2−35 プロポーズとして受け取っていいのか?
3日ぶりらしい、愛しの我が家。夜の帳がもうすぐ降りるかという、黄昏時……分厚い雲の向こうは、橙色と紫色が互いを染め合うような不思議な色をしていた。この様子だと、今夜あたりは雨になりそうだな。
そんなことを考えながら、まずキッチンに向かうと……作り置きが入っていた鍋が綺麗に洗われて、片付いている。どうやら、中身は随分前に食べ切られていたらしい。……鍋にはうっすらと、埃が積もっていた。床も随分と土埃に塗れているし、明日は本腰を入れて掃除しないといけないな。やけに静かなのを感じる限り、子供達はゲルニカの所だろうか。……ルシエルはどうしているかな。
そんな静まり返った我が家の様子を窺いながら、1階の奥にある寝室を覗くと……窓から不機嫌な色が差し込むベッドの上には、4枚の翼に包まれた天使が丸くなって眠っている。彼女は俺の枕を抱きしめ、何かに怯えるような寝顔をしていて。人間界で翼を出しっぱなしの時点で、精神的にも相当に余裕がないのだろう。目元は赤く腫れており、心なしか以前より少し窶れたように見える。それでも……そろそろ夜になろうかという夕焼けに照らされて、キラキラ光る翼は、この世のものとは思えない程に、綺麗だった。
「……」
思わず、翼に触れる。そう言えば、彼女の翼に触れたことなんて、一度もなかったような気がする。そうして指先に伝わってくるのは、明らかに初体験の感覚。軽やかな感触、心なしかヒンヤリとした温もり。触れるだけで、何かを浄化されるような清々しさ……。
「……うっ」
あっ、もしかして……翼って感覚が敏感だったりするのか? 少し触れただけなのに、くすぐったいと言いたげに彼女が反応し、目を開いた。綺麗な深い青。いつか自分を見上げていた、あの子の瞳に重なる綺麗な綺麗な青……。どこまでも青い瞳がようやく、俺の姿をしっかり捉えた。
「……ハーヴェン?」
「おぅ。悪りぃ、ちょっと思った以上に時間がかかっちまった。……大丈夫だったか?」
「……」
朧げな表情で彼女は翼を1つはためかせると、ベッドの中央にちょこんと座りなおす。夕日の逆光を浴びながら、こちらを見つめる彼女は……何故か、物の見事に裸らしい。
「いくら、ここが町はずれの森の中だからって……1階の部屋で、裸は無防備にも程があるんじゃないか?」
「……」
「まぁ、いいや。とりあえず、腹減ってないか? 何か食いたいものがあったら、作ってやるから……言ってみろよ」
「何か、暖かいものが食べたい。でも、その前に……抱きしめて……!」
そこまで言いかけたところで、青い瞳から大粒の涙が溢れる。
「……寂しかった。もしかしたら……もう会えないんじゃないかと、今までの当たり前がずっとなくなってしまうんじゃないかと……この先、二度と今までのお礼も言えなくなってしまうのではないかと……本当は……本当は……」
子供のように泣きじゃくる様子はいつもの冷静な主人のそれではなく、1人の弱々しい少女のそれでしかなかった。まさか……あのルシエルがここまで追い込まれているなんて。
「こんなになるまで、1人にしてごめんな。……でも、もう大丈夫だ。これからはずっと……一緒にいるから。だから、そんなに悲しそうに泣くなよ……」
そこまで言ってやると、涙をこぼしながら今度は彼女の方から抱きついてくる。え〜と……。ルシエルの方から抱きついてくるのは……今日が初めてじゃないだろうか。
***
「……ベルゼブブから伝言を聞いたんだけど。最後の部分はお前から聞け……ってはぐらかされちまった。……なぁ、“私も”の先、教えてくれないかな?」
「……」
「どした? 忘れちゃったのか?」
「……いや、今更ながら必死すぎて恥ずかしくて。ちょっと今は……」
「ふ〜ん? でも、大事なことじゃなかったのか?」
「大事なこと……では、確かにあるのだが……」
気がつけば、ルシエルの口調がいつもの調子に戻っている。若干、歯切れが悪いままではあるものの、どうやらサービスタイムは終了してしまったらしい。……なんだか残念だ。
「そか。それじゃ、教えてくれる気になったら教えてくれよ。……で、ベルゼブブから試練達成のご褒美を貰ってな。お前の分もあるから、受け取ってくれるか?」
「私の分……?」
無造作にベッドの下に放り出したスラックスのポケットから、かの指輪を取り出す。このまま……しれっと「定位置」に嵌めれば問題ない……だろうか。
「……一応、魔力とシンクロ率を上げる魔法道具らしいんだが。ペアになっていて、互いに身につけていないと効果がないそうで……」
「指輪……か?」
「あぁ。それで……左手、借りていいか?」
「左手を出せばいいのか?」
俺の言葉に、何の疑いもなく左手を差し出すルシエル。そして……何の説明もなく、薬指に指輪を滑らせる俺。流石にベルゼブブ製の魔法道具だけあって、滑らせた瞬間に彼女の指の細さに合わせて、輪がピッタリと縮小する。
「……綺麗、だな」
「だろ? で、俺はこっち……っと」
……そうか。天使にも結婚とかいう概念はないから……ルシエルも「左手の薬指」が指輪を嵌める上で、何を意味する場所か分からないのか。何だか、騙しているようでバツが悪い。やっぱり……正直に話した方がいいよな。
「あのさ……」
「……これはプロポーズとして受け取っていいのか?」
「あ、えっと?」
知ってた? うわ、もしかして……ルシエルさんも「左手の薬指」の意味、ご存知だった⁇
「どうなんだ?」
「……お、仰る通りです……。もし良ければ、正式に俺のお嫁さんになってくれないかな、なんて……思ってたりして……」
「……」
あ、ちょっと怒ってる? もしかして、これ……ダメなパターン?
「ルシエル、まだ早いとかだったりしたら、別に……えぇと……」
「……私でいいんだろうか?」
「はい?」
「見ての通り、胸はぺったんこだし、知っての通り……お前の子供を産むこともできない。素直じゃないし、ワガママだし……。練習したけど、未だに笑うこともできないし……」
「ル、ルシエルさん?」
練習? 笑うために、練習なんか……してたの⁇
「しかも……今までお前が苦しんでいるのにも、気づけなかった。きっと、これからも……沢山、嫌な思いをさせてしまうのではないかと思う。……それでも、私でいいのだろうか?」
「俺はずっとそばにいて、お前と一緒にいろんな時間を過ごしたい。きっと、それこそ長い年月を過ごすことになると思う。それでも……もし、これからも一緒にいてくれるつもりなら……俺のお嫁さんになってくれないだろうか」
「……」
彼女の返事はない。だけど……代わりに柔らかな口づけを貰って、彼女の答えを確かに受け取る。そうして……心なしか、暗闇の中で彼女が優しく微笑んでくれている気がした。
他にも色々と話さなければいけないことがあるのだけど。今はそれよりも、幸せを噛みしめる方が先だ。今はただ……何もかもを忘れて、ひたすら彼女を抱きしめていたかった。