鏡の回廊
8
鏡の回廊
登場人物:
グラウリー:大柄な斧戦士
ラヴィ:女性鍛冶師
バニング:暗殺者
マチス:老練な短槍使い
トッティ:若い鈍器使い
ボケボケマン:オークマスクの魔導師
エイジ:蒼の魔導師
トム:商人
ギマル:部族出身の斧戦士
※
ラヴィは気がつくと真っ暗な闇の中によこたわっていた。夢から覚めたような気持ちでいると、段々と記憶が立ち戻ってくる。
ここか…。
鏡の間の扉をグラウリーが開ける瞬間を思い出していた。
全員が覚悟を決め重い音のする石の扉を開いた瞬間。彼等の視界に飛び込んできたのはおびただしい量の鏡。鏡だった。
異様な光景――そう思った瞬間、意識は鏡の中に吸い込まれるように遠のき目の前を白い光が襲った。そして気がついた先がこの暗黒の世界だ。
その暗黒の世界はだがけして闇だけではなかった。ラヴィの左右をはさむようにして、白く輝く全身鏡があたかも壁のごとく連なって白く怪しい光を発していた。
「鏡の…回廊…」
ラヴィ達一行は昔、このトラップに陥ってしまったという斧戦士グラウリーの過去を聞いていたのでこのトラップを知る事ができた。彼が語るところこのトラップに回避術は存在しないという事だった。
鏡の間の先を通るには何者であろうとこの暗黒の世界に一度は導かれなければならぬ。そのトラップを打ち破るには、強く自我を保つ事。そして仲間を信ずる事だとグラウリーは語った。
(そうそう、あかん。この鏡を長く見とったらあかんのやった。早く出口を探そう)
周りを確かめ、どうやら自分の他に仲間は同じ場所には飛ばされていないと知ったラヴィは立ち上がると前を見据え、回廊を奥へと早足で歩き出した。
(どっちが出口かはわからへんが…侵入者を惑わせ、餓死させる事を目的とした迷宮では少なくともない…とグラウリーは言っておった。鏡にさえ気をつければ、そのうち…)
と、ラヴィは固いとも柔らかいともしれぬ暗黒の床を踏みしめ、鏡を極力見ないようにしながら進んだ。
その時だった。
突如肩の強烈にすくむような感覚を覚え背筋に何か得体の知れぬ、そして憎悪を持った何かが駆け抜けていくような感覚をラヴィは覚えた。
「な…んや…これ…!」
電撃のような衝撃を体中に感じ立ちすくんだ。瞬間、胸の奥から突き上げるような衝動があり――それはあたかも死人使いの毒の炉。恨みのある相手を苦しみ、果てさせるだけの為に気の遠くなるほどの種類の秘薬を放り込んだ、底から醜い緑色の瘴気が湧き出す呪詛の炉の光景に似ていて。
ラヴィの赤い瞳に目の前にあるはずのない光景が繰り広げられる。それは、かつて彼女が生きてきた中で体験した、裏切り、嫉妬などの負の感情――。
彼女が師について鍛冶の修行をしていた時、異端視される一人の女流鍛冶がいた。その鍛冶士は腕がよく溢れる才知があったが、その才に溺れ堕落し闇に染まった。彼女はその師の鍛冶道場で禁忌とされる、闇の刃――呪わしき毒剣作りに手を染めた。その悪魔の野望は凡人のそれを超えていて、最高の毒の原料とされる半ば呪術を用いた東方の技術――巫壷の毒を造ろうと試みた。首から下の自由を奪う痺れ薬の入った大きな壺に、生贄となる女性を入れる。その壺の中に生贄の体を死なない程度の激痛が襲う溶液も入っており、それが生贄を苦しめる。その苦しみがやがて呪いとなり、壺の下のろ過装置から生贄から搾り取ったエキス――凶悪な毒の原料となる――が生まれるのだ。
ラヴィの同門で一番仲の良かった親友がこの地獄の儀式に選ばれた。ラヴィが駆けつけた時にはもう遅かった。親友は既にエキスを搾り取られ、ミイラのように干からびた。それだけではあきたらず、その狂気の鍛冶士はラヴィの師を出来立ての毒剣で刺し殺していった――。
今でも夢に見る時があるあの時の悲しみ、怒り――。壺の中で変わり果てた形相で朽ち果てた親友の顔、毒に染まって変色した師の遺体。
「カ――――!」
長い、長い追憶を垣間見たラヴィはその仇敵の名を呼びかけた。が、その事が皮肉にも彼女に一瞬の正気を取り戻させた。同時に体の芯から来るような紅蓮の炎のように燃え上がる怒り、恨みにラヴィは感づいた。
まるで自我、全てを飲み込んで奪い去ってしまうかのような、それは激しく大きなうねり。
(いけない――!!)
だがラヴィは黒い炎に飲み込まれるのをかろうじて踏みとどまった。ここで踏みとどまらなければ私は私でなくなる――確信にも似た直感が、そう告げていた。
グラウリーの話を聞いて意識的になれたせいもあったのかもしれない。刀で真横の古鏡を打ち壊すと、そのまま心を落ち着ける努力をしてラヴィは怒りを紐解いていった。
(そう――ここで、自分を見失っては…飲み込まれる。強く!強く!自分を、そして仲間を信ずる――!)
ようやく気持ちが落ち着いてきた、その時だった。
右側奥の回廊の鏡が、突然大きな音を立てて割れ、砕け散った。
「なんや!?」
何が起こったのか、一瞬わからなかった。砕けた鏡が暗黒の回廊に白く輝いて飛び散って、それがスローモーションのように感じられた。
思わず臨戦態勢を取るラヴィだった。が、鏡が砕けて回廊に穴が空いたそこに、何者かの手がかけられた。
「誰やっ!」
叫んだラヴィの耳に、荒い息遣いが聞こえてきた。だがそれはどこかで聞き覚えのある声だと思った。その事は、彼女に言い知れぬ不安と絶望を感じさせて。
穴から、影が姿を現した…。
「バニングッ!!」
絶叫にも似た大きな声でラヴィは言った。彼がラヴィを認め、その黒尽くめの姿に光る黒い双眸の異様な光を感じた瞬間彼女は一つの直感を得た――。
――来る。
刀を握り締める手に力が入った。白銀の切っ先で相手を見据える。その立ち姿に光る赤い眼はしかし憎しみを宿していない。むしろ何か悲しげなものでも見るような目で、影のように蠢くその男の挙動を瞬き一つせず凝視するのだった。
男が、黒い刃を漆黒の影の中に隠すように低い姿勢でラヴィに斬りかかった――。
*
「グラウリー!」
たくましい上半身に毛皮をかけた、いかつい男がその名を呼んだ。
ギマルである。遠く回廊の先に見覚えのある姿を見つけ走り寄ってきた。
しかし彼は、「来るな!」とギマルに叫び返したのだった。
「――?」
怪訝に感じたギマルだったがグラウリーの様子がおかしい事に気がついた。そして、そのグラウリーを囲む回廊に一つの変化がある事に気がついた。
鏡の回廊を走ってきたギマルは回廊の壁となる鏡の並びは縦か横かの直線的な並びしかないと思っていた。それはここに到達するまでの道のりを経て気付いた事だ。だがグラウリーのいる辺りは様子が違う。手前で回廊の鏡の壁が湾曲し弧を描く。そしてそれはグラウリーの奥で収束しだし、そしてまた元の回廊に戻る。言ってみれば、そこだけ鏡が円形に並べられているのであった。
「来るな!ギマル――!ここは、ここは特に魔力が強い!罠だ!円形に収束する鏡のせいで心を狂わせる魔力の照射率がぐんと高く…なっている――…このままでは…」
確かに、グラウリーは苦しそうであった。彼の形相は深いしわが刻まれ、眼には力強く負の輝きがある。手に持つ斧がぎゅうっと力を込めて握られてぶるぶるとわななく。あたかも早く血を吸わせる獲物を捜し求めているように。
「以前には――…こんなものは、なかっ…た…。引き返…して――違う…道を…ギマル」
最後の方はやっと、というような声でグラウリーは言った。その眼は苦渋の色に満ちていて、仲間を助けねばならないのに再び罠にはまってしまった事を深く悔やみ、それでいて鏡の強い魔力に逆らってはいるものの、いつかこの罠に自分は抗しきれなくなるかもしれない。という深い慟哭に満ちていた。
俺じゃなくてもいい。お前だけでも仲間を助けに行って欲しい。という無言のメッセージが脂汗の浮かぶ顔に浮かんでいた。
「何を…ギマル――はや…く…」
だがギマルは、そこに立ち尽くしたまま動かない。彼はゆっくりと柔軟に斧を持って構え始めた。その眼は確かに何者かを狙っているようで、例えるなら狼――彼の生まれた雪原地方にまれに見られる、気高く強き白銀の狼を思わせるのだった。
「ギマ…ル?…まさか――魔力…に?」
「……」
瞬間、ギマルはさながら獅子のごとき咆哮をし電光のような動きでグラウリーに飛び掛った。猫科のしなやかな筋肉が見せる素晴らしい瞬発力をもった、まさに獣の動きであった。
ギャリーンという音が、回廊に響いた。
「ぐあっ!」
グラウリーの叫び声が聞こえると、彼はすさまじい力で吹っ飛ばされていた。
ギマルが放ったのは彼の部族に伝わる古の奥義。瞬間に電光石火のごとき速さで戦斧を二度振りぬく、鬼神の太刀!長い歴史の間斧を手に戦ってきた戦の部族だからこそ、そして雪原に住む人間の元来持つ素晴らしい瞬発力があったからこそ可能な奥義。
グラウリーは円形の鏡の罠からギマルが来たのとは反対の回廊まで吹っ飛ばされていた。しかし彼に傷はなかった。すさまじい斬撃が当たったのはグラウリーの斧であった。
円形の罠から抜け出た事によりグラウリーは強い念でもってその意思を取り戻す!
「ギマル…?」
しかし今度はギマルがかわりに罠にはまってしまう。彼は耐え難い苦痛にとらわれたかのような緊張を筋肉全体に表して、それを見たグラウリーは瞬間何をいってよいのやらわからなくなってしまうのだった。
「ギ――」
「行け――!グラウリーッッッ!!」
グラウリーの言葉をかき消すように野太い声で、ギマルは吼える。
「俺じゃない!お前が行くんだ!今度こそ――お前が助けなくてはならない――!失ってはならぬ仲間を――。そして、今こそ断ち切れ!お前に影を落とす過去の呪縛――!!」
ふっふっ、…ふうう…。と、グラウリーは体中の筋肉が震えるのを感じた。ギマルは自らを引き換えに彼を窮地から救ってくれたのだ。頭の中ではギマルをすぐに助けねばと思った。しかし彼の戦士の肉体はそれを拒んだ。
ギマルの気持ちに応える為にもここで立ち止まってはならない。感傷に浸っている場合でもない。剣の礼には剣で応える。それが戦士と戦士との、暗黙の礼儀!
「すまぬ――っ!!ギマルッ!俺は行く!行って仲間を、奴等を助けて来る!」
力強くグラウリーは斧を片手で持ち体に対して垂直に胸の上で構える。戦士の――敬礼。
そしてグラウリーは背を向けると、疾風のような動きで回廊を走り去っていった。
(すまぬギマル…他の仲間を助けたら…必ずお前を助けに行く!)
「行け…――グラウリー…」
ギマルは襲い来る魔の力に眼をかすませながら、呟いた。
*
金属音が回廊にこだまする。
ラヴィとバニングが、戦っていた。
バニングはやはり鏡の魔力に屈してしまっていて、そのアサシンの技を繰り出してはラヴィに襲い掛かる。一撃でも食らえば死に至る、魔の毒刀。
ラヴィは鍛冶士だが、修練により修めた剣法でそれを迎え撃つ。しかし彼女には戦いながらも二つの疑問があった。
一つはなぜバニングが鏡の魔力に屈してしまったかという事。グラウリーに話を聞き前もって鏡の魔力に対する心構えがあったのに。である。
そして二つ目の疑問。
なぜバニングは私と対等に戦っているんだろうという事。
かつて暗殺者としてその闇の剣技を磨き、そしてこのバルティモナの戦いでも密かに卓越した技を見せていた。自分も剣士のはしくれとして相手の技量を測る事くらいはできると思っている。その眼で見たバニングの技量は人間的に好きになれるかどうかという事とは別に、明らかに自分よりも上だと思った。それがなぜ。
「やめんか、正気に戻れ、バニング!」
剣を交えながら、ラヴィが叫ぶ。しかしバニングの虚ろな眼には何も見えていないかのようで。ふと、バニングの動きが鈍った。すかさずラヴィは無銘の刀を横に薙ぎバニングの剣を飛ばした。
「う、あぁ…ああぁ……」
するとバニングは回廊に膝をつき頭を抱えだした。
「バニング?」
うずくまったバニングにラヴィが駆け寄った。だが彼女はそのバニングを見て驚愕したのだった。
バニングは鏡の一枚をこれ以上開かないというところまで眼を見開いて見入っている。まるでその鏡から、彼を引きつけてならない磁力が湧き出ているかのように。やがてバニングの顔には恐怖の表情が浮かんだ。
「う、あぁ…ああ――っ!…ローズ!ロ――ズッ!…許してくれ…」
ラヴィが鏡の魔力によって、過去の忌まわしい出来事を思い出したように今、バニングの眼にもある映像が浮かんでいた。
それは彼が自身の中に深く封じ込めたはずの、追憶の彼方――暗殺者ギルドのアサシンという影の住人として働いていた、己の中に無機質な血を流していたあの頃。
いつしか暗殺者ギルドからの指令だけを忠実に遂行するようになっていた彼は、そうとは知らず。
だが自身の手でかつての友を殺めた――。
知ってやったわけではない。剣を突き立ててから、その事に気付く。深い慟哭、血涙――。おのが身の呪わしさ。そして彼は暗殺者ギルドを去った。
「許してくれ…知らなかった…知らなかったんだ…」
バニングはうずくまりながら独り言を喋った。断片的な情報ではあったが、ラヴィはそれを聞き概要を知りえた。
すると突然バニングは発狂したように猛烈な叫び声を上げると転がった毒剣を走り寄って拾った。人は巨大な問題に対峙し立ち向かいうる術がないと悟った時、本能的にそれから逃げる事を考える。彼の眼には最早ラヴィがラヴィとして映ってはいず、彼を苦しめる何か、ただ苦しみの元凶だと思えたのだった。こいつが俺を逃がしてくれない。こいつが俺を苦しめる――。猫に壁際に追い詰められた哀れな鼠のように彼はもう、どうしたらよいのかわからぬといった表情をしていた。
「うぁぁああっ!」
再び絶叫しながらバニングは斬りかかってきた。
だがラヴィはその剣撃を刀でしっかりと受け止める。二人が剣と剣を押し付けあう音がぎりぎりと鳴った。
「…今のあんたの剣は、こんなに弱々しい。ここに来るまでのあんたはあたしより遥かに強かったのに――。アサシンギルドを抜けたと言うのなら、いつまでもその影を引きずるべきじゃない。親友を殺めてしまった自分に怒りと悲しみを覚えるなら、日の光の下を堂々と歩けるような生き方で罪を償うべきや」
剣の強さ。それは必ずしも技量、剣の良さだけではありえない。持つ者の精神。それがどんな時においても左右する。迷いや後悔はふとした時に剣に現れる。冷徹なバニングの深遠に隠された深い後悔が、ここへ来て鏡の魔力で増大されたのだという事にラヴィは気付いていた。
「ええい」
ラヴィは刀をバニングの毒剣の根元に巻き込ませると、すくいあげるように剣を弾き飛ばした。剣は空中で回転して回廊に刺さる。ラヴィはバニングに蹴りを入れて突き飛ばした。
「罪から、逃げたらあかんと思う。あんたに必要なのは罪を見据える事やと思う。だから今だに自分の事を蔑んで暗殺者ぶっているあんたが、この毒剣を使っているのだという事が前と同じくらい――前以上に耐えられんのや」
そう言うとラヴィは刀を鞘に納めた。一瞬彼女の呼吸が止まったかと思うと音速と見まごうばかりの速さで剣が抜き放たれたのであった。
東洋の騎士が使うと言われる、秘剣「居合い」。
カツーンという妙に小さな音がして、回廊に刺さっていた毒剣が真ん中の辺りで二つに折れた。
「もうあんたには、こんな剣は使わないで欲しい。それだけの剣技があればあんたはまともな剣を使っても相当に強い。自分を強く持つんや、ここでは自分を強く持てない者が鏡の魔力に食われてしまう」
するとラヴィは再び刀を鞘に納め腰から鞘ごと刀を抜くと、それをバニングに差し出した。
「これをあんたにやる。あたしの打った、今までで一番よくできた刀。無銘だったんやけど――今銘を思いついた。 日輪 (ひのわ)や」
「ラヴィ…――」
既にバニングの眼には、狂気の色はなかった。まるで黒い毒剣が折れた事が、彼を闇の世界から解き放つ鍵となったかのように。
遠くで、大きな金属の破壊音が響いた。
その音のした方向から、やがて人の声。それはグラウリーの声であった。
*
「後は…」
数人の男女が鏡の間に立っていた。
鏡の間は広い四角形の部屋で真ん中に通路と広間があり、壁際には無数の古ぼけた鏡が立ち並んで入り口の方を向いている。この部屋に入ろうと扉を開けた者を、狂気の魔力の支配する暗黒回廊にいざなうトラップだ。しかしその回廊から脱出する事ができればもう罠は作動せず、奥にある上層に続くのであろう扉へ行く事ができる。
広間に集まっていたのはもちろんグラウリー一行で、そこにはボケボケマンやトッティ、マチスやラヴィなどといった、バルティモナ遠征のほとんどの面子が揃っていた。
グラウリーが鏡の世界から抜け出した時、ボケボケマンとエイジは既に広間にいた。彼等は強大な魔力で自分達の周囲に魔法障壁を張り、さほどの苦労もなく脱出する事ができたのだという。しかしこれは、魔道師ならば誰でもできるという代物ではなかった。風の都と呼ばれる古の魔導学園でトップを争う程の天才魔道師達、エイジとボケボケマンだからこそできた芸当であった。
グラウリーが幾多の鏡の中からラヴィとバニングの映りこむ鏡を発見し、斧でそれを破壊して彼等を助け出した時、ボケボケマンとエイジはトムとマチス、トッティが一緒の暗黒回廊に入ってしまったのを助けていた。
「トッティが少し精神的に消耗したようだが何とか助かったよ」と、革鎧の肩当てが片方破損したマチスが言った通り、精神的に若かったトッティがマチスを少し攻撃してしまったようだがエイジらの協力もあった事で切り抜けられたのだった。
残るはギマル、唯一人だった。
「アイツは俺のかわりに罠にはまってくれた。俺に仲間を救いに行けと…今、助けに行くからな!」
グラウリーがそう言った時、鏡の一つが強く発光した。
「うわっ」と皆が眼をくらますと、そこに一人の大きな男が立っていたのだった。
異様に盛り上がった肩の筋肉から続く二の腕は、丸太のように太い。その豪腕がぎっしりと大きな双刃の斧を握り締めていた。長く鈍い銀色の髪の下に光る双眸は獣のそれを思わせて、グラウリーは一目でギマルがあの罠によって心を支配されてしまったのだと知った。
狂戦士状態になっている。と思った。
狂戦士とはあらゆる生物を死滅させるまで、または自分自身が死ぬまで戦いをやめないという伝説の戦士である。その筋力は通常の人間の限界を軽く超え、並みの戦士ならば近寄っただけで胴がまっ二つになってしまうのだという。
魔法や薬で一時的に狂戦士状態にし攻撃力を増すというのはあるが、この鏡による狂戦士の場合は相当やっかいだった。かつて自分もそうなりかけた経験からして、ここまで狂戦士化が進んでしまうと仲間全員を殺さなければ鎮静化しないかもしれない。
それに加えてギマルの攻撃力が問題だ。ただでさえ豪腕のギマルが狂戦士化しているとなると、どのくらいの力が生まれるのか…最早グラウリーには想像がつかなかった。
だが、それでも。死を賭してでもギマルを止め元に戻さなくてはならない。グラウリーはそう思っていた。彼を止め、そして何とか強く呼びかけて元に戻す。勝算の薄い賭けだがやるしかない。
「俺が行く。何とかしてみる」
グラウリーがつぶやき、斧を構えて走り出した。
が、その時がしっと肩をつかまれた。ボケボケマンだった。
「死に急ぐな。グラウリー。ここは俺達がなんとかしよう」
「ボケボケマン?」
驚いた顔をするグラウリーを尻目に、ボケボケマンとエイキがグラウリーの前に立った。
「怒りの精霊の力を」
「逆流させるわけね。OK」
二人がこともなげにそんな会話をしているとついにギマルが彼等のうちの誰かを標的に定め、今にも襲い掛からんとする所だった。眼は黄色くぎらつき、口からは激しい歯軋りと共に唾液が漏れる。生あるもの全てを憎く思う、狂戦士の特徴。
「があぁぁあっ!!」
周りの空間を震わせるような鋭い咆哮をたてると、ギマルは突進した。
瞬間、二人の魔道師の両掌から紅い光が解き放たれた。
その光はギマルを包むと破裂音を立てて消えた。気がつくとギマルは床に倒れている。
「ギマル!」
「心配ない。少し気を失っているだけだ。覚醒すれば狂戦士の状態は元に戻っている」
ボケボケマンは淡々と説明した。
「一体何を…」
「選ばれた者だけがなれるという聖騎士…彼等が使う神聖魔法というものの中に、自らを一時的に疑似的な狂戦士状態にして攻撃力を上げる魔法がある。俺達はその魔法を逆流させギマルを元に戻した」
「さすがにギマルの狂戦士状態を解除するには一人の魔法力じゃ足りなかったけどな。二人がかりならこんなもんだ。…まあ聖騎士の魔法までも使えてしまうのも、ひとえに俺等の天才的なセンスがあってこそ…」
エイジが済ました顔で自慢を始める。だが、誰もそれをうとましいとは思わなかった。唯、唖然としていた。
「す、すげえ…」
トッティまでもが口を開けている。
「は、はは…」グラウリーは少しぎこちない笑いをしながら、ボケボケマンを見た。
いつかこの二人の天才魔導師が魔法学の歴史を変えるだろう。そんな想像、いや確信と呼べるものをグラウリーは思った。それはかつて歴史に登場した大魔導師達と肩を並べる事になるやもしれぬ。それほどまでにグラウリーは二人のセンスに感嘆した。
「介抱しに行こうか」
不気味なオークマスクの口元にわずかにのぞく本人の口元が薄く笑った。
「ああ!」とグラウリーはギマルの方に走り寄っていくのだった。
彼の胸にはかつて全滅寸前まで追い込まれたこのトラップを誰一人死者を出さずに抜けられた事――彼だけの力ではなく、仲間全員の力があったからこそ――に心の底から感じる安堵と達成感があった。(やったぞ) 彼は胸の前で片手で小さく印を切ると、かつての仲間達にほんの数秒だけ祈った。