第二章 第八話 虚無の能力と過去
「え……」
目の前の光景を見て、ネクラは呆気に取られていた。
大鎌は確かに光の母親に向かって振り下ろされた。しかし、それが彼女を切り刻む事はなく、血しぶきすらも飛ぶ様子もない。
大鎌は光の母親を擦り抜けていたのだ。悪霊に対しあれだけの切れ味を見せていた鎌は、今は煙の様に軽い物体に見えた。
虚無は光の母親を冷たく見下ろし、そして大鎌を手元から消し去ったかと思うと、踵を返してネクラが唖然と立ちすくんでいる方へと戻って来た。
そして、短く一言だけ言ってネクラの傍を通り過ぎる。
「いくぞ」
「え、あ、はいっ」
ネクラは一瞬だけ反応が遅れたが返事をして、そしてまた光の母親の方を見る。彼女は叫んで体力を使ったのか、憔悴しきった表情でその場に座り込んでいた。
何人かの人間が彼女を気遣う様に周りに集まっていた。遠くからはパトカーと救急車のサイレンが聞きこえる。
この騒ぎを見ていた誰かが呼んだのだろう。ネクラは少しだけ光の母親の事が気にかかったが、すぐに振り返り足早に虚無の後を追いかけた。
その後、2人はあの公園にいた。光と過ごした公園だ。せめて自分たちだけでも光を供養したい。ネクラのその言葉に虚無は少し間を置いた後、頷いた。
ここは光が亡くなった場所ではないし、2人とも所持金がないため供えるものもないけれど、光が存在した場所で彼を思って手を合わせる事はできる。ネクラはそう思い、虚無も同意した。
「光くん。ごめんね。君を救う事ができなかったよ」
「……」
涙を滲ませるネクラに対し、虚無はただ無言だった。
そしてそれぞれが心の中で光に思いを馳せ、それに区切りをつけた頃、ネクラは虚無に話しかけた。
「それにしてもさっきはビックリしました。その、光くんのお母さんに鎌を振るうなんて」
あの時の虚無の殺気は本物だったと。
あの時、彼は本気で光の母親を斬りにかかっていた。あの殺気は戦闘経験のないネクラにも伝わるほどに強かった。
「死神は生きている人間には手が出せない。そもそも人間の人生に干渉する事ができないんだ。極端な話、命を絶とうとしている人間を死神が止めないのもそれが理由だ。死神が関わる事ができるのは死後の魂のみだ。それが死後の世界の理だ」
「では、どうしてさっきはあんな行動を取ったんですか」
「腹が立ったから。命を奪う事はできないとわかっていても、ああでもしないと感情が抑えられなかった」
虚無が己の掌を見つめ、そしてぎゅっと握る。無表情のままだったが、怒りとやるせなさが伝わってくる。
ネクラはその様子に切なくなって、そして視線を外して言った。
「そうですか」
「だが、あの母親はどちらにせよもう長くはない。あと1ヶ月であいつはその命を失う事になるだろう。事故でな」
「え」
予想外の虚無の言葉に、ネクラは驚いて彼を見つめる。
そして戸惑いながらその言葉の真意を尋ねる。
「ど、どうしてそんな事がわかるんですか」
ネクラに見つめられ虚無は目を閉じ、そしてゆっくりと目を開いてから言った。
「俺は、人の寿命が視えるんだ……生前からな」
「生きていたころから。ですか」
「ああ」
虚無は空を見上げる。日はすっかり傾き始めていた。
『寿命が視える』その言葉がどうしても気になったネクラは虚無の様子を窺いつつ聞いた。
「あの、虚無さんが嫌じゃなければ、その話、詳しく聞かせてもらってもいいですか」
それを聞いた虚無は横目でネクラを見やり、そして小さく頷いた。
話を聞かせてくれると言う事か。そう思ったネクラは虚無に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「別に。たいした話でもない。1人の人間の哀れな物語なだけだ。聞き流せ」
そう前置きをして虚無は語り出した。
「俺は物心がついた時から、人の頭の上に数字が見えていた。その数字は毎日マイナスにカウントされていくんだ。最初は幼かった事もあり、当時の俺にはその数字の意味が分からなかった。もちろん数字が減っていく意味も」
「人の頭の上に数字が?」
「ああ。当時は周りの人間には数字が見えていない事を知って驚いた。親に話して、その事は黙っておけと言われた時に自分が見える世界が異常なんだと実感した。」
霊感と言うものの一種だろうか。自分はそう言う類のものは持ち合わせていなかったが、一般的な人と違う能力を持つと言う事はどう言う心境だったのだろう。
周囲の人間にそれが明らかになった時、虚無はどんな風に思われ、どう思って生きていたのだろう。
そう思いながらネクラは虚無の話に耳を傾けた。
「成長するにつれ、俺はその数字の意味を知る事になる。カウントがゼロになった人間が必ず亡くなると言う事に気が付いた」
「必ず、ですか」
「ああ。友人も、すれ違っただけの人間も、テレビの中の人間もみんなカウントがゼロになると必ず亡くなる。そして俺は気が付いた。俺が見ているのは寿命で、命のカウントダウンであると言う事に」
「……っ」
ネクラは思わず息を飲む。自分の過去を聞き驚き、固まるネクラを見つめながら、虚無は続ける。
「そして俺にわかる事は命の日数のみだと知った。その相手の死因まではわからない。だから俺の近しい人間の命のカウントダウンが近付こうとも、未然に防ぐ事はできなかった。当時の俺はそれがショックだった。自分は無力だと感じて、もどかしさを覚えていた」
「そ、そんな。それは虚無さんのせいじゃないですよね」
当時の感情を思い出したのか、悔しそうに拳を握る虚無にネクラは精一杯のフォローをする。
「ああ。誰のせいでもない。それは俺にもわかっている。だが、命数が分かっているのに救えないと言うのは当時の俺は本当に苦痛だったんだ。ストレスと言ってもいい」
「虚無さん……」
ネクラはなんと声をかけていいかわからず、ただ彼の名前を呼ぶ事しかできなかった。
重い沈黙が流れもうこの話は切り上げた方が良いのかもしれないとネクラが思ったその時、虚無が突然話題を切り替えた。
「俺には弟がいると言ったな」
「は、はい」
彼は年の離れた病気で亡くなった弟がいたその話を思い出し、ネクラはぎこちなく頷く。
「当然、弟の頭にも数字は視えていたし、生まれたばかりの弟と出会ったその数字の少なさに驚いて頭が真っ白になったのも覚えている」
無表情の虚無の表情が僅かに切なさを映し、ネクラがこの先を話すのはつらいのではないかと心配そうに言う。
「あの、自分から聞いておいて失礼だとは思うのですが、辛い様なら別に全て話さなくても構いません。無理しないでください」
ネクラの言葉に虚無は構わないと言った様子で話を続けた。
「幼い弟が俺を慕って歩み寄って来る度に、一緒に遊ぶ度に、共に時を過ごす度に。ただでさえ少ない命のカウントは無慈悲に減って行き、そして運命の時が来た」
「運命の時……」
ネクラが呟き、虚無が淡々と物語を紡いでゆく。
「俺は弟を守るために身の回りには最大級に気を遣っていた。事故に遭わない様に、不審人物に狙われない様に、ありとあらゆる危険から弟を遠ざけたつもりだ。だが……」
「弟さんは、ご病気で亡くなってしまった……」
虚無が口にしたくないであろう言葉をネクラが代弁すると彼は頷く。
「ああ。まさか病に侵されているなんて考えもしなかった。幼い弟を失った両親はひどく悲しみ、毎日、毎日泣いていた。俺も弟を救えなかったことが悔しかったし、悲しかった。そして、何の役にも立たない自分の力を疎ましく思った」
出会ってから感情に抑揚のなかった虚無が、こんなにも言葉を紡ぎながら悲しさと悔しさを露わにしている。
虚無にとって、自分の能力を心の底から疎ましく思い、そして大切な弟を失った事にそれほどショックを受けていたのだろう。
ネクラは死神が虚無を紹介した時の事を思い出す。
死神はあの時、虚無には元々特殊能力があり、死神の素質があったと発言した。その言葉を聞いた時、それまで一切に反応を見せなかった虚無が初めて眉間と肩を反応させていた。
虚無は死神のあの発言を聞き、自分が疎ましく思っている能力を称賛され、それを不服に思って反応してしまったのだ。
「それで、弟の遺影の前で母親に泣きながら言われたんだ」
ただでさえ悲しい出来事を経験した虚無に、これ以上何があったのか。ネクラは再び彼に耳を傾ける。
そして、紡がれた言葉にショックを受けた。
「弟の寿命が視えたいたならどうして助けなかったんだ。この役立たずってな」
そのつらい言葉を虚無は抑揚なく紡いだ。まるで他人事の様に。
「そんなの。ひどいです」
ネクラの脳裏に先ほどの発狂した光の母親の光景が蘇る。彼女もまだ幼い息子である光の事を役立たずと呼んでいた。
「俺の母親は元々そんな事を言う様な人間ではなかったし、弟が突然亡くなって錯乱していた事もあった。父親になだめられて少し落ちついた様子だったしな」
「そう、ですか」
虚無の言葉から生前の家庭環境はそれほど悪くなかった事を知り、ネクラは少しだけ安堵した。
特殊な能力を持っていた上に家族関係も良好でなかったのであればそれは悲しい事だと思ったからだ。
だが、その安堵の気持ちも虚無本人によって打ち砕かれる。
「あの時の母親の気持ちは本心じゃない。当時もそれは分かっていた。だが、弟を失った悲しみと、自分の能力に嫌気が差していた俺はその言葉を聞いた直後、家を飛び出した。そして、近所に都合よく池があったから、そこに忍び込んで入水した」
「あ……」
そうか、とネクラは思った。虚無があまりにも自分に近しい姿をしているから忘れていた。
虚無も自分と同じ。もう現世にはいない存在なのだ。忘れかけていた事実がネクラを襲い、大きなショックを与える。
「最初は、いや、長い時間苦しかったが、なんとか死ねたみたいだな。それが俺が17歳の時だった」
「虚無さんはどうして転生を望まず、死神見習いになる道を選んだのですか」
ネクラは一番気にかかっていた事を聞く。なぜ虚無は転生を望まなかったのか。彼は特段、現世を嫌ってる風でもないため、それが不思議でならなかった。
「別に転生したいわけでもなかったし、死神サンに他人の寿命が視えるなんて死神の素質があるからよかったらならないか。と提案された」
「それで虚無さんは了承したんですね。でも、転生する資格を捨てるなんて……」
信じられないという表情で虚無を見つめた。それを感じ取った虚無はネクラよりも先に口を開く。
「立場が変われば自分の能力が役立つかもしれない。そう思っただけだ。実際、見習いになってからは役に立ってはいる。それなりにな」
「それなりにですか」
「ああ。見習いになってからは自分の意思で相手の寿命を視る事ができる様になったし、その死因もわかる様になった。そう言った面では仕事は楽だな」
何てことはないと言う風に語る虚無をネクラは何も言わずに見つめていた。
黙り込んだネクラに虚無は唐突に話題を振る。
「俺はよく目を閉じているだろう」
「え、はい。そう言えばそんな記憶が……」
確かに虚無は頻繁に瞳を閉じている。特に気には留めていなかったが、今思えば回数は普通よりかは多いかもしれない。
「生前は人の頭に浮かぶ数字を見る事が苦痛でよく瞳を閉じていた。その時の癖が無意識に残っているのだろう」
「そうなんですね。納得です」
虚無が意図的に話題を逸らした事を察したネクラは気持ちを沈めてばかりではいけないと思い、虚無に向かってはにかんだ。
気のせいかもしれないが、虚無も少しだけ笑った気がした。
「では、帰るぞ」
先ほどまでの饒舌さが嘘の様に虚無は不愛想な雰囲気を出しながら端的に言った。
虚無が片手を上げると何もなかったはずの公園の空間に、紫色の裂け目が現れる。ワープホールだ。
虚無が手をネクラに差し出す。その手を取ろうとした時、彼が言った。
「今度は、照れないんだな」
その言葉を聞いたネクラはキョトンとして、そして数秒考えてから自分が先だって手を繋ぐだけで照れてパニックを起こした事を思い出し、そして虚無の言葉の真意を察して、ムスッとしながらその手を取った。
「虚無さん、実は意地悪ですね?」
「上司に似たんだよ」
虚無がぶっきらぼうに手を引き、2人の姿は裂け目の中に消えて行った。