18−55 朽ちゆく恐怖と苦痛
チョコレートケーキの賄賂(予定)効果が功を奏し、今度はモジモジと物欲しげな顔になるルシエル。こうも腹ペコ天使様加減を発揮されると、対外的にも心配になっちまうが。これは近くに俺がいるが故の甘えん坊モードだと割り切り、その隙に肝心のハミュエルさんの処遇について、話を進めてみる。
「……で、どうする? ここでハミュエルさんの魂を解放する、でいいのかな。竜女帝様」
「えぇ。私は是非に、マスターには自由になって頂きたいのです。もちろん、それが所謂“死”であることには変わりありませんが……それでも、大切な相手が未来永劫苦しまなければならないのであれば、私は解放を採択したいと考えます」
しかし、ハミュエルさんの方は竜女帝様の提案に、フルフルと首を悲しそうに横に振っている。一見、今のままであればハミュエルさんの状況はベストではないにしても、ある意味で問題ないようにも思えるが。実際には肉体が朽ちていく恐怖と苦痛はしっかりと現在進行形で彼女を蝕んでいるとのこと。しかも、デュプリケイトガイアの「悪影響」で、肉体だけは強制的に修復・補填されちまうもんだから……朽ちゆく恐怖と苦痛は、際限なく続いてしまうそうだ。
……なるほど。今この瞬間も、ハミュエルさんは身体中に痛みを感じているんだな。しかも、勝手に再生されちまって、また同じ痛みを経験し直さなければならない、と。そうなると、確かにハミュエルさんの魂をすぐにでも解放してやったほうがいい気がする。
「……大丈夫だ、エスペランザ。これしきの痛み、とっくに慣れた。もう……どこが痛むのかさえ、判断出来ぬほどに感覚も麻痺している。私はここで、自分の世界が朽ちるのを見届けるだけだ」
「しかし……」
そうして俺が壮絶な苦痛に対して、鬱々と考えていると……ハミュエルさんはアッサリと、そんな事を言ってのける。痛みに慣れ切って、麻痺してるだなんて。……生物的にも、結構な段階まで悪化している気がするんだが。却って不味いだろ、それ。
究極時のピークを超えると、生き物は痛みを感じなくなるらしい。ハミュエルさんの「痛みへの麻痺」がその類の感覚の遮断なのかは、俺には分からないが……生き物が痛みを感じなくなるのは、「死ぬと分かり切っていて、痛みを感じる必要性がなくなるから」だとされている。肉食動物に襲われた草食動物が、悲鳴も上げずに粛々と食われていくのは、偏に痛みを感じなくなったからであり……生き物の神経全てが、生きることを断念したからに他ならない。
例えが微妙な気も、しないでもないが。もし、ハミュエルさんの痛みへの麻痺が「生きることを諦めた」ものであるのなら。この空間にある彼女の体は、否応なしに再生されていくと同時に、痛みも再構築されていくけれど……彼女の神経はそれをやり過ごして、生存そのものを諦めちまうまでに麻痺した事を示している。既にそんなレベルの罰を受けていると言うのに……魂を分解された先にあるらしい苦痛を、再度体験させるだなんて。馬鹿げているにも、程がある。
部外者の俺が、あれこれ口を挟むべき内容でもないが。……俺もハミュエルさんの魂は、この場で解放してやった方がいいと思う。
(だとすると。この場合は……ハミュエルさんの懸念事項を、どうにかしてやればいいんだよな……)
ハミュエルさんの懸念事項。それは紛れもなく、彼女に対して「抜け駆けは許さない」等と……尚も自分中心で世界が回っているらしい、残念思考の教皇様その人だろう。であれば、この小生意気な教皇様をどうにかしてやればいいのか?
「だったら、さ。思い切って、ミカ様も一緒に外に出ない? 一応、ティデルが馴染んだ前例もあるし……どうかな? 俺達の家で暮らすというのは」
「はっ……? それはなんの冗談だ、悪魔。私がお前らの家で……暮らす、だと?」
「なっ、何を言っているんだ、ハーヴェン! こいつが私達の契約を取り上げようとしたのを、忘れたのか⁉︎」
「ドウドウ、ルシエル。うん、分かってる、分かってる。こいつはお前達の世界でも罪人であり、かつてハールだった俺を騙した極悪人でもある。俺達の契約を無断で書き換えたりもしたし、驚いたことに大天使様の1人だった裏切り者……と。ここまで、許せない理由が揃ってたら、お前が納得できないのも、よく分かるさ」
「じゃぁ、何故……ハーヴェンはこいつを受け入れようとするんだ? お前がお人好し過ぎるのは、知ってはいたけれど。これはいくら何でも……馬鹿げているにも程があるぞ」
あはは、そうかもなぁ。……なんて、いつも以上にカラカラと笑って見せた後で、こっちはこっちで難物の嫁さんの説得にかかる。もちろん俺だってルシエルの言い分は理解できるし、彼女の反応は真っ当で自然なものだろうとも思う。だけど、ハミュエルさんが「綺麗さっぱり解放される」には、教皇様の処遇について安心させてやらなければならない。
相手が天使様だろうと、堕天使様だろうとも。美味い物を食って、ぐっすり眠って、心ゆくまでのんびりすれば。誰でも否応なしに、ちょっとは丸くなるというもんで。ついでに、誰かの憂いを軽くできるんなら、俺は喜んで料理の腕を振るっちゃう。
「……私もさっきの話にあった、ケーキとやらを食べてみたいぞ」
「お?」
そうして、妙にピリピリした2名様を見つめていれば。意外や意外、堕天使様の方が妙な切り口で折れてくる。おやおや? 教皇様もお菓子には目がないタイプ? そうなのか? そうなんだな?
「考えたら、今の今まで、私は食事というものを経験したことがない。魔力さえあれば、生きていけると思っていたが……何でも、食事を摂れば魔力を得ることができるそうだな?」
「うん、それは間違いないな」
「……この際だ。もう、変な虚勢を張るのも、やめておこうか。……恥ずかしながら、今の私は魔力不足に陥っている。そして、人間界でうまく魔力を補填できずにおってな。……できることなら、効率よく魔力を回復できる手段があれば、教えて欲しいのだ。それで……」
「……それで、また世界に災厄をもたらそうというのか?」
「いや、どうだろうな? ……正直なところ、私は既に……自分がどうしたいのかさえ、分からなくなっている。……まずは、そうだな。……こうして落ち延びた意義を見つけたい」
「……そう、か。だが……言っておくが、ハーヴェンのケーキは気休めのために、作られるものじゃないんだ。えっと、その……ハーヴェンのおやつは私の……。うぐっ……ハ、ハーヴェン! お前なら、私の言わんとしている事も分かっているんだろうから、代わりに説明してくれ!」
……なんだよ、その突拍子もない照れ隠しは。そんな風にお顔を真っ赤にされたら、照れてるのか、怒っているのか分からないじゃないか。と言うか……これ、俺が怒られなきゃいけない場面か? 絶対に違うよな?
「へいへい。もぅ〜……ルシエルさんは本当に素直じゃないんだからぁ。要するに、だ。俺のケーキは“嫁さんのため”が理由の8割を占めててな。それでなくても、ルシエルは食いしん坊の腹ペコ天使様なもんだから。俺の愛情たっぷりのデザートを横取りされるのが、我慢ならないんだよ」
ほれ、言ってやったぞ? どうどう? ルシエルさん的にもパーフェクトな回答だろ、今のは。って……アレ?
「……誰が、食いしん坊の腹ペコ天使だって?」
「うん? もちろん、ルシエルのことだけど?」
「悪かったな。ぺったんこでちびっちゃい割には、食欲旺盛で」
「へっ? ……ルシエル、俺は何もそこまでは言っていないぞ? えっと……?」
「べ、別に私だって、そこまで欲張りじゃないもん! ハーヴェンのバカ! 悪魔ッ! そんでもって……こんの、ピーマン男ッ‼︎」
「ふベッ……⁉︎」
愛の左ストレートが、俺の腹に炸裂した、その瞬間。どこもかしこも真っ白なはずの視界に、キラキラと綺麗なお星様が飛んでいく。あぁ……俺、絞め殺される前に、張り倒される運命だったんだな。本当に……うちの大天使様は小粒な割には、凶暴なんだから……。




