21−15 例外の法則
怒りを露わにしても、怒りに飲まれることはしない。プランシー(の背後にいるらしい女神)のやり口に、忿懣を激らせている割には、ヤーティの脳裏はどこまでも冷静である。だからこそ……彼の行動が解せないと、執拗に様子を伺う。
(我らを前に、この余裕……。何か、秘策があると考えた方が良さそうでしょうか?)
憤怒の悪魔は総じて感情の沸点が低く、怒り狂うと忘我の境地へ易々と辿り着いてしまうのも、現実ではある。なので、今の彼の姿はヤーティの冷静さを失わせるためのもの……とすれば、一応の辻褄は合うか。
しかし、ヤーティはそう単純ではないだろうと、慎重に判断する。……プランシーもまた、割合怒りに飲まれにくいタイプの悪魔だったのだ。ルシエルとの共同生活の様子を聞いていた限りでも、アッサリと怒りに陥落するまでには単純な相手ではないだろう。
「……まぁ、いいでしょう。いずれにしても、裏切り者にはしっかりとお仕置きをせねばなりません。お説教程度で済む話ではなさそうですし」
「ほっほっほ……そうなりますかな、ヤーティ様。ですが……そう身構えずとも、大丈夫ですよ。女神様はどうやら、あなた様を新しい世界の住人として迎え入れたいそうでして。故に、私はこうしてお迎えに上がっただけですから」
それこそ、何の世迷言であろう。それでなくとも悪魔はとっくに世界に絶望し、神に失望した執念の成れの果てである。そんな世界に対して期待などとうに捨てた悪魔にとって、女神のお誘い程、陳腐なものもない。
「無論、私とて分かっておりますよ。女神様に受け入れて頂く事が、決して有難いことではない事くらい。ですが……グランディア様は優秀な執事をご所望です。……そこに貴方の意思は関係ありません」
「随分な暴論ですね? 意思なき者を従えたところで、無意味でしょうに。……神は信仰する者がいて初めて、神と言えるのです。今のお話からしても、貴方の言う女神がタダの邪神だという事だけはよく分かりました」
「でしょうな。でなければ、こんなにも強引な真似はなさいますまい」
「強引な真似……?」
信仰しているはずの神を「邪神」と決めつけられても、否定どころか肯定までしてしまうプランシー。そうしてスウィフトの姿のまま、皮肉めいた微笑を漏らす。
「実を言えば、この姿も女神様からの賜り物から引っ張り出されたものなのです。……生憎と、私は既にグラディウスの魔力に取り込まれていまして。……もぅ、自分の意思で元に戻ることも、自由になることもできないのです」
口元はいかにも楽しげだが、彼が紡いだ言葉にはありありと絶望の響きが含まれている。そうして、彼の言い分にヤーティはある事にもすぐさま気付くのだ。魔界にも、自由と引き換えにご主人様の理想を形にした悪魔達がいることを。
「まさか、この原理は……紋章魔法と同じ……? ですが、エンブレムフォースは真祖の固有魔法。他に使える者はいないはず……」
「あぁ、ヤーティ様はやはり物知りでいらっしゃいますね。かの紋章魔法は確かに、真祖にしか使えない魔法です。ですが……女神様はとある真祖から、魔法能力もある程度引き継いでいたようでして。今、私に刻まれているのはジョセフォアルチガシアの金紋章のようですな」
「ジョセフォアルチガシア……?」
聞いたことのない動物の名前に、魔界の重鎮も思わず首を傾げる。だが、いくらエンブレムフォースを使おうとも、悪魔の領分は挿げ替えが利かないのが常識だ。それなのに、目の前のプランシーは刻まれている領分が憤怒ではないと、自ら宣言せしめるではないか。
(本当に……何と、不可解な。どうしてここまで手の内を明かすのでしょうね? しかし……あぁ、気になって仕方ありません。この例外の法則が)
気づけば、ヤーティの視界にはスウィフト姿のプランシーしか映らなくなっている。しかし、ヤーティはそれを違和感として、既に感じられていない。さも自然にプランシーの言葉に耳を傾け、さも当然のように彼の目的を見定めようと深みに足を踏み込んで行って……。そしてヤーティは気づいていないが、この事こそがプランシーが「先代」の姿を借りてヤーティを煽った最大の理由でもあった。
ヤーティは憤怒の悪魔にしては、驚くほどに冷徹で理知的だ。頭領の脳筋加減故に、そうならざるを得なかったのかもしれないが……サタン相手のお説教以外で、彼が声を荒げることはほとんどない。その上、洒脱でユーモアも通じる余裕さえ持ち合わせている。だからこそ、ただ怒らせるだけでは聖剣の術中に陥落しないだろうと踏んで、プランシーは聖剣が示すがままに記憶を引っ張り出したに過ぎない。そして……聖剣は尚も、声ならぬ声で語りかけてくる。目の前のアドラメレクこそが、自身を構成する材料の提供者でもある、と。
「そのご様子ですと、どうしてこのような現象が起こっているのか、気になるのですね?」
「正直に申せば、そうなるでしょうね。……我が軍勢から裏切り者を出してしまった敗因を、知りたいと思うのは指揮官として当然のことでしょう」
プランシーを裏切り者と評する割には、ヤーティの眼差しにはそこまで侮蔑の色は含まれていない。彼にしてみれば、ただただ理解に苦しむと言ったところだろう。しかし……この冷静さこそが最大の命取りなのだと、プランシーもまた、冷静にヤーティを絡め取る算段を張り巡らせる。
それでなくても、カレトヴルッフを預けられてからというもの……潰してしまった魂の不足分を埋めるように、聖剣の魔力が干渉してくるのだ。今のプランシーにヤーティを籠絡する以外の選択肢はない。
(しかし……この状態だと、外側からはどんな風に見えるのでしょうね? ルシエル様の横槍を考えても……私の姿が見えなくなるわけではなさそうですが)
だが、それこそプランシーは聖剣の本当の実力を誤解している。ハーヴェンは「運悪く」祝詞への介入を防ぐ魔法道具を所持していたから陥落しなかっただけで、それがなければ今頃は女神の軍門に降っていたかも知れない。一方で……ヤーティは大物悪魔とは言え、指輪までお揃いの配偶者どころか、天使との契約……延いては後ろ盾も持ち得ていない。故に、聖剣・カレトヴルッフにしてみれば、ヤーティ程までに条件を満たした相手もないだろう。
程よく冷静で、程よく理知的。常々発揮されるのは、こちらの話に耳を傾ける余裕と憂慮。ヤーティがプランシーの話術にハマれば、ハマるほど……そんな真面目なヤーティを絡め取ろうと、カレトヴルッフの隠蔽の能力は濃さを増す。
聖剣と謳われこそすれ……今のカレトヴルッフは、浄化を必要とする呪いを溜めた武器である。神聖性を失った神具を、穢れごと大物悪魔の羽でコーティングしただけの魔剣なのだ。そして、その邪な思惑と性能は偏に、かつての調和の大天使が神具の神聖性を曲げてしまった事に由来する。
本当は黄金の輝きを持つはずの神具・ロンギヌス。調和を支えるはずの神具は半分に分割されてからというもの、調和とは無縁なままで複製・利用されてきた。故に……今のカレトヴルッフは破邪の性能は微塵も残っていないし、持ち主の曲がった思惑さえも盲目的に叶えようと、嬉々として「今の性能」を発揮しているだけだった。