第二章 第三話 小さな命はターゲット
いつも読んでくださる方、ありがとうございます。
私、アクセス解析数なるものの意味が分かっていない馬鹿者でして、友人に言われユニークユーザー様が100件を超えていて「!?」ってなりました。
このお話を読んでくださっている皆様、誠にありがとうございます。
「遅いぞ」
虚無より遅れる事、数十分。ネクラはとあるマンションの10階にいた。
霊体になっても運動神経はそのままなのだとネクラは実感した。生前から運動神経は良くなかったし、運動も嫌いだった。50メートル走など驚愕の10秒台だ。
そんな自分に急いで走れと言うのは無茶だと思うし、だいたい虚無が速すぎる。ネクラに急ぐぞと言い残し、疾風の如く走り抜けていったのだ。
あんなの人間じゃない。……人間じゃなかった。死神見習いだった。
ただ、体はまったく疲れていなかったし、息切れもない。その辺りは、悲しいかなこの体になった利点だなとネクラは思った。
「一体何があったんですか」
「見てみろ」
虚無に促され、その視線の先を見てみると、ピンクのラメが仰々しく輝く派手なピンク地のミニドレスを身に纏ったホステスらしき女性が、高級そうな服には不釣り合いなほどに髪をボサボサに振り乱し、顔を抑えて嗚咽を上げながら、無残に割れたベランダの窓ガラスの前で蹲りながら発狂していた。
「もうやめてっ。やめてよぉぉぉぉ。勝手に死んだのはアンタの方じゃないッ。私はなにもしてないわっ」
その叫びは恐怖に支配されつつもどこかヒステリックさを感じる叫びだった。
その女性のすぐ前には5歳ぐらいの小さな男の子がその様子を眺めながら立っていた。
派手な見た目の女性に対し、男の子はかなり地味な印象を受けた。髪は短く、不揃いでボサボサ、心なしか毛質も悪い。
服もオレンジの長そでとグレーの長ズボンを着用しているが、長年それを着ているのか、それとも洗濯をされていないのか、汚れが目立つ。
周りをよく見れば、高級なマンションの部屋とは思えないほど高級バックや服が散乱していた。
見るからに最新鋭のシステムキッチンにも食器が溜まり、長い間放置されている事を物語る。
そして、ぼんやりと佇む男の子を見たネクラは直感した。この子はもう生きていないと。
ネクラは息を飲んだ。先ほど割れたガラスはネクラたちのいる方に向かって降り注いできた。女性の周囲をみてもあまり目立ったガラス片は見当たらない。つまりガラスは内側から割れたのだ。
「虚無さん。これは……」
ネクラは茫然として辺りを見回した。
「あの男児が今回、俺たちが担当するターゲットだ。これもあの子がやったんだろうな」
「あの子が、こんな事を」
虚無に言われ、ネクラが男の子を見ると、向こうもこちらを見る。
男の子と目が合ってしまったネクラに緊張が走る。
すると、その男の子は蹲った女性の傍を通りすぎ、2人の下へと近づいた来た。
ネクラが身を固くし、虚無もわずかではあるが身構える素振りを見せた。
ついに男の子は2人の目の前まで辿り着きそして言った。
「お姉ちゃんとお兄ちゃん、だぁれ?」
その純粋無垢な声色に、その場の空気が少し緩んだ。
しばらくして、あの部屋は警察が駆け込み、近所の人たちも半ば面白半分で押し掛ける騒動になったため、とりあえずその場を離れる事になった。
男の子も先だっての優妃と違い、あのマンションに執着する地縛霊ではなかった様で、一緒に来てもらえるか尋ねると、蹲る女性を一瞬だけ見たのちに頷いて、素直に2人についてきた。
マンションから少し離れた公園に移動し、男の子をベンチに座らせる。ネクラは男の子の隣に腰かけ、虚無は2人からは少しだけ離れた木にもたれかかっていた。昼間にもかかわらず、公園を利用する人はほとんどいなかったため、恐らく今日は平日なのだろうとネクラは思った。
「ひょっとしてお姉ちゃんたちは僕と同じなの?」
無垢な瞳で見つめられながら残酷な問いかけされ、ネクラは言葉を詰まらせる。
僕と同じ。それは単に霊体である事を指しているのか、それとも自ら命を絶った事を指しているのか。
虚無の話によれば今回のターゲットは自ら命を絶ったこの世に未練をもつ悪霊になりかけの魂だ。
その条件にこの子が当てはまっているとするならば、こんな小さな子供が自ら進んで死を選んだと言うのか。
ネクラがそんな事を思い、つい意識を数秒ほど飛ばしてしまっていたからだろうか、自分の説明に一向に答える気配がないネクラを不思議そうに見つめている事に気が付いて、慌てて男の子に答える。
「君と同じ体、ってことなら……うん。同じだよ」
ネクラは言葉を選びながら答えた。
虚無は瞳を閉じてただ黙ってそこに立っていた。
「そっかぁ。じゃあ、どうすればお母さんに気持ちを伝えられるかわかる?」
「気持ちを伝える?」
ネクラが聞くと、男の子は小さすぎて地面につかない足をプラプラとしながら喋り出す。
「僕ね、死んじゃったんだけど、お母さんが心配で、お母さんの傍からから離れらえないんだ」
「お母さんが心配なんだ。ねぇ、お母さんが心配ならどうしてその、死のうと思ったの」
死んじゃったと言う言葉を男の子はいとも簡単に口にした。そして、その事実に対し母親が心配だと矛盾する言葉を続けたため、残酷な問いかけではあると理解していたがネクラはためらいながらも優しい口調で確認した。
「お母さんは、僕がいると不幸なんだって。いつも僕の事見てそう言いながら、泣いてた」
しょんぼりとしながら男の子は視線を地面に向ける。
その時、ネクラはハッとした。気が付いてしまった。男の子の服の下、首から除く、複数の青い痣に。
ネクラは即座にごめんねと謝りつつ、男の子の長そでの服を上げる。そこには数えきれないほど同じ痣が見受けれ、中には赤黒くなってしまっているものがあった。
ネクラの心が何とも言えない感情に囚われ、悲しみからかその顔が歪む。
この子は虐待されている。いや、されていたのだ。
生前の外傷は命を落とした後も消えないのか。
男の子が『母親の傍から離なれられない』と言っていた事から、恐らく母親は先ほどの派手な女性だろう。
あの女性がこの男の子に虐待を、そう思ったネクラの背筋が凍る。
男の子はまた黙り込んでしまったネクラを不思議そうに見ながら言った。
「お姉ちゃん。どうしたの。どこか痛いの?」
「ううん。大丈夫だよ。ごめんね。お話、続けてもらえるかな」
ネクラが悲しみを悟られまいとはにかむと男の子は『いいよ』と笑って話を続けた。
「毎日、毎日、お母さんは怒って、泣きながら僕を叩いたんだ。でもね、それは僕が悪いんだ。僕が痛くて泣いちゃったから、隣の人に、つーほー?されちゃってお巡りさんが来て、同じマンションに住む人から悪口を言われる様になったんだって。あとね、僕がいると、ケッコンできないって。みんな逃げてくって言ってた」
それは、男の子のせいではないのではないか。この子はなんて理不尽な仕打ちを受けたんだ。それは母親のする事とは到底思えない。
ネクラは男の子を見ながら悲しそうに瞳を潤ませ、なにか思う事があったのか、虚無はいつの間にか瞳を開けてネクラと男の子を見つめていた。
「お母さんが悲しいと僕も悲しい。お母さんが苦しいと僕も苦しい。僕がいなくなれば、お母さんは笑ってくれるのかもしれない。だから、ベランダから落ちたのに」
そう言えば先ほどのマンションは高級マンションにも関わらず落下防止のネットがなかった。
話を聞いて、やはりこの男の子が自ら命を絶ったのは事実だと知る。
そしてその理由とは何と言う残酷で悲しいものなのか。
この子は母親の事が好きで、好きだから笑って欲しくて、自分を愛してもらう事より、自ら命を絶ってまで母親に笑顔になってもらう事を選んだのだ。
その事実にネクラは泣きそうになった。しかし、この子の事情も気持ちも本当の意味で分かっていない自分が、ただ可哀そうと言う感情で同情してはならないと思い、溢れ出そうになる涙を必死で堪えた。
「でも、お母さんは今も泣いてる。僕がいなくなったのに、いっつも泣いてて、お母さんに悪口を言っていじめる人たちも増えて、僕が消えてもお母さんは笑ってくれないし、全然、幸せじゃなさそうなんだ」
男の子がネクラの方を見ながら一生懸命に話す。ネクラも男の子の瞳を見て、真剣にその話を聞く。
「だからね、お姉ちゃんたちにどうやったら気持ちを伝えられるか、教えて欲しいんだ。お母さんに泣かないでって伝えたいのに、伝えようと思う度にいつもパリーンってガラスが割れてお母さんが怖がってまた泣いちゃうんだ。僕の事、見えてないみたいで声も聞こえないみたいで……。だからお願い」
潤んだ瞳で見上げられ、ネクラは弱ってしまう。
通常、余程の力がない限り生者に死者は見る事ができないと死神は言っていた。ネクラ自身は前回、死神の力で一時だけしかも『自ら話しかける』事を条件に姿を生者に認識させる事が出来たが、そんな技、自分には到底できるはずもない。
「虚無さん。この子の姿を見える様にする方法はありますか」
小さな命の必死の懇願に困り果てたネクラは思わず虚無の方を見やってそう質問した。
しかし、虚無は小さく首を振る。
「生憎、今の俺には霊体を具現化する力は持っていない。自力で姿を現す事のできる魂もある様だが、その子は自らを他人に見える様にする能力は持っていない様だな」
魂がまだ幼いと言う事と持っている『念』が弱いもあるのだろう。と虚無は付け加えた。
つまり、現状では母親と男の子の存在を目視で認識させる事は不可能と言う事だ。ネクラの心が切なさで締め付けられる。
そもそも、今回ネクラたちがここに訪れたのは悪霊になりかけているこの男の子を完全に恨みが溢れきる前に説得する事だ。
男の子に協力するどころかこの場所から離れる様に説得しなければならない。
しかし、ネクラはふと疑問に思う。この男の子の未練は間違いなく母親である。では、この男の子がためらっているとは言え、恨んでいる対象は一体なんなのか。
状況からしてやはり母親だろうか。しかし、男の子の態度を見る限り、母親に強い執着をしている様だが、恨みを持っている様には見えない。
ネクラは疑問を深めた。
「ねぇ、お姉ちゃん。教えて」
男の子に揺さぶられ、ネクラは我に返る。
「ごめんね。お姉ちゃんもそれはわからないの」
「そっか……」
男の子は泣きそうな表情をしながら見るからに落ち込んだ。
その態度にネクラが慌てていると、いつの間にか2人の傍に来ていた虚無が男の子の前に目線を合わせる様にしてしゃがんだ。
「お前、名前は」
「なまえ?ひかるだよ。似鳥光って言うんだ」
男の子は虚無に名前を聞かれた後、悲しそうな表情から一変し、笑顔で答えた。
虚無の声は今までの様な淡々としたものではなく、とても優しさのこもった声だった。
出会ってからずっと無口でクールだった虚無のその様子を見たネクラは驚いていた。そして虚無にも感情が動く瞬間があるのかと思っていた。
その姿に『虚無』な印象など一欠片も見受けられなかった。
虚無は優しい声で続ける。
「そうか。光、お前はお母さんが好きなんだな」
「うん。大好き。ちょっと怖いところもあるけど、いい子にしてたらお菓子くれるし、誕生日にはケーキも食べさせてくれるんだよ」
男の子、光は楽しそうに言った。その
言葉に嘘はなく、本当に母親が好きなのだと言う事が伝わって来る。
「お母さんと、離れるのは嫌か」
虚無が神妙な面持ちで言うと光は『んー』と声を出して悩んだ後、ふるふると首を横に振って寂しそうに言った。
「ううん。お母さんが笑ってくれたら、それでいい。僕、本当はここにいちゃいけないんでしょ」
光がネクラと虚無を交互に見る。
まさか、この子は自分たちが来た理由がわかっているのか。
ネクラと虚無、2人の瞳が驚きの色を映す。
「どうして、そう思うの?」
「なんとなく。僕はおばけになっちゃったんでしょ。おばけは生きている人と一緒にいちゃダメだって、テレビで見た事あるよ」
ネクラが聞くと光は自慢気に言った。
そんな光の頭を褒める様に虚無が優しく撫でる。
「じゃあ、お母さんが笑ってくれたら、光は俺たちについてきてくれるか?」
その言葉にを聞いて、光の表情がぱっと明るくなる。
「え、お兄ちゃんたちが、僕を天国に連れていってくれるの!?」
「天国……?」
ネクラが呟く様に言うと、光は興奮した様子で言う。
「うん。死んだら天国ってところに行けるんでしょ。絵本で見たことあるけど、きれいなところだったなぁ」
光は天国に思いを馳せているのか、瞳をキラキラと輝かせていた。
それとは対照的に光の口から紡がれた天国と言う言葉にネクラと虚無の動きが止まる。
光はまだ幼いとは言え、自ら命を絶っている。
例え光が子供であっても、その事実は変わらない。死後の世界の理は、決して覆らない。
天国と言うものは存在しないし、自ら命を絶った代償で輪廻転生の資格は与えられない。
死神補佐として活動しなければならないという未来が待っているのだ。
それを理解しているの2人の表情がくもる。
その雰囲気を察した光が途端に悲しい表情になる。
「違うの?僕、天国に行けないの……?僕、やっぱり悪い子だったのかな。もしかして、地獄に行かなきゃダメなの?」
小さな表情が悲しみに染まり、じわりと涙が滲む。
ネクラはその姿にかける言葉もなく、思わず小さな体を抱きしめる。
その胸に顔を埋め、ついに光がしゃくり声を上げ始めた時、虚無が口を開く。
「泣くな。大丈夫。確かに、俺たちがお前を連れて行くのは天国じゃない。でも地獄でもないから安心しろ」
「ひっく……。本当……?」
光がネクラの胸から顔を離し、涙でぐしゃぐしゃになりながら虚無を見つめる。
「ああ。ちょっと変わったヒトがいるが、悪い場所じゃない。その後は……色々と大変だが、俺がサポートする。約束だ」
虚無が微笑みながら小指を光に差し出した。光はそれを不思議そうに見て、そして虚無の顔を見て笑顔で頷いた。
「うんっ。よかったぁ。僕、地獄って怖いところって聞いたから、行きたくなかったんだ。約束だよ!お兄ちゃん」
「ああ」
虚無はしっかりと答えた。
そして小さな指が、虚無の白い大きな指と絡まり合った。
まるで兄弟の様だなと、ネクラはその様子を静かに見守っていた。
暫くして、2人は光と別れた。
本当は一緒に来て欲しかったのだが、光がやはり母親と離れたくないと言い出したので、無理矢理母親の元から離して未練が強まるのも良くないと思い、仕方なく光をマンションに帰した。
昼下がりの公園をネクラと虚無は並んで歩いていた。
長らく無言が続いたが、先に口を開いたのはネクラだった。
「あの、虚無さん。あのマンションのガラスが割れたのって……」
ネクラが言葉を濁すと虚無が答える。
「十中八九、光だろうな」
「どうして、そんな事をしたのでしょう」
ネクラの問いに虚無は冷静に言った。
「本人が言ったままだろう。母親に気持ちを伝えたいけれど伝えられない。その思いが形になってガラスを割ってしまったんだろうな」
「それが逆に母親を怖がらせてしまったんですね」
小さい魂はただ母親に思いを伝えたいだけであるのに、それが逆効果になっていると言う、悲しい事実に、ネクラは目を伏せた。
「やはり、光くんの未練は母親だったんですね。それも笑って欲しいだなんて……」
「……そうだな」
虚無は短く同意した。
ネクラは先ほどの派手な母親と光の体にあった複数の痣を思いだし、怖い思いをしていても、何をされても、やはり子供にとって母親はなにがあっても母親で、甘えたい存在なのかもしれないと思った。
「光くんの未練を断ち切る鍵はやはり母親ですよね」
「そうだな」
光と別れ、また無愛想に戻ってしまった虚無を横目に、ネクラは話を続ける。
「こう言うのは、光くんに失礼かもしれないですが、あの母親が、未練を持つほどの人物とは思ません」
「だとしても」
ネクラの言葉を遮る様にしながら虚無が言った。
「光の未練を断ち切って悪霊化を防ぐには、あいつが望む様にあの母親に笑ってもらうしかない」
悪霊化、その言葉を聞いてネクラは思い出した。
そうだ、光の魂の状態はとても危ない。コップに溜まっている恨みと言う水が溢れ出てしまうとあの小さな魂はおぞましい悪霊になってしまう。
ネクラの脳裏に悪霊となり、自分を憎み襲った一目優妃の姿が蘇る。
己の憎しみを支配され、その感情に任せて暴れまわり、最終的には人の命を奪ってしまった。
そして、死神の手によって黄泉の国へと送られた。
もし、光が悪霊化してしまえば同じ道を辿ってしまうのか。
ネクラの中に焦りが生まれる。恐らく、虚無も同じ心境なのだろう。
「光くんを救いたいです。なるべく早く解決策を見つけましょう」
ネクラは興奮して鼻息を荒くしながら意気込んだ。
虚無はその言葉に対して瞳を閉じたのち、やはり短く返答した。
「ああ。そうだな」