Taylor of memory for Summer
この世に神様がいるのなら、きっと酷い奴だろう。表情か、趣味か、とにかく酷いのは分かる。
あまりに暑い夏、入道雲が終わりを齎す巨人のように膨らみ、見下ろしてくる。ちっぽけな僕を、いっそ踏み潰してくれれば良いのにとさえ思った。
アスファルトで行列を成す蟻みたいに、僕の顔を汗が伝う。不快感が込み上げるが、それごと包み込むような湿気に、憤る体力さえ奪われた。
「随分と死にそうな顔をしている。大丈夫かい?」
そう言って顔を覗き込んでいる君は、涼しい顔だったのを覚えている。「普通に暑いし、汗を書かないのと表情筋が乏しいのは体質だよ」と彼女は返していたが、僕には君が、人を超えた何かだと思えて仕方が無かった。
だから、幼心に下した結論では、こう思っていた。君は神様の子なのだろう、と。
1
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君を一言で表すならば、「不思議」や「神秘的」と言った言葉が正しいだろう。ついぞ君の両親を見ることが無かった事も、関係しているのかもしれない。
そう、まるで神様が地上に忘れた、素敵な贈り物のようだった。手放したくなかった。だからいつも、君の好物だった甘いチョコレイトを持って歩いた。
「何も問題は無いから。でも、それは貰う。ありがとう。」
短く不器用な言葉。きっと君の中ではその数十倍の言葉が蠢いているだろうに、それを見せてくれる事は無い。寂しかったんだぞ、と今なら言える。
全てが、手遅れの今なら。
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確か、その日も君は、僕を引き連れて街へ繰り出した。まだ日も高いと言うのに、トパーズとサファイアを嵌め込んだような異色の虹彩に、僕の顔を大写しにして上気した声音で囁いた。
「向こうの河川敷だ、花火大会があるらしい。実に風情があるじゃあないか。君と見ることが出来たら、どんなに良いだろうね。」
まさか隣町まで走るつもりだとは恐れ入った。汗をかかない人は体温調節が苦手だと聞くが。驚く程に冷たい君の手は、やはり人ではないと感じた。
だが、それは恐怖では無かった。不思議と心地が良かった。君の存在が僕にとって、どれほど救いだったのか。今となってはもう、思い出すことも出来ない。
2
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何故、急に君の事を思い出したのか。それは少し前、窓を開けた時だ。一羽の蝶が侵入し、堂々と机に居座った。それだけなのだが、どうにも君の事が頭を過ぎって離れなかったのだ。
君に会いたい時、決まって動くのは君では無かった。こんな気味の悪い奴は、嫌われているとさえ思った。だが、会いたくないのに居て欲しい時。そんな時は決まって君が駆けつけてくれたものだ。
今みたいに。ちょうど、あの日みたいに。
あぁ、雨音が煩い。君もただの雨宿りかい?それなら、それでも構わないが。もう少し、その綺麗な姿を見せてくれるのも良いものだ。
こんな時、君ならもっと詩的に著して見たかもしれない、そう思った。
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隣町に辿り着いた頃には、人生を終えた者を焼く業火のように、辺り一体が赤く染まり僕達を飲み込もうとしていた。
そんな情景を思い起こさせるのは、僕の臆病で卑屈などうしようもない性格のせいか?それとも、僅かに震えている君の手から伝わる、恐怖なのだろうか。
「さぁ、場所取りと行こう!最高の思い出にしたいじゃ無いか!」
にこやかな顔を向ける君は、とても常世の物とは思えない美しさだった。やはり、君は神様の子だ。僕の存在意義は、きっと君を護る事なのだろう。
人の世に、間違って落ちてしまった尊い君。悪意に、憎悪に、汚いものに塗れるのは苦痛だろう。僕には出来ることは無いけれど、せめて君の望みくらい、叶えたい。
あぁ、だけど...彼女の望みとは何なのだろう。
3
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開けた窓から床を濡らす、この水。分厚い雨雲の向こうに、何かあるのなら、きっとそれを隠す為だろう。だって、見上げれば目を襲うこの雨は、何も見せてはくれない。
君みたいだ、と思う。本心を決して表に出さず、最低限の対話をしていた君。まるで腫れ物に触れるように話すのに、決して嫌がっている訳ではなさそうだった君。
見上げるのを拒絶する雨粒が、目を濡らそうと痛みを与えない。まさに君は雨雲だった。
「あぁ、そういえば。お腹は空いているかい?砂糖水でも作ってあげようか。」
目の前から逃げずにいるだけの虫に話しかけるとは、疲れているのだろうか?または頭がイカれたのか。
いや、あの夏の日に、とっくにイカれていたのだろうか。
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夏の夕日の中を、一人の子供が走り抜ける。
漆のような髪を後ろで束ね、淡い黄色と深い青の瞳を持つ美しい少女。彼女は仕切りに後ろを振り返っては、ニコニコと喋り続けている。
その少し浮世離れした容姿と行動から、大人の奇異の目が集まるが、それを気にする事もなく。彼女は河原を駆けていく。
「らっしゃーい!」
「どうぞ、坊主。楽しんで!」
「ママー、あれ買ってよー!」
「お待たせ。イチゴ味で良かったっけ?」
「なんだよお前、全然当たってねぇじゃん!」
「ほら、浴衣。可愛い?」
「迷子の迷子のタクくーん、出ておいで〜、ニャーゴー。」
「いやアイツ人だし。」
祭りの喧騒が耳を包み、周囲の浮かれた様子は妖怪達の宴のよう。日常から解き放たれた非現実に、少女の顔も綻んでいた。
あっという間に高い位置へ辿り着く。楽しい時間は早く過ぎ、既に空は星が瞬いていた。気づかなかったね、と笑いかける先は、虚空だ。
空気を押し退ける振動音がし、閃光。遅れて大きな空気の波が彼女を襲う。先程まで星が占拠していたアート会場は、今や極彩色に彩られる黒いキャンパスと化していた。
彼女が何か、囁いている。しかし、連続する轟音の中で、それは声にならない。それを気に止める事も無く、少女は楽しそうに話し続ける。
男が一人、走ってくる。少女を見つけ、何か叫んだと思えば喜色満面に駆け寄った。その顔に満ちるのは安堵とも捉えられるものだった。
上を見上げている少女は気が付かない。ふと、少女に握られた日記帳が開き、落ちた。夜空から隣へと視線を移した少女の視界に、男が映る。瞬間、身体が強ばる。
皆上を見上げている。地上を見るのは空に咲く満開の花だけだ。男が少女を掴む。
抵抗する少女、宥めるように抑える男、花火の爆音、照らされる異色虹彩、男の黒髪が引き抜かれ、少女が逃げる。
追う、すぐに捕まる、再び閃光、夜闇の中で人影が三つ浮かぶ、もつれ合う、そしてそのまま落ち...水音、静寂。それを押し流す特大の閃光と爆音。
立ち尽くす少女の下で、人混みが移動する。口々に飛び交う感想は、綺麗だの大きいだのと同じ意味ばかりに聞こえた。
少女が引く手は、どこにも無い。両手を開けた子供が一人、ユラユラと道を歩いた。
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僕は落ちた。しかし、目が覚めればそこは、暗く重たい悪夢では無く、明るく乾いた場所。
そう、そうして、ここにいる。よく分からない、この場所へ。段々と記憶も薄れている。だから、記す。彼女の事を。僕の事を。僕には、それしか出来ないから。
なんの為に思い起こしていたのか、それも覚えていない。だから、とにかく書こう。筆を取ろう。僕にはそれしか残っていないから。
4
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目の前の蝶が、ペットボトルの蓋に入れた水を美味しそうに啜る。甘いものが好きな所等、本当にそっくりだ。そういえば、魂は蝶の形をしているらしい。
もしかしたら、君が居てくれたら、と私が望んだ故にこうして...等と考えるくらいには疲れていたらしい。ついウトウトとしてしまった。
気がつけば、雨雲は晴れていたし、蝶は消えていた。元気でね、と呟いた声は、果たして誰に届いたろうか。
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君は神様の子
美しい髪をし、白磁の肌で象られ、僕を見る宝石を嵌め込まれた、悲しそうで、寂しそうで、強くて明るい子
お母さんそっくりの目だった。真っ直ぐに僕を見つける事の出来る、不思議な輝きだった
でも、いつも怯えていた。父親を恐れていた。僕には分からないが、僕のいない所で君の宝石は溶けて、水滴を落としていた
だから、あの日もすぐに分かった。君が逃げるつもりだったのが。いつものように、僕の手を引いて。そのまま、茹だるような暑さの元で、冷たくなって沈むのだと
君の決めた事を、僕は疑わない。否定しない。でも、少しだけ思ったんだ。怖い物が無くなってしまえば、どんなに楽になれるだろう、と
あぁ、だから僕は、なけなしの力を振り糸亠
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ねぇ、お姉さん。見てみて〜、拾った〜!
バッチく無いよ〜、だってこの手帳、川で拾ったのに濡れてないもん。不思議でしょー
うわ、床ビシャビシャ。窓開けてたの?なんで?
そーだ、これだよ!なんか変な事書いてあるしね、ここに持ってくるまでに一文字増えてんの!怖いでしょ〜!
えー!嫌だよ、これはボクのだよ!お姉さんのチョコレイト、苦いのばっかりなんだもん!
え、甘いのだ。なんで?まぁいいや。はいどーぞ。呪われても知らないもんね〜
あ、お母さんが呼んでる。今行くってぇ〜!じゃ、またね。お隣のお姉さん!
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君は...随分とレディを待たせるじゃないか...!
まぁいいさ、来て欲しいとも会いたいとも思ってなんていないさ、いつも迎えに行くのは私だったんだから。今回もそう思ってたならそうしたとも。
取っておきの一つは、今しがた無くなってしまったからね、たまには君が私の好みに合わせると良いよ。
君の正体なんて、関係ない。今度はちゃんと最後まで、花火を見ようじゃないか。
ねぇ?私の神様?