1−5 空腹は最高のスパイス
暖かい昼下がり。仕込みと同時に焼いておいたクッキーとパンを袋に詰めて、町に繰り出す準備をしていると……お出かけの空気を読み取ったのだろう。エルノアが不思議そうに、行き先を尋ねてくる。
「ハーヴェン、どこに行くの?」
「まぁ、ちょっとな。おすそ分けに行くんだよ」
「おすそ分け?」
「そ。エルノアも来るかい?」
「うん、行く!」
朝食を用意したことで、すっかり懐かれたらしい。ちょこちょこと後をついて来る様子は、まるで人懐っこい子犬のようだ。悪い気はしないが、彼女が町で感じるだろう空気のことを考えると、ちょっと切ない。と言うのも……これから出かける町の状態は、あまりいいものではないからだ。
「……ハーヴェン、どうしたの? 何か、悲しいことがあるの?」
「え?」
「……何だか、切なそうな顔をしたみたいだったから。ちょっと、気になったの」
「俺、そんな顔してた? ……まぁ、いいや。町に着くまでに、人間界のことをちょっと話しておこうな。人間界の時間で、だいたい300年前くらいのことになるらしい。人間は魔力を加工して応用する技術で、本来は使わなくていいところまでに魔力を使って消費しまくっていた。要するに、努力もせず、魔力のおかげで可笑しく楽しく暮らしていたんだ。だけどな、魔力は無限じゃない。所定の方法で還元できなければ、毒として溜まっていって……人間達は魔力を消費し続けて、一線を超えちまったのさ。気付いた時には、魔力はもうどうすることもできないレベルまで汚染されていて……魔力を吐き出していた霊樹がとうとう、ダウンしちまった」
「汚染って、瘴気のこと?」
「そんなもんだな。ただ、人間界のそれはそんなに生易しいものじゃないぞ。溜まりすぎた毒は、恨みや憎しみなんかも溜め込む性質があってな。荒んだ世界に充満した人間の悪い感情を吸って、意思を持つようになって……夜になると、生き物を襲うものが出てきた」
「それ……もしかして、魔禍のこと?」
「お、知ってるんだ。まさか、竜界にもいたのか?」
「ううん、そんなのいないよ。ただね、母さまが読んでくれた絵本に出てきたことがあるの。合体して大きくなった黒い怪物を、勇者さまが倒すお話なの!」
……勇者さま、か。おとぎ話にはよく出てくる登場人物だろうが、俺はあまり勇者というものは好きじゃない。得てして勇者は人間側からすれば英雄かもしれないが、討伐される側からすればただの殺戮者でしかない事も多くて……とは言え、それはどこまでも「悪魔側の理屈」だろう。少なくとも、この子が読んでもらった絵本の中の勇者さまには、関係ないはずだ。
「ふ〜ん。でも、黒い怪物が魔禍だって、よく分かったね?」
「それは父さまが教えてくれたの! 絵本には、怪物が何なのかは書いていなかったの。でも、父さまに聞いたら多分、魔禍だろうって。魔禍っていうのは、魔力が悪い気持ちを吸って魔物化したモノなんだって」
「そっか。君の父さまは随分、物知りなんだな」
「父さまは魔力を調整する、大事なお仕事をしているの。竜界以外のことも、たくさん知っているのよ。知らないことはないんだから! それで、とーっても強いの!」
そう言って、誇らしげに小さな胸を張るエルノアの様子が少しおかしく、可愛らしい。
そんな可愛らしい女の子と世間話をしながらしばらく歩くと、タルルトの壁が見えてくる。かつては壁なんてなかったらしいが、今の人間界は物騒だ。
どんな街の入り口にも検閲が設けられ、昼間出入りする者を確認している。因みに、夜間はどんな理由があろうとも、誰であろうとも出入りは許されない。魔禍は基本的に建物の中に入り込めない性質があるとは言え、壁の中は多少安全でも、外をうろつくのは最低限にしたほうがいい。
夜の外出は魔法を失った人間にとって、退治方法も確立していない化け物に食べられてしまう危険が大なり小なり、常に付き纏う。そのため夜間に出歩くようなバカはまずいないし、どうしても夜に移動しなければいけない場合は“撒き餌”を用意するのが、暗黙の了解になっているらしいが……俺としては、そんな事をしてまで急を要する用事があるのなら、夜になる前に済ませておくか、せめて次の早朝にしろよと言いたい。
「よう! 今日も孤児院に行きたいんだが、通ってもいいか?」
「……飽きもせずに、ようこそ。お前さんなら、通って構わんよ……おや? そっちのお嬢さんは? 初顔みたいだが?」
「あぁ、昨日ツレが仕事帰りに拾ってきた。迷子みたいだから、親が見つかるまで面倒みることになってな」
「……物好きだねぇ。まぁ、いいや。夕方までには用事を済ませるんだぞ」
「分かっているよ」
検閲で門番とそんなやりとりを済ませて、町の大通りを進んでいると。さっきまで楽しそうにしていたエルノアの元気がない事に気づく。俺のエプロンの端を小さな手で握りしめ、はぐれまいとしているようだ。
「エルノア、どうした」
「……さっきのおじちゃん、嫌い」
「おじちゃん? ……あぁ、門番のことか?」
「私のこと、珍しい……のかな? モヤっとした感じの気持ちが……なんか、悪いこと考えている感じの。……うまく言えないんだけど、とにかく、あのおじちゃん嫌い」
先ほどから気にはなっていたが……エルノアは周囲の空気に殊の外、敏感なようだ。他人のちょっとした不安にも反応していることから、精霊だからというよりは、エルノア個人の感受性が高いと判断した方が適切だろう。
「そうか。だったら、俺から離れるんじゃないぞ。町の中とは言え、人間界は物騒だからな」
「……うん」
……こいつは迂闊だったな。エルノアの外見は人間に「化けている」のではなく、精霊としての「理性」の姿、つまり便宜上人型をしているに過ぎないことを、すっかり忘れていた。生えている角や尻尾を見れば、この子が普通の人間ではないことくらいは、すぐに分かってしまう。
人間界の街は表面上はまだ穏やかに見えるが、1歩裏側に踏み込めば……「金になりそうなもの」は物だろうが、人だろうが、お構いなく「換金」されて流通している。命ですら、売り物として扱われる世の中だ。そんな世界でエルノアの角や尻尾は、さぞ高価に見えたに違いない。
「お。ここだ、ここ」
そんな後悔をしながら、しばらく歩みを進めると。町外れにあばら屋と言っても差し支えない、貧相な教会が立っている。孤児院と言えば、聞こえはいいが。……実際は「様々な理由で放り出された」子供達が身を寄せている、避難所でしかない。「様々な理由」については、あまり考えないようにしているけれど。五体満足の子供の方が少ないことを考えると、彼らがどんな事情でここに放り出されたのかは大凡、予想はつく。
老神父のプランシーがそんな子供達の面倒を見ているが、生活は極貧状態。庭と思われる場所で野菜や小麦を作って自給自足していても、とても十分な収穫があるとは思えない。実際、この教会を見つけた時にあまりに空腹そうな子供達の様子を見て、俺も心配になって……そこで、彼らなら俺の料理を喜んでくれるかと思って差し入れを恵んだのがきっかけで、通い続けている。ほら、空腹は最高のスパイスって、よく言うだろ?