14−38 痴れ者のフルネーム
「お呼びですか、ハインリヒ様。私に何か、お手伝いできることでも?」
「そうなのです、レチア。あなたに折り入って、相談したい事がございまして」
エルノアに彼の興味を奪われていたと思い込んでは、氷点下の嫉妬心を燃やしていたフュードレチアにとって、ハインリヒの懇願は何よりも心地いい。想定外の懽楽に酔いしれては、愛しいと錯覚した思い人の言葉に耳を傾ける。
一方で、顔には柔和な笑顔を貼り付けつつも……内心ではフュードレチアを見下しては、馬鹿にしているハインリヒ。これだから恋する乙女は面倒なのだと、ノクエルをそれとなく焚きつけた時の悪巧みも頭の片隅で思い出しながら、わざとらしく肩を揺らす。
「……例のエルノアですが、このままだと非常に厄介な事になりそうなのです」
「あの子が厄介者なのは生まれた時からですわ。今に始まった事ではありません。無害な顔をしていても、いるだけで周囲から必要以上の遠慮を引き出しては、迷惑をかけるだけなのですから。あぁ、嫌だ嫌だ。本当に、母娘揃って誰かの幸せを奪っていくのですもの。その穢らわしさは、救いようがありませんわね」
独断で濁ったフュードレチアの解説を聞きながら、表面だけは同意を取り繕って相打ちをするものの。ハインリヒにしてみれば、それは不憫な被害妄想でしかない。それでも、彼女の精神状態こそが有用なのだとほくそ笑んでは、ここぞとばかりに相談内容を切り出す。
「エルノアがあの場所にいる限り、レプリカは直接的な捕食をしようとはしません。一応、各拠点の地下にも餌場を用意してはいますが……ゴミ捨て場も兼ねているもので。レプリカも末端にまでは神経を巡らせていないと見えて、本能のままに餌を漁ってくれるのはいいものの……なにぶん、ゴミから補給できる魔力はわずかな上に、本体から離れているので餌を補充しても効果はすぐには現れません。ですから、ここはやはりエルノアをきちんと覚醒させてこちらに引き込み……彼女からレプリカにやる気を出すよう、言ってもらうしかないでしょう」
それでなくても、ドラグニールとアークノアが息を吹き返して、生長のペースが落ちているのだ。このまま魔力も補充できないようでは、生長も頓挫して折角のユグドラシルの苗床も腐り切ってしまう。今、レプリカが根を下ろしているのは、かつてのユグドラシルの遺骸の上。しかし、残された苗床は永久に機能する訳ではない。そんな彼らの焦りを知ってか知らずか、エルノアはマナツリー・レプリカを「ユグドラシル」と呼んでは彼女の意思を汲み取り始めたが……もし、その呼び名が「彼女」自身が名乗ったものであるのなら。状況は非常に芳しくないと、言わざるを得ないだろう。
「……エルノアはレプリカをユグドラシルと呼んでいました。それは要するに、マナの化石から復元したレプリカが苗床の方に逆に吸収され始めているという事を示唆しています。その事からするに、ユグドラシルの意思はまだ残っているのでしょう。しかし、その事実は我々にとって非常に好ましくありません。折角、自覚も魔力と一緒に生き血を啜らせる事で穢してきたというのに、神聖性ごと息を吹き返されては……新しい使者を宿す事もできず、延いては新しい神を作り出す事も叶わないのですから」
霊樹が本当の意味で役目を全うするには、使者とその霊樹に集う命との交信が必要となる。霊樹の本来の役目……それは魔界から吐き出される負のエネルギーを浄化し、ゴラニアの地に住う者全てを健やかに保つ事。そして、裁量を見極め、世界の魔力の均衡を保つ事。霊樹は自身に宿った魂の一部を手元に残しては集合体とし、総意を背負った使者を作り出して、自身が見定めた相手に遣わしては……状況を探ると同時に、宣託と恩恵とを授けてきたのだった。
そんな使命と一緒に神界から齎された5本の霊樹の中にあって、中心でもあるユグドラシルは全ての命を慰める役割を担っていた。精霊が死を迎えた時はその身を柔らかな大地に抱き、自身の糧とする事で……広大なゴラニアに清らかな魔力を繁茂させてきたのだが。命の心に負の鼓動が重なり始めると、その糧には少しずつ毒が混じるようになっていった。そうして、許容量がとうとう限界を迎えた時。ユグドラシルは蓄積された毒を浄化することもできずに、内部から爛れ、樹皮を溶かして……やがて自らの熱で身を焦がしていった。
「燃え滓に成り果てたユグドラシルは、負の感情という毒に塗れた存在でしかありませんでした。しかし、いくら役目を放棄しているとは言え、腐っても霊樹は霊樹。新しい霊樹の苗床として、再活用できるという特性は失っていません。しかし、何故かユグドラシルの大元も息を吹き返してしまったみたいですね。その原因は今のところ、分かりかねますけど。何れにしても、この場合はエルノアにも協力してもらうより他にないでしょう」
「エルノアに協力を仰ぐ……ですって? ちょっと待ってください、ハインリヒ様。それは要するに……あの子をこちらのメンバーとして迎えるという事ですか⁉︎ 私への相談って、まさか、そんなことなのでしょうか?」
ハインリヒに呼ばれてウキウキしていたのも、束の間。頼み事がエルノアを生かす方向性に向いている事を察知しては、急激に怒りを沸騰させる氷の女王。その沸点の低さはどうにかならないものかと、ハインリヒも思うものの……それでも、彼女を辛抱強く宥めては話の概要を切り出す。
「まさか、あんな子供を引き入れたところで役に立つとも思えません。あなたにお願いしたいのはあくまで、エルノア……いいえ、彼女を拠り所にしている古代の女神・クシヒメを覚醒させる事です。おそらく、クシヒメがどんな存在かを知っていたドラグニールが敢えて、竜女帝の血筋に封印したものと思われます。ですから、この場合はクシヒメの魂の方を抽出しなければなりません。おそらく……あの子の精神年齢が異常に低いのは、1つの体に魂を2つ乗せているのが原因でしょう」
「あぁ、そういう事でしたの……。言われれば確かに、あの子は魔法の扱いが器用な割には、子供っぽさが際立っていたというか。アレの母親も子供っぽいせいだと、思ってもいましたけど。まぁ、今はそんな事はどうでもいいでしょうか。でしたら……具体的に、どうすればよろしいのですか?」
「簡単ですよ。エルノアを絶望させればいいのです。心を壊して、自我を放棄させて……あの子の心が封印している女神の魂を引き摺り出す。ですから……」
「ウフフ……アッハハハハ! そういう事……そういう事ですのね! でしたら、お任せくださいな。それは私にも、願ったり叶ったりのお役目ですわ! でしたら……クククク……! 早速、取り掛かりましょうか……?」
ハインリヒが終いまで言い切る前に話の8割を飲み込んで、意気揚々とレプリカの膝元へ戻っていくフュードレチア。醜い復讐心を背追い込んだ後ろ姿を見送りながら……やれやれとため息をつく。
(そんなに簡単だったら、苦労しません。相手は幼くとも、心の扱いに長けた竜女帝。それでなくても、魂の動きが想定内で収まった事は殆どありません。全く……人の話は最後まで聞くものですよ)
精霊を作って、霊樹に捧げて……都合の良い神様を作り上げる。言葉にしてみるだけでも、無理難題だらけの計画なのに。いくら細心の注意を払っても、想定外と予想外が多すぎて上手くいかないことも多すぎる。特に、魔禍から精霊を作るのはさて置き、悪魔を作り出すのは特別な魂こそが必要なのだと悟っては……未だに、ハインリヒは自分を完成品として見定められないままだ。
出来損ないの名前はとうに捨てて、ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパを装ってみても。乗っている魂は悪魔のものだが、体自体は人間のものでしかない。それは彼を観察対象として知識を求める代わりに、魂をも捧げてきた研究者の名前であり、悪魔との契約を望んだ痴れ者のフルネームでもあった。彼のファミリーネームが悪魔研究家として著名だったのは、後から知ったことだったが……。それでも、魂ごと肉体を譲渡するという紋章付きの契約のおかげで、彼の魂を食らっても、尚。肉体の方はハインリヒの仮宿として、きちんと機能していた。
しかし、人間の魔力の器はあまりに小さい。そのせいで、ハインリヒは魔力の補給にいつも苦労している。魔力不足の枷のおかげで、魔法の効率的な使い方を習得するには至ったものの……それは悪魔が最も嫌う努力という名の徒労であり、無様な時間の使い方でしかない。自分が「出来損ない」だったが故に、きちんと作られた真祖であればしなくていいはずの努力をさせられたと思うと、悔しいではないか。しかも……何かに縋るように、気づけば「自分の父親」にそっくりな顔を作り上げていたのも、いよいよ滑稽だ。
「……遅れまして申し訳ござません、ハインリヒ様」
振り払っても、振り払っても……自分の中に居座る憂鬱を鎮めるのに苦労しているハインリヒの背に、今度は嗄れた老人の声が掛かる。その呼び声に、気持ちを切り替えるのにも丁度良いと、努めて「いつも通り」を気取ってみるが。内心では平常心でさえも無理して取り繕っているのが、情けない。
「いいえ。大丈夫ですよ、コランド。忙しい時に呼び出してしまって、申し訳ありませんね。しかし……どうですか、最近の調子は。体調はどんな感じです?」
あまり良くありませんね……と疲れたようにハインリヒの問いに答えるのは、純白のローブを纏った老神父、コランド・プランシー。悔しさと虚しさを思い出しては、気分を落ち込ませていたハインリヒにとって、彼の到着のタイミングは絶妙でもあるが。しかし、こちらもどこかの誰かさんにソックリな「出来損ない」を認めては……何故かフュードレチアの失敗も目に浮かぶようで、ハインリヒは尚も首も振らずにはいられないのだった。




