第二章 第七話 さようなら。無垢で小さな魂よ
虚無が悪霊に言葉を向けたと同時に悪霊の鞭が数本、彼襲い掛かる。
虚無はそれをステップを踏むかの様に全て避けきり、最後の一本を避けたところでそのまま勢いをつけ、悪霊の懐に入り込んだ。
「ふっ」
虚無が至近距離から悪霊に大鎌を振るう。
そして虚無はすぐさま素早いバックステップで悪霊と距離を取り、次の攻撃に備えるべく再び鎌を持ち、いつでも攻撃ができる姿勢をとる。
「ウあああああ、イタイ、いタい、イタイ、いタい、イタイ、いタい、」
鋭い鎌が悪霊を切り裂き、深い傷を作る。その傷口から血の代わりに黒い霧が漏れだす。
痛覚があるらしく、悪霊は切り裂かれた痛みに耐えられないのか、その場で暴れ出す。
「ちっ。浅いか」
一発で仕留めるつもりだったのか、虚無が悔しそうに舌打ちをする。
だが、遠くでその様子を見守っていたネクラは、悪霊の傷口から黒い霧が溢れる度にその弱まっていく気配を感じた。悪霊事態の大きさもだんだんと小さくなっている。
虚無は悔しそうにしているが、彼の一撃はしっかり効果があったのだ。
「あ、あああああ」
悪霊は徐々にしぼんで行き、やがてそれは子供の形をした小さな黒い姿に変わった。
全身が黒に包まれたそれはまるで影の様だった。ギラギラとした赤い瞳は残していたが、殺意を宿していた色はすっかり消え失せていた。
吊り上がった瞳から下に流れる裂け目がまるで涙の痕の様に見えた。
すっかり暴れる力を失ったのか、悪霊はその場に体を丸めて蹲った。その姿はまるで何かの暴力から必死で自分を守ろうとする無力な子供の様だった。
動かなくなった悪霊にトドメの一撃と言わんばかりに虚無が大鎌を振り上げると、悪霊が絶叫した。
それは、間違いなく光そのものの声だった。
「いやだ、やめて!痛いよぉ、怖いよぉ」
「……っ!」
虚無の動きが止まる。が、それは本当に一瞬の事だった。そして小さく息を飲み、そして悪霊を見据えたまま力強く大鎌を横一閃に振り抜く。
「いやぁ、うああああああああっ」
光の声そのままの絶叫が響きネクラは思わず目を閉じ、耳を塞いだ。
本当は見届けるべきだったのかもしれない。穢れてしまったとは言え、光の最期としっかり向き合うべきだったかもしれない。
だが、ネクラにはそれはできなかった。死を拒絶し、泣きながら消えゆく小さな魂も、その魂を大切に思うが故に無慈悲になり黄泉へと送る虚無の姿も、どうしても己の目で見る事ができなかった。
それは光に対する悲しみの感情なのか、弟と面影を重ねていた光のを自らの手で黄泉に送る事になってしまった虚無に対する同情なのか。
ネクラ自身もそれはわからなかったが、覚悟を決めて仕事を全うした虚無とは違い、最期に小さな命と向き合う事ができなかった自分には偽善すぎる感情なのかもしれないと思った。
悲痛な絶叫から数分後、ネクラは黙って虚空を見つめながら佇む虚無の隣でと肩を並べていた。
「光くんの魂は黄泉の国へ?」
長らく無言の空間が続いたが、先に口を開いたのはネクラだった。
「ああ」
虚無は短く答え、そしてまた黙った。
「黄泉の国ってどう言うところなんですか」
死神から悪霊の魂は黄泉の国へ送られ、そこで未来永劫閉じ込められると聞いていたが、具体的にどの様な場所であるかを聞いていなかった。
あの様な事があった後に聞く話ではないと思ったが、それでもネクラは知りたいと思った。光の魂が送られた場所がどんなところであるか知らなければならないと思った。
虚無も気を悪くした様子はなく、ネクラの質問に答えた。
「生前に聞いた事がないか。それと同じだ」
「ええっと、私の認識だと亡くなった人が集まる場所です。その、地獄とは少し違うイメージがあります」
地獄と言う言葉を口にし、光が地獄を恐れていた事を思い出しネクラは言葉を濁す。
そんなネクラの言葉を受け取り、虚無は言う。
「ああ。その通りだ。黄泉の国は罪や穢れを持つ魂が集まる場所。現世では同一視されている事もある様だが、罪を罰する様なところではない。俺は見た事はないが、暗黒が広がる不浄の場所と聞く」
「そんなところに光くんの魂は永遠に閉じ込められてしまうなんて」
地獄は怖いから行きたくないと言った光の姿が過る。
光くんは、何も悪くないのに。ネクラが消え入る様に呟いた後、2人の間にはまた沈黙が流れた。
「光くんは今頃、怖い思いをしていないでしょうか」
「……悪霊化してしまえば自我を失うからな。時間が経つほど光としての心は消えゆくはずだ」
それが光にとっての唯一の救いなのかもな。と虚無は呟いた。
「これで光くんと言う存在が、本当にいなくなるんですね」
光は輪廻転生の資格を失った。彼の魂はもう二度と生まれ変われない。
来世で幸せになるチャンスもない。本当の意味で二度と人生を歩む事はないのだ。
ただ母親の笑顔を守りたくて自ら命を絶って未練を残し、母を蔑む人間たちに恨みを持って怨霊化してしまった幼い命。
その素直な心のどこに罪があろうか。ネクラは悲しさと口惜しさと、そして幼い命を守れなかった情けなさで体が震えた。
ふと虚無を見ると、彼が鎌を手に持つ鎌を強く握りしめている事が分かり、表情や態度には出していないが彼も、いや彼の方が悔しい思いをしているのだと感じ、ネクラはそれ以上声をかける事はなかった。
「よし、結界を解除するぞ」
「はい」
暫くが経ち、気持ちを持ち直したのか虚無が言った。
全てが終わった今、ここにいる必要はない。
光の事があったためか、少し名残惜しい気持ちに襲われたが、そんなネクラの気持ちを察した虚無に『もう終わったことだ』と言われたため、ネクラは彼の言葉に頷いた。
虚無が再びパチンと指を鳴らすと、みるみる内に白い空間が溶け出し、現世の世界が姿を現す。
「ひいいいいっ。ゆるしてくれぇ」
「俺たちはなにもしてないじゃないかぁ」
「だ、だれか助けてくれぇ」
白い世界が失われてゆき、最初に目に飛び込んできたのは、光の母親を面白おかしく追いかけ、それを携帯カメラで生配信していた男3人が地面に頭を擦り付け、土下座のポーズをとっている姿だった。
その正面にいる光の母親も光がいた空中を見たくないのか、上を見ない様に必死で頭と耳を抑えている。
その状況をみて、ネクラは結界内の時間は本当に現世に影響しないのだと思った。現にもう空中に光の姿は存在しないと言うのに、そこにいる全員がいないはずの光に恐怖している。
しかし、男たちの内、1人が異変に気が付き、空を見る。そして言った。
「お、おい。子供が消えているぞ」
その言葉を聞いた他の男たちも顔を上げる。
そして焦りと安堵を混じらせた声で口々に言う。
「と、とりあえず逃げるぞ」
「おおおおう、そうだな。こんな母親に絡んでたら呪われちまう」
「行くぞっ」
3人はそれぞれ足をもつれさせ、バタバタとしながらその場を転がる様に走り去った。
抉られた地面には光よって壊された彼らの携帯電話が粉々になって散らばっていた。
それを見たネクラは思った携帯が壊れた事によって生配信は止まったが、途中まで流されていたあの動画は世間にどう映ったのだろうと。
霊体である光の姿は捉えられていなかった様だが、あの気分が悪くなる動画が全世界に配信されていると思うと、良い気分ではない。
光の母親にも若干の気の毒さを感じてしまう、そこまで思ったネクラはハッとして光の母親の方を見た。
光の母親はゆっくりと顔を上げ空中に光の姿がない事を確認し、そして辺りを見回し先ほどの男たちも含め、自分に害をなす存在がいなくなったと確信したのか彼女は険しかった表情を緩ませて、その場で腰を抜かしていた。
「あは、あははははははっ」
突然、口を開いたかと思うと光の母親が狂った様に笑い出した。
真正面を向いて、目を見開き口を大きく開けて笑う姿はあまりに狂気的で、ネクラは思わずたじろいだ。
長らく蹲っていたためか、顔も服も、もちろん足も土に塗れてドロドロで、綺麗にセットされていた髪の毛もひどく乱れていた。
そして次の瞬間、彼女の口から出た言葉に衝撃を受けた。
「あはははははっ。やったわ。あいつの気配がしない。やっといなくなったんだわ!」
あいつ、とは光の事だろう。高笑をいしながら光の気配が消えたと喜び、叫び続ける光の母親の姿をネクラは怪訝な視線を送り、虚無は無表情で見つめていた。
光の母親は恍惚とした表情で狂気とも歓喜とも取れる叫びを続けた。
「あいつが死んでから、毎日、毎日、毎日、どいつもこいつも私をバカにして、好奇の目で見て、面白がって、追い掛け回して、もううんざりだったのよ。挙句の果てに化けて出て来て毎日ガラス割りやがって!私の人生はあいつのせいでめちゃくちゃだよ!生きていてもお荷物だったくせに、勝手に死にやがった上に死んでも親に迷惑かけてんじゃねぇよ!」
次々と吐き出されて行く、光に対する汚い言葉にネクラは怒りが湧き出ると共に胸が締め付けられた。
化けて出た、お荷物、迷惑、それはひどい。ひどすぎる。光は心の底から母親の幸せを願っていたのに。母親が悲しんで苦しんでいるのは自分のせいだと思っていたのに。
その思いに駆られて自ら命を絶ち、母親を守りたい一心で悪霊化し、黄泉の国へと送られると言う悲しい末路を辿ったと言うのに。
ネクラは唇を噛みしめる。怒りで涙がでそうになるなんて初めて知った。
母親の絶叫を聞いて、光が暴れた事で身の危険を感じ、逃げた野次馬たちが安全だと判断したのか再び集まり始める。
そこにいる人全員が自分に注目しているにも関わらず、光の母親の狂気の絶叫は続く。
「でも、やっといなくなった!これで、これで私はあいつに怯えなくていい。これで私は幸せになれるんだっ!あはははは」
光の母親は人目を憚らず髪を振り乱し、顔を歪ませながら笑う。
母親の言葉とは思えない言葉の数々と醜い姿にネクラは思わず目を閉じる。
そして、否が応でも実感してしまった実の子供を愛せない親もいると言う事に。
母親は否、この世の全ての親と言う存在は自分の子供を愛するものだと思っていた。
だが、目の前の母親はどう見ても違う。決して心から光を愛していない。よく思い返してみればあの母親が住むマンションの部屋には光の死を悼むものが何一つなかった。光の写真すらなかったのだ。
親が子を愛せないのは、親となった者の人間性が未熟なのか、本人を取り巻く環境なのか。親になった経験のないネクラには分からないが、だがそれはこの世に生を受けた子供にとってはひどすぎる現実だ。
もうやめて欲しい、せめて光の事を悪く言わないで欲しい。ネクラが心からそう願った時、隣で光の母親の発狂を静観していた虚無が動いた。
その手に、大鎌を持って。
「虚無さん?」
ネクラが呼びかけるも、彼はその声には無反応で歩みを止めることなくゆっくりと歩みを進める。
もちろん、虚無とネクラの姿は光の母親にも野次馬たちにも見えていない。
ゆっくり、ゆっくりと歩みを進め、そして虚無は光の母親の前で足を止めた。
ネクラはその動きを不思議そうに眺めていたが次の瞬間、背筋が凍った。
虚無が光の母親に向かって大鎌を振り上げたのだ。
ネクラは思わず叫ぶ。
「虚無さん。だめ!!」
その声も空しく、虚無は大鎌を振り下ろした。