19−38 全てを諦めた怠け者
まだ、死にたくない。まだ、やり残したことがある。だけど……自分は結局、やり遂げる勇気がないままだった。息子に謝ることが、嫌なのではない。息子に真実を知られるのを、心配しているのではない。ただ……息子に失望され、拒絶されるのが怖かった。
無様に店先の板間に転がって、既にヤジェフは息さえできないでいる。冷たくなりつつある彼が「死んだ」という状態であることは、疑いようもなかった。何せ……役立たずだったはずのゲルハルトの凶弾は、ヤジェフの心臓を一発で貫いたのだから。そんな致命傷を負って、普通の人間が生きていられる訳がない。
「こ、こいつは……悪魔……?」
「でも……悪魔って、全部が全部、悪い奴って訳じゃないんだよな?」
このまま転がしておくのは、いくらなんでも可哀想すぎる。運悪く狂気の横暴に殺された同僚を、せめて綺麗な場所に移動してやりたいと……職人達がヤジェフに駆け寄るが。しかし、突如店先に現れた2人組の異形に、職人達は恐れ戦慄き、再び慌てふためく。それでも渦中の悪魔……ベルフェゴールとコーデリアは落ち着き払った様子で、粛々と役目を果たそうとしていた。
「……まだか? ベルフェゴール」
「うん、ごのおぢざん……まだ、まよっでる。だけど……おででもはんのうできだんだがら、おむがえはできるどおもうよ〜」
「聞きたいのは予想ではなくて、だな。……まぁ、いいか。お前がズレておるのは、今に始まったことでなし。私も諦めておる故、仕事はゆっくりで良いぞ」
「うん、ぞうずる〜! ごーでりあ、もうちょっとよろじく〜」
のほほんと「がんばれ、がんばれ」と、ヤジェフの側でエールを送っているベルフェゴールの一方で、彼の仕事(なのか?)が完遂するまでの時間稼ぎをしようと……コーデリアがゲルハルトの前に立ち塞がる。そうして、相変わらず小粋な様子でキセル片手に、フウっと紫煙を吐き出せば。目の前の無礼者に改めて、冷ややかな視線をくれてやる。
「おぉ……なんだかすげぇな、姉ちゃん。随分と色っぽいじゃねぇか? どうだい、まずは俺と一杯……」
「……」
「あぁ? なんだ……無視かよ。そんなしっとりした顔をするんだから、誘ってんだろ? 俺のこと。だったら、楽しく酒盛りついでに、その先のお相手もしてくれよ〜」
尻ポケットからスキットルを取り出して、チャプチャプと音を立てて見せるゲルハルト。そうして、酒が足りないとばかりに、クイとウィスキーを追加すると……そのまま、酒の勢いでコーデリアの手をも取ろうとするが。
「汚い手で、触らぬでおくれな。……人間如きが、私に触れられるとでも?」
ピシリと強か、下郎の手の平を弾き返し。呆れて物も言えぬと、コーデリアが首を振る。だが、そうされて面白くないのはゲルハルトだ。相手が「悪魔である」……つまり、人間ではないことさえも悪酔いしている頭で忘れ去り、滑稽な調子で激昂し始めた。
「ぁん? スカしてんじゃねぇぞ、このアマぁ! 俺様はルルシアナの幹部だぞ、幹部! 俺のいう事を聞かない奴は……」
「ほぅ? どうなるのだ? 殺すとでも、申すのか?」
やれる物ならやってみろと、コーデリアが小馬鹿にしたように、大袖を口元に充ててコロコロと笑って見せる。悪魔の姿にあって尚、あからさまに美しい彼女の笑顔は、それだけで眼福だと思える光景だが。笑顔を泣き顔に変えてやるのもオツとばかりに、ゲルハルトが懲りもせずに手元の拳銃を唸らせる。しかし……。
「ほんに、お前はこの上なく癡鈍なのだな? 全く……そんな玩具で私を従えられると思ったら、大間違いぞ」
「ホゲッ……⁉︎」
今度は下郎の手の平ではなく、銃弾までもをあっさりと爪で弾き返すコーデリア。ゲルハルトには無関心とばかりに、「自慢の爪に傷がついたではないか」と飄々と言ってのける。一方で……対するゲルハルトの右腕にはしっかりと銃弾が打ち返されており、ものの見事に貫通していた。
「い、い……いッてぇぇぇッ!」
「なんぞ……おのこが情けない。この程度でビービー泣くなんて、軟弱にも程があるな?」
「ごーでりあ〜、そんなにいっだら、がわいぞうだって。もじかしだら……ごのひと、たまなしがもよ?」
「……ベルフェゴール。かようなところで、下品な事を申すな。お前はトットと仕事を終わらせんか」
目の前で吹き出す鮮血さえも、物ともせず。ズレた調子のベルフェゴールも含めて、その場の全てに冷静な態度を貫くコーデリア。そんな女傑の威容に、酔いを覚ますと同時に……身近な何かを思い出したのだろう。腕の痛みさえも忘れ去る恐怖をぶり返すと、ゲルハルトは大きな体をプルプルと振るわせては……堪らず、「全て」から逃げ出した。
「おんや……情けない上に、堪え性もないようだな? あの男は。……まぁ、いい。ところで、お主らはこの者の縁者か?」
「え、えぇと……その。まぁ、縁者というか……同僚でして」
「ふむ……そうか。では、この者の家族はおるか?」
ゲルハルトを事もなげに撃退したコーデリアが、わらわらと集まり始めた鍛冶屋の面々に問う。そうされて、きっとヤジェフの家族構成も知っていたのだろう、慌ててやってきた親方が恐る恐るコーデリアに答えた。
「ヤジェフには確か……息子がいたと、聞いております」
「ほぉ、そうか。……子息がおるか」
「はい。ですけど、生き別れたとか、なんとかで……その子を迎えに行くために、この鍛冶場で手に職つけるのだと励んでいましたね」
「……なるほど、な。そんな者がベルフェゴールに応じたとなると……なんとも、遣る瀬なき事よ。まこと、お可哀想にのぅ」
親方が寄越した断片的な情報でも、コーデリアにはヤジェフが闇堕ちしそうになっている原因をあらかた理解できるらしい。ツツっと1筋の美しい涙を流してやると、尚もベルフェゴールの仕事を見守る。
「もくもく〜! もくもく〜!」
「……どうやら、潮時のようだな。ベルフェゴール。そろそろ、行けそうか?」
「うん、だいじょぶ。ごのおぢさん、だぶんだけど……ちぞくせいになるんじゃないがな」
「だとすると……堕ちる先はキュクロプス、と言ったところか」
怠惰の悪魔には3種類の上級悪魔が存在する。炎属性であり、クロサイト系と呼ばれる特殊鉱石の加工が得意な「スルト」。そして、魔界水晶や凍土結晶から武器を作るのが得意だとされる、水属性の「フィボルグ」。最後に精霊の毛皮に爪や角、骨等から魔法道具や魔法防具を作るのが得意な、地属性の「キュクロプス」。いずれも武器や防具の鍛造に精通した悪魔である反面、総じて怠け者なのは否めないが。それでも、魔界の悪魔達はこぞって彼らが「冬眠から目覚めている時」を見計らって、所望する道具の作成をお願いし……オンシーズンの工房には、彼らの腕を買った悪魔達による、長蛇の列ができると言う。
「……何れにしても、この者は我らが預かる。なに……悪いようにはせぬよ」
「し、しかし……預かるって、一体……?」
「おで、まがいでえらいあぐま。このおぢさん、やりとげられながっだことがあっで、あぐまになる。それで……」
「……お前は黙ってていいぞ。そのテンポでは、進む話も進まぬ。まぁ、有り体に言えば……この男は悪魔になりかけておるのだよ。それで、此奴の魂がここにいる怠惰の真祖・ベルフェゴールの琴線に触れたようでの。これからは我らの仲間として、魔界で悪魔として暮らすこととなるだろうて。だが……この男は思い出を忘れた状態となる」
「そうなのですか? では……!」
「……そういうこと、だ。その子が生きている間に、互いに知る姿で再会する機会はおそらく、なかろう。故に……子息には、こう伝えておくれな。お前の父は運悪く、死んでしもうたが……きっとお前の事を忘れた瞬間はなかっただろう、と。決して、全てを諦めた怠け者ではなかった……とな」
ふぅっと、改めて吸い口に唇寄せて。コーデリアが煙を吐き出せば。いよいよヤジェフを包み出した黒い霧に混ざるように、紫煙がたおやかに黒煙をキュッと纏め上げる。そうして、準備ができたとばかりにベルフェゴールがヤジェフだった者を担ぎ上げるが……。
「でもぉ〜……おでのはいがってことは、なまけものだどおもうよ?」
よっこいしょ、とそれらしい掛け声を上げつつ、コーデリアの言葉に納得しかねるものがあるらしい。拗ねた調子で、ベルフェゴールがちょっぴり口を窄める。
「ほぅ? ……では、お前は私をも怠け者だと申すのか?」
しかし、コーデリアはコーデリアで、ベルフェゴールの茶々には承服しかねる様子。艶やかな仕草で小首を傾げては、逆に問い返す。そんな彼女の視線に、ベルフェゴールもようよう配下が言わんとしていることを理解したらしい。どこか嬉しそうに窄めていた口を緩めると、よく分からない上下運動ではしゃぎ出した。
「あっ、そっが……そういうことだね。……ごのひどもがんばるのを、なまけだんじゃないんだね。うん、うん。だっだらおで、ちゃんどめんどうみる」
「……ふふ。よく分かっておいででないか、ベルフェゴール。此奴はきっと……いや、何でもない。事情を明かしすぎるのは、野暮というもの。さて……行くとするかの」
「うん!」
結局は悪さらしい悪さもしなかった、悪魔2人が静かに去っていく。そんな彼らの様子に……本当の悪魔はこの街にこそ巣食っているのだと、考え直しては。夕刻と夜の際に突然訪れたヤジェフの死は、余韻ごと生粋の悪魔に連れ去られ……残された者の心には、ポッカリと穴が開くばかりである。




