034 日常への回帰
arca 『船出』
*-*
クレアにとって黒い世界の一連の出来事は、想定の範囲外ではあったものの想像の範疇の問題だった。
完全に調和した事象などこの世に存在するはずがないし、概念世界はまさにその傍証と考えていたからだ。
いずれは基本世界から溢れ続ける情報群の浄化が不可能と判断せざるをえない状況すら起こるだろうと予測しているクレアである。世界の一つや二つが道理から外れたところで、対応は別として大した問題ではない。
・・・むしろ "本質" に迫る絶好の機会とすら認識していた。
しかしだからと言って、黒い世界を通じてクレアが何も経験しなかったわけでは無い。
それどころか、クレアは彼女が彼女であるために重要な要素の一つを思い出した。
「ねぇクレア。最近その楽器を弾き始めたのはどうして?」
ガイナの部屋でソファに座っているクレアに、親友であり伴侶でもあるボウェルが尋ねる。
「あぁ、嫌だった?」
「嫌じゃないわ。むしろ落ち着くもの。」
基本世界から持ち出したアコースティックギターを数十年ぶりに奏でるクレアの表情は穏やかだ。
「思い出したんだ。私、音楽が好きだったな、って。」
「前もそんなこと聞いた気がするわ。本当だったのね。」
慈母の笑みをペイネは浮かべ、クレアは数秒彼女の表情に見惚れて呼吸を忘れた。
「・・・あぁ、えっと。」
「何?」
んん、と咳払いをして、クレアは答える。
「私は前世で歌の力を信じてた。響き合う声の揺らぎを、高まりを、それから包容力を。
そのことを、思い出した。」
「だから楽器?」
「うん。手慰みみたいなものだけど、案外落ち着けるよ。」
クレアはそう言うと、かつて演奏し、そして時代を経た基本世界のスタジオで若者が演奏していた曲を弾き語った。
何回かクレアの歌を聞いていたペイネがハミングを合わせると、ペイネの柔らかな声も相まって、クレアは音の波が自分の体ごと意識をどこか知らない夢の世界へと運んでくれるような錯覚を覚えた。
心地よい響きの中、二人は互いの魂を探るように声を合わせて微睡の時間を堪能するのだった。
*A*
否応なく季節は巡る。
私を連れて、私を置き去りにして。
"緩やかに溶ける" を作り始めてからあっという間に一年が経ち、容赦ない日差しが照りつける季節になった。
何が切っ掛けになったのかは分からないけれど、メメは梅雨頃から急に作曲の "勘" らしきものが冴え始めた。そんなメメに触発された私たちの奮闘もあって、春以後、一気に 2 曲も新曲が出来上がっている。
柚子先輩は実習にも慣れたようで、最近はバンド練習が組みやすくなっている。
先輩は苦労していなさそうだったけれど、夏明けの重要なテストにちゃんと備えるように、と何度か言われた。テストに合格すれば私たちも実習に出る資格が貰える。
普通にしていれば落ちないはずだけど、どうも軽音部は所属していること自体がリスク因子らしい。
「ねぇ茜。」
「何? メメ。」
バンド練習の帰り、街路樹の影が織りなすアスファルトのコントラストに目を細めつつ、メメと歩く。
「茜はまだ、あの歌を思い出せる?」
あの歌・・・聞き返すまでもなく "あの歌" のことだ。私たちの魂に刻まれたらしい、異世界の友の歌。
「思い出せるよ。でも、メロディだけ。」
「そっか。」
春のライブで感じた、歌い手の心と通じ合える様な感覚はもう実感として思い出せない。記憶から抜け落ちてしまった。
代わりに譜面に起こせる単なる現象としてのメロディが、思い出を埋め合わせるようにはっきりと私の中に残っている。
「私、思うんだけどさ。」
「うん?」
遮るものの無い炎天下、赤信号で立ち止まるメメが言う。
「本当は全部、ただ辻褄が合うだけの共同幻想だったんじゃないかな? って。」
「共同幻想?」
「ちょっと違うかもしれないけど、たまたま似たような感覚を持ち寄って、たまたまそれらしい解釈があれば、お互いの持っている認識を同一と錯覚することもあるのかな、と。」
メメはたまに捉え所の無い事を言うけれど、今回は何となく分かる気がした。
ただ、私はメメが言う様には思わない。
「私は本当にあった事だと思ってる。」
「ふぅん?」
メメの感覚やクレアさんの言葉を疑うとか、そういう意味ではない。
直感以上の実感として、私はあの歌と自分が共鳴した感覚を現実と信じているから。
「・・・そっか。やっぱりそうなのかな。」
どっちでもいんだけど、とでも言いそうな素っ気なさでメメは答えた。
信号が青に変わる。
「行こうか。」
歩き出したメメの背中を数秒見つめてから、私も横断歩道に踏み出した。
私はクレアさんの語った夢物語を、記憶こそないものの現実に起きた事として認識している。
けれど、異世界転生という誰もが羨むような非日常を経験したはずなのに、私は相変わらず今まさにこの瞬間の連続を生きる私が退屈に思えて仕方ない。
日々は惰性と諦めが幅を効かせる遣る瀬無い慣性の中にあって、主体たる私はどうにも脱却の一歩を踏み出せない。踏み出しても、二の足が出ない。
相変わらず "相変わらず" な自分を強烈に自覚してしまうと、どこにも歩き出せない気持ちになる。
・・・もちろん、慣性に突き動かされるだけの私は誰にも悟られる事なく、誰かにとってのエキストラとして "私らしい" 日々を演じ続けるのだけれど。
そんな日常でふと、私は "緩やかに溶ける" のフレーズを何故か思い出す。
メメの言葉のはずのそれがメロディを伴って脳内で再生されて、気持ちと馴染む。
曖昧な言葉 ひらひらと踊る様は綺麗
僕に理由をください 僕に意味をください
踊る様は綺麗 ただそれだけ
何故か気持ちが落ち着くのは、歌が普遍的に持つ性質の一端のためなのかもしれない。
仮初めの共感とか、寄り添いとか。
私はメメの事を私が思っているほどには知らない。メメだけじゃない。綾花のことも、柚子先輩のことも。
私はこれから先、誰かのことを深く知れるんだろうか? 私自身のことを深く知れるんだろうか?
きっと私はこの先も宙ぶらりんな心で生きるんだろう。悲しいけれどそんな気がする。
ただ、一縷の望みが無いわけじゃない。
ラララ───
この歌を届けよう この声を届けよう
私が "誰か" だった時の心に刻まれた歌。遠い世界の歌。
私とメメと先輩と、それから顔も知らない世界すら超えた誰かを繋いだ歌を、魂が震えたことを、私は覚えているから。
魂の在処を、私は覚えているのだから。
fin.




