026 記憶
ハイスイノナサ 『ある夜の呼吸』
*A*
ライブ当日。ひとつ前のバンドの演奏が終わるのを舞台裏で待っている間、私は本番直前の独特の興奮状態の中、もう一年以上前になる冬のことを思い出していた。
あの冬の日。私は、私たちは確かに一度───
一泊のスキー旅行の帰り道、夕暮れ、慣れない雪だらけの視界の山道。私が運転するレンタカーで谷間を移動中、何の変哲もないカーブで、一台の車が対向車線から目の前に飛び込んできた。
「茜っ!!」
「あ!? ぇ?!!」
迫る白い乗用車を逃れるように咄嗟にハンドルを切って、乗用車との衝突を辛うじて免れた直後・・・後続のトラックが私たちの乗る車の横合いに突っ込み、車は呆気なく白いガードレールを突き破って落下を始めた。
『あ、死んだ。』
浮遊感の中、そう呟いたかもしれない。思っただけかもしれない。
対向車線を越えた乗用車の運転席でハンドルに突っ伏していた白髪。
何の特徴もない山の斜面が、フロントガラス越しに視界を横切っていった。
走馬灯が始まらないことを少し残念に思いつつ、何故か瞬間的に死を受け入れた自分がいたことをはっきりと覚えている。
・・・けれど私の意識は途切れなかった。
気付けば私は "白い" としか認識できない空間にいた。幼い日に想像した雲の上の世界はこんな感じだったかもしれない、そんな空間に。
メメと柚子先輩の気配は感じられない。
オカルトは微塵も信じていなかったけれど、もしかするとここは魂の裁判場かな? なんて思いつつ、空間に変化が訪れるのを待つ。
数分か、数十分か、どれくらいの時間が経ったか分からないけれど、ふと気付けばその少女はそこにいた。
「あーあー、はじめまして。」
少女は白い空間でただ一人明確な形を成していて、それゆえ目を離せない存在だった。
肩まで綺麗に流れる黒髪、ぱっちりと開かれた両目。
あどけなさと力強さが絶妙に混じる佇まいは、この美少女がいずれ誰にも好かれる美女になることを確約している様に思えた。
「・・・あら、聞こえていないかしら?」
「・・・聞こえてるけど。」
少女の声は優しく響く。
「私はガイナ。突然のことで申し訳ないのだけれど、あなたたちはこれから、とある世界に転生することになります。」
ガイナと名乗った少女の言葉の意味を、私は数秒の間理解できなかった。
「そのための説明をしますね。」
数秒の思考停止の後、理解してしまったらしまったで、今度は状況そのものが受け入れられなかった。
「ちょ、ちょっと待って。・・・ください。」
「何かしら、秋野茜さん。」
「全然意味が分かりません。」
少女は小首を傾げてから、何でもないことのように続ける。
「もしかして、転生モノの物語は馴染みがない?」
馴染みがないどころか、両親の時代に隆盛して以後いまだに手を変え品を変え一つのジャンルとして存続している。いっそ国語の題材にすら取り上げられることもたまにあるくらいだ。
「・・・いえ、そういうわけでは、ないですけれど・・・。」
少女は私の返答から数秒遅れて一つ頷き、"説明" を再開した。
・・・一通りの説明で、事情は何となく分かった。
全く持って受け入れ難いと云う点を除けば。
「要するに転生した世界だけじゃなくて、その世界にとって悪影響な別の世界も救済すれば、私は元の世界に戻れるんですね。」
「えぇ。」
「けれど私は今の記憶を持ち越せないし、転生先の記憶も元の世界には持ち出せない、と。」
「残念ながら。・・・"黒い世界" に堪えるには、不純物の少ない魂が必要なんです。」
魂だとか世界の力だとか、いきなり話されてもよく分からないことはともかく。
この明らかに常軌を逸脱した空間と体験が私の夢や幻でなく現実ならば、私はどうやら少女の言う通り "異世界転生" を体験することになるらしい。
そして少女は明言しないけれど、私は転生体に宿る魂のうちの一つとして、転生体を少女の望む方向に導く役割を担うようだ。
「もう時間がありません。手短に答えられることなら、伺いましょう。」
少女の姿が足元から光の粒になって消えつつある。
聞きたいことはあまりにも多い。
・・・けれど私は、無意識のうちに選んだ一つだけを質問した。
「終わりの後で、私の日々は変わるんですか?」
少女は答えてくれなかった。
少女の曖昧な微笑みを最後に、白い空間での記憶は途切れた。
───
「───! ───ぇ!」
体が揺さぶられ、誰かが私に向けて叫んでいる。
「──ね! 茜ぇ!」
薄っすらと開いた瞼の隙間から光が差し込み、思わず眉間に皺を寄せ目を瞑る。
「・・・何、メメ。」
「茜! 気付いた?! 先輩、茜も大丈夫そうです!」
再び目を開けるとすぐ目の前はエアーバッグらしき何かで埋まり、視界の端では粉々になったフロントガラスが見える。
さらにその前方には土や草木、岩。カーブでハンドルを切り過ぎて崖に衝突した? らしい。
「あ・・・。」
「茜ぇ・・・! うぅ・・・!」
助手席に座っていたメメは私の返事をきっかけに泣き始めてしまった。
後部座席の柚子先輩は、何度も溜息とも深呼吸ともつかない吐息を漏らしている。
「ねぇ、私たち・・・。」
・・・死んだよね。崖から落ちて。
聞こうとして、言葉にならなかった。
そう考えた理由は分からないけれど、私だけでなくメメも先輩も "崖から落ちて一度死んだ" ことが "なかったことになっている" と把握している、と直感したから。
二人も少女と出会ったんだろうか?
二人はどこかの世界へ、少女の力で転生させられたんだろうか?
少女との会話がついさっきのようにも、セピア色に褪せた遠い昔のようにも感じられる。
少女の存在を証明するものは何もない。
少女の告げた転生の記憶も、少女の説明通り残っていない。
けれど私には、白い空間での出来事が幻には思えなかった。
記憶には無い異世界転生の人生を歩んだ自分が、確かに居たんだろうと確信できた。
───
「茜、緊張してる?」
前のバンドの演奏がそろそろ終わる。
「いつも通り。」
「そう。」
ねぇ、二人はあの時のこと、どれくらい覚えてる?
もしかすると『緩やかに溶ける』の不思議体験と関係しているかもしれない "異世界転生" を、二人は覚えていたりするの?
*a*
魔剣ワルドを携えたアーカードは、私が知っている彼とは違って軽薄な笑みを顔に貼り付けていた。
「どうした、アナザン。久しぶりの対面で俺の顔を忘れでもしたか?」
「・・・そんなはずないわ。けれど、あなたこそ "あなた" のことを覚えているのかしら?」
アーカードは鼻先で笑う。
「ふっ、何を馬鹿なことを。俺が俺であることは、他の誰でもない俺自身がよく知っている。」
「そうかしら? 私は黒い力に侵されたあなたの姿なんて、想像もつかなかったけれど。」
魔剣と一体になったアーカードからは黒い力が溢れ、痛い程の圧が波のように迫る。
・・・? いや、まさかそんなはずない。
「どうしたアナザン。何かおかしな事でもあったか?」
嫌悪感を伴う口調でアーカードが言う。
「何か、不都合なことでもあったか?」
彼の胡乱な言葉には空間を震わせる振動以上の力があって、"物理的に" 気圧されていることを実感する。
「まさか!? でも、どうやって・・・。」
「ハハッ、気付いたか! 流石と言っておこう!」
私と彼のやりとりを聞いても、魔王ワルドは事態の深刻さに気付いていない。
「・・・アナザン、ヤツが何だと言うのだ?」
「私にも理由は分からない。けれどアーカードは・・・。」
「愚かなお前に教えてやろう、魔王ワルド。」
魔剣を構え、アーカードが鋭く虚空を突いた。
ビュゴゥ! と魔力を混じる風が私たちの横を駆け抜け、城壁が衝撃に耐えきれず貫通した。
「真に力を制することが、どう云う意味を持つのかを・・・!」
剣のひと突きでワルドも察した。
つまり。
「なぜヤツは、精神世界で "力" を操っているのだ・・・!?」
アーカードは絶対の有利が覆ることなど無いと確信しているのか、不自然な程上機嫌に語る。
「いいか、大魔王ワルド。力の使い方とはコレで、コレこそが力の在り方なのだ。」
「いやしかし───」
「一体何を訝っている? お前たちも発想には至っていただろう。」
アーカードが私を・・・正確には私が纏うドラグラシルを見据える。
・・・?
『あぁそうか。』
『確かに。』
『先を越されたのね。』
"私" はすぐに気付いた。・・・遅れて私も気付いた。
「お前たちは EMT 攻略のため、ドラグラシルの力を存在と同質化して異界に捩じ込もうとしたな? まさにそれだ・・・ゆえに俺は、黒い力そのものなのだ。」
アーカードの言葉が意味するのは、私たちにとって逃れようのない窮地だ。
今、彼と私たちとの力の隔たりは、文字通り次元が違う。
「・・・では、始めようか? すぐ終わるだろうが。」
アーカードが魔剣を構え、そして唱えた。
「"絶界"───」
 




