3−15 恋をするということ(後編)
ボンヤリと目の前に映るのは、見慣れたベッドの天蓋。あぁ、私は倒れてしまったのかしら。最近、彼のことを考えるだけで……胸が締め付けられると同時に、息ができなくなって気を失うことが増えていました。
「っ……」
自然と溢れる涙を止める術も知らないまま、泣くことしかできない自分が悔しくて、情けなくて。どうすればいいのか、分からなくて。
「……大丈夫ですか? テュカチア様?」
「ゲルニカ……?」
「最近、倒れられる頻度が増えておいでとか。……無理をさせてしまったようで、申し訳ありません」
おそらく私が倒れたのを運んで、そのまま見守ってくれていたのでしょう。彼は私が目覚めたのに安心したように、だけど、ちょっと疲れたように微笑んでいました。
「ゲルニカが私に謝ることなど、1つもありません……。それどころか、ただでさえ忙しいのにこんなことに付き合わせて、ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫ですよ。それで、ご気分はいかがですか?」
「え、えぇ。……大分、落ち着きました」
「それは良かった」
横を向いた勢いで、涙が自分の頬を横に伝って枕に吸い込まれていきます。涙が止まらない私の様子を心配そうに見つめる彼にこれ以上……何を言えばいいのか、すぐには思い浮かびませんでした。それでも、何かを言わなければ……伝えなければ。また、彼はどこかに行ってしまう。
「あのね、ゲルニカ……」
「いかがいたしましたか、テュカチア様?」
勇気を出して話しかけても、何をどう話せばいいのか分からない。それでも……とにかく彼にきちんと伝えないと。
「あの、ゲルニカは……誰かと家族になるって、どう思いますか?」
「家族になる、ですか?」
「えぇ。私も成人することができましたが……婚約のお手紙が来るようになってしまって……。それで私、怖くなってしまったのです。このお城以外の事は何も知らないし……お申し込みのどれかをお受けすると、急に放り出されてしまう気がして……」
「そうだったのですか。でしたら、お急ぎにならなくても良いのでは? こんなことを言うと、怒られてしまうのかもしれませんが、私達がこれから生きる時間はとても長い。にも関わらず、婚約は一度きりです。ずっと一緒にいるかもしれない相手を、簡単に決めるべきではないでしょう。……テュカチア様が一緒にいたいと素直に思える相手を、しっかり見定めて選ぶべきです」
「同じようなことを母様にも言われました。もちろん、それでいいのかもしれないのだけど……」
相変わらず、彼は肝心なことに気づいてくれない。
もどかしい思いをしながらも、今度は倒れるわけにはいかないと……私は自分に言い聞かせて、更になけなしの勇気を振り絞り、話を続けます。
「私ね……好きな人がいるのです。でも、届いたお手紙の中には……その人からのお手紙はなくて……」
「そう、だったのですか。その相手はテュカチア様のことを、ご存知の方なのですか?」
「えぇ、何度もお会いしたこともあるし……いつもお見舞いに来てくれる方なのです」
「では、是非にお伝えになったら良いのでは? もし良ければすぐに参上するよう、お伝えしましょうか?」
「いえ。その必要はありません……」
「……左様ですか。私では、あまりお役に立てないようですね。申し訳ありません」
「……お願い、もうやめて……」
やっと止まったと思った涙がもう一度、こぼれ落ちるのを止められないまま。私はまるで子供のように泣きました。
「どうして? どうして、いつも優しくしてくれるのに……肝心なことに気づいてくれないのです⁉︎ 歳もちっとも違わないのに、どうして丁寧な言葉でしか接してくれないのです⁉︎ どうして? 私はただ、あなたに……」
困らせている。彼をとても困らせてしまっている。
私とて、そんなことは分かっているのです。彼の立場では、私に最大級の敬意を払わなければいけないことくらい。でも丁寧な言葉で対応されると、確かな壁があるのが感じられて。丁寧すぎる言葉で優しくされるだけで……私は深く傷ついていました。
「……ただ、気軽に名前を呼んでほしいだけなのです。ただ、私の名前を……呼び捨てでいいから……」
私の消え入りそうな懇願に対し、彼は何かを言いかけたようですが、しばらくして苦しそうに首を振りました。悲しそうな顔をしている彼の中に浮かんでいる感情は……少なくとも、私が読み取れる類のものではありません。何かに苦しんでいるような、ただ漠然とした何かに耐えているような息苦しさ。
「ゲルニカ……」
「もうそろそろ、日が落ちます。このままお邪魔していたのではお身体に障りますし、ご迷惑でしょう。……本日はお暇致します。……くれぐれも、ご自愛くださいますよう、お願い申し上げます」
「……ゲルニカ?」
失礼いたします。彼は小さくそう言って、丁寧に一礼した後、部屋から出て行きます。明らかな拒絶の態度に……私は目の前が崩れるような気がして、声をあげることもできずに涙を流し続けるしかありませんでした。
それからというもの……仕事で竜王城に来ていることもあったようですが、私の元には来てくれなくなってしまいました。ただお見舞いの林檎が届けられるだけで、一度も会いに来てくれません。
「……」
綺麗な赤い林檎を見つめて、彼の角の煌めきを思い出しては……ボンヤリと窓から空を見上げても、ただ青い空が広がるばかりで何も変わりません。
それからも「お手紙」は来ているようでしたが、待ち望んでいるお手紙が来る様子もなく、私はだんだんと……ベッドから起き上がれない日が増えていました。姉様の方はゲルニカに直接アプローチをし始めたということも聞かされましたが、それさえも遠い場所の出来事のように思えて、毎日がただひたすら空虚に過ぎていきます。
「……もう、会いに来てくれないのかしら……」
「テュカチア様。お客様がお見えですが、お通ししても良いですか?」
「お客様? えぇ、お通ししてくださる?」
もしかしたら、会いに来てくれたのかもしれない。そう思って、精一杯体を起こしてお客様を待ちますが……ドアから覗く顔が待ち望んでいた相手とは違うことに気づき、淡い期待もすぐに失望に変わります。
「ご機嫌いかがでしょうか? プリンセス?」
「マ、マハ様……ご機嫌よう……」
「聞きましたよ? なんでも調子が優れないのだとか。大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫です。こうして生きてはおりますし……」
ゲルニカとは違う雰囲気の綺麗な顔立ちをした……風のエレメントマスターのマハ様は、にこやかに部屋に入って来ると、勧められるのも待たずにベッドの横の椅子に腰掛けます。
「おや、その林檎は?」
「ゲルニカからの見舞いの品です。……滋養があるからと、いつも届けてくれるのですよ」
「ふ〜ん、そうですか。で? ゲルニカもまさか……あなたに求婚されていると?」
「……いいえ」
「そうですか、それは良かった」
彼の言葉に……無神経さを感じずにはいられませんでした。何が良かった、のでしょう? もう可能性はないのかもしれないにしても、私はそれこそ……彼からの手紙を待ち望んでいるというのに。
「それは……どういう意味ですか?」
「ご存知ですか、ゲルニカは未熟者のクセに……フュードレチア様の情熱的なアプローチを袖にしているらしいですよ? 身の程知らずもここまでくると、呆れてしまいますね。まして、アレの両親はそれこそ……フン。私と同じエレメントマスターに叙せられているだけでも、忌々しい」
マハ様はきっと、立派な方なのでしょう。確かにゲルニカは若いのですから、未熟に見えるのも無理はないのかもしれません。でも、彼を不用意にバカにされた様な気がして……相手にしない方がいいのも分かっていたのですが、ちょっと言い返してやりたくなってしまいました。
彼はあの時から誰かに甘える事もなく、一生懸命頑張っている。今更、両親の事を引き合いに出すなんて……彼の頑張りを無視された気がして。にわかにお腹の辺りが熱くなるのを、感じたのです。
「まぁ、そうでしたの……しかし、その仰り方はあまり感心できませんわ。現にゲルニカはエレメントマスターの中でも最強なのだとか。そんなゲルニカを未熟者扱いは、酷いのではなくて? まして、彼のご両親のことは今更蒸し返す必要もないのでは? ゲルニカは、きちんと仕事をこなしているではありませんか」
「おや、失礼。でもアレが未熟者であることに変わりないですし、両親の罪はそう易々と消せないものでもあります。こればかりは、仕方ないでしょう」
どうしよう。私はマハ様のことが、本当に苦手かもしれません。直接お話ししたことは、あまりなかったけれども……何だか自信過剰に思える部分にいけないことだと思いつつも、嫌悪感を抱かずにはいられませんでした。そんな私の心中を察することもなく、マハ様は上機嫌で話を続けます。
「ところで、読んでいただけましたか? 私の恋文を?」
「……申し訳ありません。まだ拝見しておりません」
「何故?」
「まだ、そんな気分になれなくて……。私はご存知の通り体も弱いですし、私にマハ様では勿体無いでしょう」
「そんなことありませんよ? 竜界一美しい男女のペアであれば、誰も異を唱えることもありますまい?」
「そう、なのでしょうか?」
「えぇ、そうですとも。こうして間近でお会いすると、あなた様がいかに美しいのかがわかります。正に、私も見とれるほどです。なかなか運命を感じる相手に巡り会えず、お恥ずかしながら、今もシングルのままなのですが……お会いして、確信いたしました。テュカチア様はきっと、私の運命の相手だろうと。ぜひ、私の妻になっていただけませんか?」
マハ様ではなく、ゲルニカの口からこんなにも情熱的な言葉をもらえたらいいのに。私は我ながら失礼だと思いながらも、そんな事を考えていました。もし、これがゲルニカだったら……すぐにでもお返事するのにな、と。
「……申し訳ありません。私はマハ様に運命というものを、感じません。そういうお話しでしたら、お引き取りいただけませんか? そのことで、とても疲れているのです。そっとしておいてくださいます様、お願いいたします」
「左様ですか……。でしたら、改めてプロポーズにお伺いします。次回は素敵な返事をいただいけることを、期待していますよ、プリンセス」
「……少し、考えさせてください……」
では、といって軽い調子で出ていかれるマハ様の背中を見送った後、ドッと疲れを感じました。考えさせてください、とは言ったものの……私にはもともと、彼の求婚を受けるつもりは微塵もありません。
「……っ」
ポタリポタリと、真っ赤な林檎に涙が落とされ続けます。今日も会えなかった。マハ様がいるという事は……きっと彼も来ているはずなのに。会いにすら、来てもらえない。
***
「……いつの間にか眠ってしまったのね、私……」
気がつけば、窓の外の空が赤く染まり始めていました。夕日に霞んで朧げな視界を横に向けると、枕元には綺麗な赤い林檎が1つ、転がっています。そして林檎の下には、黒い封筒に赤い封蝋が施された手紙が置かれているのに気づきました。手紙には母様の字でメモが添えられています。
「……?」
“とても重要な手紙が届いたので、置いておきます。ちゃんと読んで、必ずお返事をする事”
「重要なお手紙……?」
封筒を裏返して見れば、銀色のインクで差出人の名前が書かれています。私は差出人が誰なのかをすぐさま理解すると……綺麗な文字に見惚れるのもそこそこに、急いで封を切り中を確認せずにはいられませんでした。
“愛しのテュカチア様へ
先日は大変不愉快な思いをさせてしまい、深く反省しております。その無礼をお許し頂けるのであれば、拙筆ながら、この先もご一読頂けると幸いです。
あの時は私もどうすれば良いのか分からなくて、その場で返事をすることもできずにいました。情けない限りではありますが、本当はとても嬉しかったことを未だに思い出しては、こうして筆を取っている次第です。
あの後、あなた様がお話くださった「家族になるということ」を私なりに愚考しました。長い時間を共に過ごし、寄り添い、何かを育むということ。その長い時間を1人で過ごすのは、とても辛いことであると今更ながら、思い知ったのです。
ご存知の通り、私には既に家族と呼べる者は1人もおりません。1人きりには慣れたつもりでいましたし、1人が嫌いなわけでもありません。それでも、決して寂しくないわけではないということに、改めて気づきました。
自分の寂しさを埋めてくれる人が側にいてくれたら、どんなに素敵なことでしょう。逆に自分もその人の寂しさを埋めてあげられたなら、それに優る喜びもないのでしょう。そして、その相手こそが「家族」なのではないかと、思い至りました。
もし、先日の無礼にもめげずに私のことを思ってくださるのであれば、私の家族になって頂けないでしょうか?
お返事、お待ち申し上げております。
追伸:以前にいただいたアップルパイの美味しさも、未だに忘れられずにおります。是非、また焼いて頂けると嬉しいです。
ゲルニカ”
***
それから程なくして、私はゲルニカの元に降嫁することが決まりました。しかし、ゲルニカの手紙だけ特別扱いしたこと、彼が姉様の思いを無視したことを考えると……そのまま婚約とするには、波が立ちすぎる危険もありました。その懸念に対し、母様は一切に「有無を言わせない」ため、職権乱用をすることにしてくれたようです。
「叙勲を言い渡します。バハムート・ゲルニカ。あなたの竜界への多大なる貢献と献身に褒美として、我が娘・テュカチアを下賜することに致しました。……縁に従い、あなたを我が竜王の眷族に列します。そして、これからも更なる忠義に邁進することを望みます」
「……身に余るお言葉に、これ以上ない程の喜びを感じております。謹んでお受けすると同時に、今後も変わらない忠誠を誓うことを、お約束いたします」
「よろしい。では……テュカチア、行きなさい。そして、うんと幸せになるのですよ」
「はい、母様。今まで……ありがとうございました」
「降嫁とは言え、あなたが幸せそうでなによりです。……ゲルニカ。テュカチアを頼みましたよ。この子は体こそ弱いかもしれませんが、その分とても優しい、いい子です。是非……大事にしてやってください」
「もちろんです。一生をかけて幸せにすることを、併せてこの場で誓います」
***
そうか……母さまの母様、つまり女王様は立場の弱い父さまのことを考えて、敢えて母さまを「与える」という形で2人を一緒にしてくれたんだ。
「いいなぁ。私もそんな風に素敵なお手紙、貰ってみたい」
母さまのお話が終わって、エルがウットリと呟いている。多分、エルはまだ「恋人」が何なのか分かっていなさそうな気がするけど、少なくとも……父さまと母さまが互いに一緒にいる事を、きちんと決めて結婚したことはよく分かったみたいだった。
そう思うと、僕の両親はどうして簡単に僕を捨てて別れることができたんだろうかと、思い出してしまう。勿論、竜族と人間の結婚の考え方は違うんだろう。それでも、家族になった誰かに平気で寂しい思いをさせることは……簡単に許されることでもない気がする。
「ちわ〜っす、誰かいますか〜?」
「あら? もしかして、この声は……」
向こうから響く挨拶に、母さまがすかさず返事をしながらエントランスに迎えに行く。聞き覚えのある、とっても懐かしい声。その声には、流石のコンタローも飛び起きた。
「お頭の声でヤンす! お嬢様、お頭が迎えに来てくれたでヤンすよ⁉︎」
「うん‼︎」
目を輝かせながら、ハーヴェンさんの到着を待つ2人の嬉しそうな様子に……僕も胸が一杯になる。よかった。ハーヴェンさん、無事だったんだ。