち。
田舎の素朴な信仰、を体現したような光景だった。
「そうなんですよ。昔ながらのお神楽の奉納も残ってますし、ぜひ」
「そうですね、神社もお参りしてみましょう」
社交辞令めいた相槌をうちながら、斉木は頭の中を火箸で搔き回されるような思いを味わっていた。
熱くて痛くて怖い。脳の中に眠っていた何かが目覚めたかのような、発作めいた苦痛を喚起したのは、今聞かされた単語なのか。
(蛇。真名子──まなご。俺は知ってる。いつ、どこで、なぜ……?)
知っていてもおかしくないはずでは、あった。
蛇神信仰なんて日本全国にありふれている。
八岐大蛇に夜刀神。「マナを待つ会」の創始者の姓である宇賀神だって、蛇神由来だ。この辺りはそもそも彼の得意分野なのだ。
「神主さんが由来を教えてくれますよ。学校の地域学習で慣れてるから、迫力ありますよ」
「由来。どんなのでしょう」
だから、これまでの取材でも似たような祭や神事に触れたことはあるだろう。
「人身御供、ですよ。蛇の神様っていうのは恐ろしい神様で、村人を生贄に捧げていた、っていう!」
だから、職員がわざわざ声を潜めて告げた由来とやらも驚くべきものではない。日本中にその手の伝承は残っているし、多くの場合、実際に生贄の痕跡は認められないのだ。
「へえ……」
よくある、陳腐な話のはずなのに。──なのにどうして、斉木の耳の奥で何者かが唱うのだろう。
掛けまくも恐ろしき雨谷の御山の磐座の御親大神の御名において鱗の愛児の仰せ宣う
──思い浮かべるだに恐ろしい、雨谷山の岩を御座所とする我らの祖神、大神の御名において、うろくづのまなごが命じる
「そんな怖い神様に、どうして豊穣を願うことになったか、っていうのが肝なんですよ。で、蛇神様が生贄を呑み込むくだりが真に迫ってて──」
「小さい子は、怖がるかもしれないですね」
斉木が性急に遮ったのは、真名子祭の由来とやらの想像がついたからだ。
きっと、旅の修験者とか僧侶が蛇神を対峙して、悔い改めた蛇神が村を守ることを誓ったとか──それもまた、民話のテンプレートのようなお話なのだ。
なのに、斉木の頭の中ではまだ記憶にない祝詞が響いている。少女の高い声で、延々と──ぐるぐると。蛇がのたくり、とぐろを巻くように。
御山離りて殖りし同胞らに鱗の愛児の仰せ宣う
──御山を離れて殖え栄えた同胞たちに、うろくづのまなごが命じる
にこやかに会話を続ける職員には、この声は聞こえていないのだろう。耳元で囁かれている気がするのに。命令に従わねばと、身が焦がれる思いがするのに。
(命令……?)
祝詞の内容を、ごく自然に理解して受け入れている自分に気付いて、斉木の額を汗が伝った。
「──では、失礼します。ご協力ありがとうございました」
「こちらこそ。記事ができたら教えてください」
にこやかに挨拶を交わしながら、斉木は思い出す。少女の声をした何者かが彼に下した命令、その内容を。
御山居いりしところせし外術の輩を見顕し追ひ遣らへ
──御山に入り込んだ鬱陶しい邪教の輩の正体を暴き追い払え
斉木は、訳の分からない存在に、いつの間にか下された命令に従って「マナを待つ会」を追っていたのだ。
(真名子──愛児? なぜ、祭神の名の祭りじゃないんだ? 巫女が祭の中心なのか? 御親って……誰の──何の子なんだよ。巫女は……神子とも書く、か……?)
脳に響く少女の声の残響が、彼の混乱に拍車をかけた。
役場を出た瞬間──込み上げる吐き気を呑み込むため、斉木はその場に屈みこんだ。
§
帰還から数日の間、颯真はあらゆる仕事から遠ざけられて休養を命じられた。
あの夜こそ、一瞬で泥のような眠りに落ちたけれど。目覚めてみると全身の痛みに悲鳴を上げることになったし、熱も出た。
谷底で身動き取れなかったのは、身体の機能としてはやはり正常なことだったのだ。
痕が残るような傷もなかったし、骨も折れていなかった。抗生物質を使う必要もなかったから、《集会》の参加にも支障がない。そう分かると、彼自身も茉菜先生も、友人たちも大人たちも安心した。
そして颯真が再び《楽園》の外での仕事に復帰した時、頬に感じる風はかなり涼しく、秋の気配を纏ったものになっていた。
目に映る紅葉も燃えるように鮮やかで──あの少女の着物を思い出させる。
(あの子は、何だったんだ……?)
日常に戻って、慣れ親しんだ仲間たちに囲まれても、あの少女の面影は、颯真の胸から去ってくれなかった。むしろ、疑問は日に日に大きくなるばかりで──
「颯真、大丈夫? ペース落とす?」
「う、ううん。大丈夫……!」
前を歩いていた友人たちが振り向いたことで、颯真は溜息を零してしまったことに気付いた。というか、遅れがちになっていたのも意識していなかった。お陰で、病み上がりの身を心配させてしまったらしい。
「この前落ちたの、この辺だから。思い出しただけ」
「ああ……」
夕日が紅葉をいっそう輝かせる中の、畑からの帰途だった。あの時はひとりで歩いていたところ、今日は班を組ませられたのも、先生たちによる配慮、あるいは警戒の一環だろう。
「鹿だっけ? 突然出てきたら、びっくりするよね」
「……まあね」
気遣う風情の皆の目に、とろい奴だ、という呆れや嘲りが入っていないだろうか。あるいは──《集会》から逃げようとしていないかと、監視していないだろうか。
一緒に生きて一緒に死ぬ。支え合い助け合い──共に罪を重ね、共に贖罪に臨む。運命を同じくする仲間たちのはずなのに。あの夜を境に壁か溝が築かれてしまったようだ。
颯真は友人たちから顔を背け、視線を下に向けた。
(俺だって、鹿を見ただけで足を滑らせたりしないって)
《楽園》は緑豊かな山中に築かれているのだから。鹿に限らず、猪だとか狐だとかの野生動物を間近に見ることには慣れているし、やり過ごし方も教わっている。
あの日に限って狼狽えてしまって、滑落に繋がったのは──あの獣が、颯真を跳ね飛ばす勢いで駆け抜けていったからだ。あれは、まるで──
(何かから逃げていた……?)
畑を荒らす個体を、大人たちが銃や罠で駆除することはある。でも、それならうっかり怪我をしないよう、颯真たちにも必ず知らされるはずだ。
もちろん、人以外の敵に追われていたのかもしれないし、何かの物音に驚いただけという可能性も考えられるけど。
(何だったんだ……?)
疑問に気付いてしまうと、生まれ育った山の広さが怖かった。仲間たちと同様に、颯真との間に壁が築かれてしまったかのような。
天と地の間、そして人の間でも、ただひとりきりのような。
気温のせいだけでなく、寒気を感じて颯真が身体を震わせた時──彼の目は、紅葉の中に風によらない動きをする朱色を捉えた。
木の葉にしては大きく、しかも枝を離れた地表近くで、木々の間を歩く──朱色の、着物。
「ちょっと、先行ってて」
呟きながら、颯真は《楽園》が切り拓いた道を離れて斜面に足を向けた。当然のことながら、仲間は口々に驚きの声を上げる。
「颯真?」
「なんで? 危ないよ」
「お前、怪我したばっかで──」
もっともな疑問に答える時間が、惜しかった。目の端で、遠ざかりつつある朱色を追いかけながら、颯真は早口に言い募る。
「えっと──落ちた時に、茸があったんだ。種類分かんなかったけど! 迷惑かけたお詫びに、取って来ようかなって。……気にしないで!」
「颯真──」
説得力なんて欠片もないのは、分かっている。仲間が警戒を募らせ始めているのも。
でも、これのままでは彼女を見失ってしまう。
「ごめん。すぐ行くから!」
「おい。待てよ!」
颯真は短く言い捨てると、斜面に身を躍らせた。数日前に味わった浮遊感に、恐怖が蘇る。でも、耐える。
積もった落ち葉の下に隠れた、木の根や凹凸に足を引っかけられないことを、ひたすらに願いながら。落ちるように駆け下りる。鹿や猪の脚の軽やかさが人間にもあれば良かったのに。
闇雲に飛び出したわけではない。颯真にも一応の計算があった。
(あの子は──下の子だから。下の人たちが使う道もあるんじゃないか……!?)
少女は、颯真に気付いちゃった、と言っていた。
彼は、滑落によって下の、《楽園》の外の領域に入り込んでしまっていたのだろう。颯真にとっては遭難でも、彼女にとっては日常使う道なのかもしれない。
何しろ《楽園》と外とは没交渉だ。颯真は、互いの集落がどれだけ離れているのかも知らないのだ。
ほんの数十メートルの上下を隔てて、彼とあの少女はすれ違ったことがあるのかもしれない。
さっきも、あの朱色は滑らかに移動しているように見えた。
(降り切ることさえできれば、追いかけられないか……!?)
祈るように念じながら、頬に風を感じていたのは何秒だっただろう。
「──っ」
颯真の足の裏が、比較的平らな地面を掴んだ。ひとまず無事に斜面をくだることは、できた。
(あの子は──)
上からの視界を反芻しながら、荒い呼吸を整えながら。颯真は朱色が過ぎていったほうに目を凝らした。すると、木立がややまばらになっているところがあるのが、分かる。
(やっぱり道がある……?)
颯真は森の中を進んだ。そうして、少しずつ《楽園》から遠ざかっていく。
仲間たちに嘘を吐いて。また怪我をする危険を冒して。
そこまでして、どうしてあの少女を追ってしまうのか──自分自身でも分からないまま。
何かに追い立てられるような焦りは、あの夜と同じ。でも、今、颯真の心臓が激しく鳴るのは、恐怖によってではないような。ただ、急がなければ、彼女を見つけなければと、その一心だった。
頭上を枝葉が覆い、陽光と紅葉によって視界が金と赤に染まる。
燃えるような世界の中をしばらく歩くと、案の定というか、草が踏み固められた道らしきものに行き当たった。足跡と、木を切り倒した形跡からして、獣道ではあり得ない。
(右か、左か……!?)
とはいえ、喜んでいる暇はなかった。方向感覚は、すでにだいぶ怪しくなっている。あの朱色は、いったいどちらに向かっただろうか。
(こっち!)
賭ける思いで、颯真は右を選んだ。そして、駆ける。やはり下の人たちが頻繁に使っているのだろうか、足もとは格段に走りやすくなっていた。
大きな木や、地面の起伏を避けて蛇行する道は少し先の景色も見えない。
外れだったか、と。不安と、それから息切れによって心臓が破裂しそうになるけれど──見えた。少し先に、朱色の着物と、艶やかな長い髪。
(あの子だ!)
思った瞬間に、頬が熱くなった。疾走によって体温が上がっているから、だけではない。胸の奥底から何かが弾けて涌き上がったかのよう。
「──ねえ!」
込み上げる何かをぶちまけるように。颯真は、少女の背中に向かって呼び掛けた。思ったほどの大声は出ず、情けないほど掠れた声だった。でも、山の中で響く人声は、とにかく目立つ。
少女は振り返り──目を瞠った。ぽかんと開いた唇から、喘ぐような問いかけがこぼれる。
「……君。どうしたの……!?」
聞かれたところで、答えようがないはずだった。彼女を追った理由を、颯真自身も知らなかったのだから。でも──
(ああ、そうか。そうだったんだ)
それでも、颯真は微笑んだ。
訳の分からない、理不尽な行動の答えが、今、この瞬間に分かったのだ。いるはずのない神が下した天啓のように。
その答えを、颯真は喜んで告げた。喜び──そうだ、彼の血を沸かせたのは、これ以上ないほどの歓喜だった。
「会いたかったんだ。君に、もう一度……!」
分かってしまえば、なんて簡単なことだっただろう。




