17−3 ヴァルプルギスの鼓動(2)
異国の王妃に充てがわれた空間は、捕虜の部屋にしては随分と豪奢だ。それでも、囚われの身である事には変わりないし、何よりも心貴妃は我が子を失った悲しみから立ち直ることができないまま、打ち拉がれたように俯いている。その傷心ぶりは傍で見ているだけで……見るものの同情を誘わずにはいられない程に儚く、美しいものだった。
「……ご気分はいかがかな?」
「我感觉不舒服(気分が優れぬ)」
クージェに連れてこられてから、既に1ヶ月が過ぎている。身の回りの世話はされるがままだった怠け者ではあるが、聡明で賢い彼女は適応力もそれなりに高い。そのため、多少の言葉は分かるようになったし、返答もゴラニアの言葉でしようと思えばできるのだが。……彼女は頑なに故郷の言葉を捨てようとはしない。しかも、食事も最低限しか摂ろうとせず、労しいほどに窶れていくのだから……彼女の虜になりつつあるクージェ帝王は必要以上に気を揉み続けていた。
「何か食べたいものがあったら、言いなさい。できる限り、用意するから」
「……」
食べたいもの、か。こんな状況で何を世迷言を言っているのだろう。子供を殺され、故郷を失って……生き延びる気力すら持てない自分に、そんなものがあるはずなかろうに。何を馬鹿馬鹿しいことを。
……と、内心で毒づきながらも、実際には心貴妃は復讐のためだけに生き延びることを考えている。これ以上は生きていたいとも思わないし、故郷に帰ることも叶わないだろう。であれば……最期の散り際くらい、故郷の残り香を存分に撒き散らしても良いではないか。
「想吃新鲜的茘枝(瑞々しいライチが食べたい)」
「……? うむ? 今、彼女は何と申したのだ?」
「新鮮なライチが食べたいとおっしゃっていますよ」
「……ライチ……?」
通訳の口から出た聴き慣れない食物について、慌ててコソコソとクージェ帝王が尋ねれば。それなりに優秀らしい通訳がライチについて、ヒソヒソと説明し始める。そんな彼の説明によると、心貴妃が望むその食物はオリエント原産の果物とかで……クージェでは当然ながら、手に入らない。そのため、否応なしにバンリから調達することになるのだが……。
「……ライチは水分量が多い果物ですので痛みが早く、保存も難しい部分があります。新鮮な状態のライチをクージェで食すのは、ほぼ不可能かと……」
「う、うむ……。なるほど……。おそらく、彼女は余を試しておるのだろうな。……捕虜とは言え、彼女は巫術の腕前も一流だと聞く。是非その望みを叶えて、秘術ごと我が物にしたい」
それでなくても、心貴妃の美しさは別格だ。クージェ帝王の妃も国内一の美人と名高い女性ではあったが……彼女を前にすれば、妻の美しささえ中途半端に見えて物足りなくなるのだから、帝王も相当に薄情者である。
睨むようにしながら、こちらを見つめる彼女の視線はどこまでも気高く、鮮烈。心身ともに弱っていても、内から滲み出る力強い存在感は霞むことを知らぬ。クージェでは理想的な唇の色とされる桃色よりも、更に鮮やかな真紅の口元はエキゾチックで妖艶な色香を余すことなく振り撒いている。そして真っ赤な羽を纏った鳳凰の如く、艶やかな姿は体の奥底から感情を熱らせるかのように……クージェ帝王の心を掴んで離さなかった。
その日以来、美しい捕虜の願いを叶えるため、クージェ帝王は新鮮なライチを用意するべく奔走することとなる。体を弱らせている心貴妃に、腐りかけている果物を食させるわけにはいかない。まして、彼女自身もわざわざ「新鮮な」と注釈を入れている時点で、傷んだライチを所望するはずもない。しかし……どんなに急いでも、バンリからライチを運ぶのには5日もかかるのだ。その上、悪いことにライチの旬は初夏から夏。幸いにも季節自体は合ってはいたものの……当然ながら、降水量も気温も高い時期の航海はライチという繊細な果物には厳しいものがあった。
「どうすればいいのだ⁉︎ 新鮮なライチを用意するには……どうすれば……?」
「おや……お悩みですか、帝王よ。もしよろしければ、お知恵を貸しましょうか?」
「あ、貴方様は……!」
悩み、悶えるクージェ帝王の前に現れたのは明らかに人間ではない、遥かなる高次の存在。その彼女こそ、クージェに東方の大国・バンリを圧倒する力を授けた張本人ではあるが……クージェ帝王にはその正体を知る術はなかった。しかし、現実に有り余る戦果をもたらした勝利の女神とも言うべき彼女に、クージェ帝王はただただ平伏しては助力を乞う。
どうしても手に入れたい秘術と貴妃とを我が物にするため。勝利の余韻で麻痺した彼の頭の中では、既に渦中の美女を腕に抱いた自分の姿が再生されては、野心に火を付ける。……それは本来、冷静で知謀に優れていたはずのクージェ帝王の腐敗そのもの。そして……彼にしてみれば、ただただ破滅への第一歩に他ならなかった。
***
「……当時のクージェには既に、得体の知れない何者かが巣食っていました。私も噂でしか聞き及んでいませんが……例の通訳から聞き出したところによると、クージェに相当の魔法技術をもたらした相手であったことは間違いないようです」
得体の知れない何かと言いつつも、コーデリアは薄々その正体に心当たりがあるらしい。その辺りは流石に記憶を完全に取り戻した追憶越えの悪魔の強みなんだろうが……きっと、色女の方も相当に苦労したんだろう。しばらく、辛そうな顔をした後に、回り回って故郷を滅した相手かも知れない「クージェの勝利の女神」について、ぽつりぽつりと彼女なりの予想を語り出す。
「その辺りはそれこそ、ダンタリオン様にお伺いした話でございますが。クージェは予てから、魔術研究が煮詰まると、悪魔研究に結びつける癖があったようですね。魔法技術の興隆の影に悪魔の存在があった事も、多かれ少なかれあったそうですし……実際に私も悪魔になってから、ヴァイヤー家に知識の一端を授けたのも事実です。しかし……クージェにバンリを屈服させる術も、ライチをわずか半日で実らせる術も……悪魔が授けたにしては、あまりに綺麗すぎるものでした」
「綺麗過ぎる?」
「えぇ。私はバンリはクージェにではなく、“天罰を受けて”敗戦したと思っております。無論、その口上はバンリ側の負け惜しみでもございましょう。しかし今思えば、私が船上から見上げた空を切り裂く光は……明らかに光魔法のそれでした。……私は既に捕虜としてバンリを離れていたので、巻き込まれずに済みましたが。空を光で満たす輝きはルシフェル様がお使いだった、アポカリプスの閃光によく似ていたかと。そんな光の束がトドメとばかりに故郷に降り注ぐのを……私はただ、呆然と見つめることしかできなかったのです」
自分の故郷を焼き尽くす煌めきだというのに、当時のコーデリアには憎いはずの純白の光を「美しい」とさえ、思えたそうだ。
……純白の光、ね。俺としても、玉座を奪われた時に散々浴びせられた光の色くらいは覚えている。絶対終末とかって呼ばれるらしい光属性最強の攻撃魔法は、威力も冗談抜きで残酷なクセに……見た目だけはまぁまぁお綺麗なもんだから、悪魔としては癪に障ることこの上ない。
「だとすると、その得体の知れないナントカさんは天使だってことか?」
「天使に近しい何かだとは思いますが……ただ、リッテルを前にすると、その限りではないような気もします。彼女は常にクージェに居座っては、クージェ帝王を手玉に取っておりました。当時はまだまだ魔力が潤沢だったとは言え、天使が長時間人間界に降臨したままなのは少々、不可解です。それに……私が捕虜としてクージェに捕らえられたのはおそらく、彼女の差し金でしょう。彼女には、私の巫術を使って呼び戻したい相手がいたのではないかと」
「呼び戻す……ですか? となると、コーデリアさんの巫術は蘇生魔法の一種なのでしょうか?」
「いいえ? そんな大それたものではありません。……私の使う巫術は誰かを復活させる魔術ではございませんよ。ただ……」
「ただ?」
「特定の魂を一時的に口寄せしては、死者との会話を可能にします。しかし、口寄せは一時的に魂を1つの体に2つ宿す行為なので、術者の肉体への負担が大きいのです。ですから……疲れることが何よりも嫌いだった私は、茘枝を使って特殊な香を練る術を獲得しておりましてね。そして……その香の名を、反魂香と申します」
そこまで説明すると同時に、やや意地悪い様子で笑い始めるコーデリアだけど。もしかして……彼女がライチを所望したのって、好物だったからじゃなかったってことか? 多分、これ……。
(クージェにドッキリを仕掛けるために、ライチを所望した……ってことだよな……?)
なんか……妙に薄気味悪いと同時に、そんな事を言った口でライチを美味しそうにお召し上がりになるコーデリアが、ちょっと恐ろしい。そして、リッテルよ。お前はどうして平然としていられるんだ。そんな話を聞いても尚、無遠慮にライチを食える神経が俺には分からん。
(しかし……その反魂香とやらは、ある意味で画期的なお香であることは間違いない、か)
……とりあえず、得体の知れない俺の恐怖心と嫁さんの図々しさはさておいて。確か……俺が知る限りでは、こっち側には狙った魂を呼び出せる魔法はなかったように思う。蘇生魔法の中には魂もセットで呼び戻せるものもあったとは思うが、それだって肉体っていう器側が残っていることが前提だった気がする。だとすると……。
「……それって要するに、例の魔法道具は完成には反魂香とやらが必要だったってことか?」
「流石、マモン様。勘の鋭さも申し分ございませんね。概ね、その予想は合っておりましょう」
「概ね? ……って事は、微妙に違うんだな?」
俺が不可思議と首を傾げれば、こちらさんはとっても素直でお優しいから助かる。さして偉ぶることもなく、話をしてくれる配下の従順さに、ベルフェゴールがとっても羨ましいんだが。……しかし、そんな彼女が語り出した続きは俺の予想よりもちょっぴり、複雑な裏事情込みの内容で。ヴァイヤーさん一家の執念をまざまざと感じさせるものだった。