3−14 恋をするということ(中編)
約束の日があってから、彼は真っ赤な林檎をお見舞いに持ってきてくれるようになりました。聞けば、彼の屋敷の庭には林檎の木があり、いつもたわわに実をつけているのだそうです。黒の霊峰の地熱と魔力を吸って実った林檎は、彼の角と同じ綺麗な赤色をしており、手にするだけでとてもいい香りがしました。
「ゲルニカが持ってきてくれる林檎を頂くと、とても体調がいいわ。……それでね、頂いた林檎でアップルパイを焼こうと思うの。あなたのお屋敷に持って行っても、いいかしら?」
「それは楽しみですね。……ただ、外出が難しいこともおありでしょう。お身体はくれぐれもお大事にしてください」
「えぇ、ありがとう」
気づけば……彼と初めて会ってから既に、160年くらいの時間が経っていました。互いに脱皮を4回経験し、大人になりかけた頃には……彼の鱗は真っ黒に染まっており、いつしか最強の竜神と謳われるようになっていました。一方で、私は誰が言い出したのかは分かりませんが……図らずとも、竜界一美しいという評判が付き纏うようになっていたのです。その評判自体には、悪い気はしません。ただ、そう言われるようになっても……彼の丁寧で少し距離のある態度は相変わらずで、私は歯痒い思いをしていました。
しかし、それは姉様も同じこと。そろそろ婚約相手を決めなければいけないというのに、どんな相手を紹介されても首を縦に振ろうとはしません。理由は母様にも私にも、なんとなく分かっていました。姉様はゲルニカと結ばれたいのだろうということを。そして私もまた、彼と結ばれたいと切に願うようになっていました。
仕事の合間を縫ってお見舞いに来てくれることはあっても、彼の気持ちは今ひとつ見えてきません。彼が私のことを好きでいてくれているのか、それとも……もしかしたら、他に好きな相手がいるのか。そんな事を考えるだけでただただ苦しく、締め付けられるような感覚に襲われます。会えない日は自然と部屋に籠りがちになり、自分に向けられる優しさにも反応することさえできなくなっていました。
そんな毎日を過ごしていた私も、とうとう成人……5回目の脱皮を乗り越え、気づけば大人の仲間入りを果たしていました。その日を境に、私にも婚約の申し込みが舞い込むようになったと告げられたのです。体のお加減が良い時は母様も一緒に手紙を確認してくれていますが、文机の上に山になっている手紙全てを読むのは、難しいように思えました。それでも、きっと城の者がある程度、整理してくれたのでしょう。封蝋の色を見ると、相手の属性毎にきちんと並べてくれてあります。
「……まぁまぁ。レッドドラゴンにグランサラマンダー……炎属性だけ見ても、どの殿方も上級種の方々ばかり……。あら? こちらはクロウクルーワッハ……マハじゃありませんか。そう言えば、この間マスター会議の後、テュカチアを是非妻にと懇願に見えましたね……。テュカチア、どうしますか? どの殿方も、不足はありませんよ。むしろ、体が弱いあなたを娶ってくれると言うのですから、前向きに考えなさいな」
手紙を何通か摘み上げ、差し出し人を確認する母様。前向きにと母様は言いましたが、言葉とは裏腹に……少し呆れた様子で、目の前の手紙の山を見つめています。一体、何通あるのでしょう。差出人が炎属性である事を示す赤色の封蝋が付いている手紙を確認するだけでも……かなりの時間がかかりそうです。それでも、私はもしかしたらと思い、一通一通、祈るような気持ちで差出人を確認しました。
しかし……誰よりも手紙が欲しい相手からの文は、届いていません。
「あのぅ、母様……」
「えぇ、分かっていますよ。……ゲルニカからの手紙はなかったのでしょう?」
「……はい」
そこまで見透かしていたのでしょう。母様が1つ大きなため息をついて、話を続けます。
「ゲルニカに魔法書の整理と研究を任せたのは、失敗だったかしら……。マスターとしての仕事がない時は、屋敷に籠りきりで魔法書の研究しているみたいなのです。魔法書架をそのまま彼の屋敷に移設したのだけど、それから外に出てこなくなってしまったみたいで……。まさか、ゲルニカがそこまで引きこもる性格だと思いませんでした。多分、今は自身の婚約を考える前に魔法書に夢中なのでしょう。……仕方ありませんね。私の方からも少し、聞いてみましょうか」
「本当?」
「えぇ、こうもあなたが熱を上げて苦しんでいるのです。傍で見ている私も、とても辛いのですよ。それでなくても、私はあなたを健康に産んであげることもできなった。でしたら、せめて一生を共に過ごす相手の事くらいは叶えてやりたいのです。それに、もしゲルニカに決まった相手がいるのであれば、良くも悪くも諦めがつくでしょう?」
「……そう、ですね。母様……わがままばかりで申し訳ありません……」
「いいえ。ここはわがままを言わないといけないところですから、気にしなくていいのですよ。何せ、私達の結婚は一生に一度きりなのです。大事なご縁を婚約適齢期だからという……適当な理由で決めてしまっては、人生そのものが苦痛になってしまうでしょう。……それだけは避けなければいけません」
「はい、母様……ありがとうございます……」
「私は女王である以前に、あなたの母親なのです。娘の幸せを願うのは当、然の事でしょう?」
そして、数日後。母様は約束通り、ゲルニカを呼び出して彼の動向を聞いてくれることにしたのです。その日はマスター会議の日。母様は会議後に、彼を連れて私の待つ部屋に戻ってきてくれました。
「ごめんなさいね、ゲルニカ。実はあなたに確認したいことがあって……あぁ、待っていて頂戴。今、人払いをしますから……」
「……人払いをされなければいけない程の内容なのですか?」
「えぇ、そうね。できればあなたとテュカチア、そして私の3人でお話ししたいことなのです。皆、申し訳ありませんが……下がって頂戴」
私達以外の従者が部屋から退出したのを見計らって……母様が、ゲルニカに尋ねます。
「5回目の脱皮は終わりましたか?」
「はい。お陰さまで無事、済ませております」
「そう、でしたら……あなたもそろそろ、婚約を考えなければいけない時期ではなくて?」
「お言葉ですが、私はまだまだ未熟です。……まだ、早すぎるかと存じます」
「そうかしら? 現にあなたはエレメントマスターとしても、そして、1人のオスとしても、相当の実力を持っているではありませんか。未熟とか、早すぎるというのは、謙遜にも程がありますよ。腰あたりが良すぎるのも却って嫌味になりますから、注意なさいな」
「……大変、失礼いたしました。ご忠告、痛み入ります」
「それはさておき……実はあなたにそのことも踏まえて、相談があるのです」
「相談でしょうか?」
「えぇ。先日、テュカチアも5回目の脱皮を無事に乗り越えられました。これで晴れて成人となりましたが……」
「それは、それは。おめでとうございます。姫君がお2人とも無事、成人召されたということですね。心よりお祝い申し上げます」
「ありがとう。でも、お陰で少々、テュカチアにとっては苦しいことが増えてしまって……」
大抵の状況は即座に理解できるゲルニカも、母様が何を言わんとしているのかを、察することもできないようでした。それはつまり……私が成人したことと、自分が成人したことは無関係であると思っている、ということ。互いに婚約適齢期に入ったということが、何を意味するかを気づけないということでもありました。
そんなことを考えていると、胸のあたりが苦しく、息が詰まるような……。
「……母様、あの……」
「テュカチア? テュカチア⁉︎」
一瞬、空っぽになった頭が急に重たくなったと思うと、体の力が抜けるのも他人事のように感じる自分がいました。
私にも何となく、分かってはいたのです。本当は彼が立場上、ただ姫君であるだけの自分に「優しくしてくれていただけ」だったことを。それでも彼が少しでも自分に微笑んでくれれば、今日はいい日だと思える小さな幸せがあれば十分だと、言い聞かせていました。
でも、それすらも苦しくなるようになったのです。他の誰かと彼が一緒になったところを想像するだけで、私の息は吐き出されることを忘れるくらいに、踠いていました。
***
「父さま、酷い! それって、母さまが父さまのことが好きなのに、気づいてくれなかった、ってことだよね⁉︎」
「それは仕方ない事なのよ? みんな、エルノアみたいに人の気持ちに気付いてあげられる訳ではないのだから。それに、父さまは魔法書に夢中だったみたいだし……」
「そうだけど……でも、母さまの方はとっても苦しかったんでしょ? いつも、父さまのことを考えて」
「そうね。毎日毎日、父さまに会えるか会えないかで、一喜一憂していたわ」
「いっきいちゆう?」
「喜んだり悲しんだり、ね。父さまに会ってお話しできるだけで幸せだったし、お仕事でお城に来ているのに会いに来てくれずに、そのまま帰られたりすると……悲しかったり。当時の母さまには、父さま中心で世界が回っているように思えたわ」
少しでも長く、一緒にいたいと思うこと。一緒にいられないだけで、悲しいと思うこと。なんだか苦しくてフワフワした気持ち。なんと言うのだろう、そんな風に誰かを好きになれるって……とても素敵なことだと思う。
「あ! ギノはなんだか、分かった感じの顔してる〜。よく分からないの、エルノアだけなの? ズルイ、ズルイ‼︎」
「いや、そういう訳じゃないだんだけど……。ただ、そうやって好きな人のことを考えるだけで嬉しかったり、悲しかったりするのが恋することなのかな、ってちょっと思っただけ」
「フフ……ギノ君の方が、とっても大人みたいね?」
「ムゥ〜。いいもん、いいもん。……でも、母さまは父さまと一緒になれたんだよね? 前、マハに母さまはお祖母様の命令で仕方なく父さまと結婚したんだ、って聞いたけど……違うの?」
「まぁ、マハ様ったら……そんなこと、おっしゃったの?」
「うん。父さまと一緒にお城に行った時に言われたの。体の弱い母さまを守るために、お祖母様は母さまと父さまを結婚させたんだ、って。でも、父さまも違うって言わなかったし……悔しいけど、本当の事なんだって思ってた」
「そうだったの。そうね……結果的には間違っていないから、構わないのでしょうけど……。どちらか言えば、仕方なく……は父さまの方かもしれないわね?」
「そうなの?」
「では、折角ですから、最後までお話聞いてくれる? 父さまと母さまが結婚するまでのお話しを」
「うん! 聞きたい! 聞きたい‼︎」
「僕も聞きたいです」
「ウフフ、それでは……もうちょっと付き合ってね」
僕達の返事を受け取って、嬉しそうに話を続けてくれる母さま。その後……父さまと母さまの「恋」はどんな風に実ったのだろう?




