9−57 確かに寄り添う事
お屋敷中が忙しない様子を見つめながら……母さまの寝室前のソファで、待っているけれど。きっと、立て続けの緊張感に疲れてしまったんだろう。僕の隣でエルと、彼女の膝の上でコンタローがスヤスヤと寝息を立てていた。エルの頭が乗っかっていて、左肩がちょっと重たいけど。母さまの出産が終わったら起こせばいいのだし、今くらいは休ませてあげた方がいいかも知れない。
いよいよ分娩という事で、お城からやって来た大勢のお手伝いさんと、父さまとで母さまのサポートをしているし、僕達にできる事はあまりなかった。最初はタオルを持って来たり、お湯を運んだりなんてこともあったけど、女王様が遣わしてくれたお手伝いさんが来てからは、邪魔にならない様にするのが精一杯だ。
それでも、こうして残っているのは、赤ちゃんに一目会いたいから。特にエルはお姉ちゃんになるんだと張り切っていたし、コンタローも一緒に尻尾を振って楽しみにしているみたいだった。
(生まれるって、どんな感じなんだろう。僕も……同じだったんだろうか)
母さまが出産すると知ってから、その事ばかりをグルグルと考えている。
僕も同じ様に生まれて来たのなら、どうして、お父さんとお母さんがいないんだろう。もちろん、お母さんには会った事はある。だけど、お母さんは他の男の人に夢中で、優しくしてくれた記憶がない。お父さんは仕事に行ったまま帰ってこなかった。でも……長い間家を空けなければいけない程の仕事って、何だったんだろう。僕を……置いてけぼりにしないといけない程に、大事な仕事だったんだろうか。
(僕のお父さんと、お母さん……)
もし生きているとしたら、どこで何をしているんだろう。僕が人間じゃなくなってしまったのを知ったら、何て言うんだろう。置き去りにして済まなかったと、言ってくれるんだろうか。……辛い思いをさせて悪かったと、言ってくれるんだろうか?
そんなことを言われても、何にもならないのは分かっているし、もう後戻りはできないのも分かっている。それに……僕の今は幸せなのだと思う。暖かいベッドで眠れる安らぎ。美味しいご飯をお腹いっぱい食べられる喜び。だけど……その幸せを噛み締めている間も、ポッカリと心に穴が空いているのに気づいて、悲しくなる時がある。何をしても、どう考えても、埋まらない何か。そこに居座っている空っぽが……僕の中を占領している気がして、不安になる。
「……ギノ君、済まないね。こんな時間まで付き合わせて」
「父さま! その、どうですか? 母さまは……」
「うん。いよいよ破水したみたいだから、もうすぐだと思う。本当は私も最後まで付き添ってあげたいのだけど……竜族の出産は男子禁制でね。私も追い出されてしまった」
「そ、そうなんですね……」
寂しそうに言いながら、父さまが僕の横に腰掛けてくる。ちょっと疲れた表情をしているけれど、きっと誰よりも赤ちゃんの誕生を楽しみにしているんだろう。その横顔は、とても嬉しそうで穏やかだ。
「あの……父さま。ここで聞くのも、おかしな事なんですけど……。ちょっと、聞いてもいいでしょうか?」
「うん? 何かな?」
「えっと……生まれてくるって、実際はどういう事なんでしょうか……? 赤ちゃんって……みんな、望まれて生まれてくるんですよね? みんな同じように暖かい場所に……祝福されて生まれてくるんでしょうか?」
僕の質問に少し驚いたみたいだったけど、その意図をすぐに分かってくれたのか……父さまは少し悲しそうな顔をして、静かに僕の質問に答えてくれた。
「そうだね。本来なら、どんな命も望まれて生まれてくるべきなのだと私も思うよ。だけど……悲しい事だが、全てが全て望まれて生まれてくるわけではない事も、1つの現実ではあると思う」
「……やっぱり、そうなんですね……」
「子供は生まれてくる先を選べない。だから、生まれてくる命に対して、親はどんな事があろうとも見捨てず、その子が1人で生きていけるまで、きちんと向き合わなければいけないと思うけれど、それはどこまでも綺麗事でしかないのかも知れない」
どんな理由があろうとも、子供を見捨てる事は絶対にしてはいけない。責任を放棄するのも許されない。父さまは真っ直ぐな眼差しで、呟くけれど。
「だけど……親も生きているんだよ。自分も精一杯、生きていかなければならない。子供のためなら命は惜しくない、それが普通だと言い切る覚悟を持っている親が……どれ程いるのかは、私には分からない」
「……僕の両親は覚悟がなかった、という事なんでしょうか?」
「そうなのかも知れないね。でも……覚悟とは別に、相当の拠ん所なき事情があったのかも知れない。本当はギノ君と一緒にいたかったのに、仕方なく、離れなければいけなかったのかも知れない。その事情を私には窺い知る事もできないが。自分がそれこそ、エルノアやこれから生まれてくる子供を見捨ててしまった時は……ずっと後悔するだろうし、一生罪悪感に苦しむと思う。だから……きっとギノ君のご両親も今頃、後悔しているんじゃないかな」
「僕の両親も……僕の事を覚えていてくれているんでしょうか? もし会えたなら、向こうから……見つけてくれるんでしょうか?」
「どんな姿であろうとも、すぐに気づいてくれると思うよ。血の繋がりのある親子なのだから、簡単に忘れられるものか。でも……ギノ君はもし、ご両親に会えたらば、どうしたい? 自分を置き去りにした事を責めるのかい? 自分を見捨てたと、糾弾するのかい? ギノ君はご両親に、何を聞きたい?」
「僕はただ、生まれてきた瞬間くらいは……僕もちゃんと望まれて生まれてきたんだと、教えて欲しいんです。いらない子供じゃなかったと、認めて欲しいんです。最初くらいは、暖かい場所に迎え入れられたんだと……ただ……」
そこまで言うのがやっとで、情けなくボタボタと膝に雫が落ちる。僕の様子に慌てる事もせずに、父さまが優しく背中を摩ってくれながら……まるで僕に寄り添うように、ポツリポツリと言葉を続ける。
「……実を言えば、私もギノ君と同じ様な境遇だったのかも知れないな」
「えっ?」
「私の両親は所謂、相思相愛ではなくてね。父の一方的な我儘で夫婦になっただけで……私は跡取りとして育てられはしたけど、正直なところ……両親に関して、幸せな思い出はないかな」
「そう、だったんですか?」
「私が言うのも何だが……母は非常に綺麗な人でね。父はそんな母をどうしても手に入れたいと、毎日毎日求婚をしたようだが、何度も何度も断られたらしくて。それでとうとう……彼女の恋人が成人前だったのをいい事に、彼を殺してまで母を奪ったんだ」
「……⁉︎」
父さまのお父さん……つまり、エルのお祖父ちゃんはそんなにも横暴な人だったんだろうか……?
「知っての通り……竜族の婚姻は1度きり、相手も絶対に生涯1人だけだ。その鎖を千切れば、理性を失うという最悪の結果が待っている。どんなに望まない相手であろうとも、掟を破ってまで父と離れる程の覚悟は、最初の頃は母にもなかったらしい。そうして私が生まれたのだけど、母がそんな私を愛してくれる事はなかったように思う」
それじゃぁ、父さまはお母さんにとって、望まれた子供じゃなかったって事なのかな。だけど、更に続く父さまの生い立ちは、僕が想像するよりも悲しくて。……父さまがいかに苦労してきたのかを、まざまざと思い知る。
「……私の子供時代は、あまりに悲惨だったかな。態度が気に入らないと父に殴られ、母は手を差し伸べてくれる事もなかった。だから、子供の頃から回復魔法の勉強を必死にしたのを、未だに思い出す。傷だらけの私を癒してくれる相手は誰1人、いなかったからね。でも……そう考えると、殴られたのも無駄でもなかったと、今なら思えるよ。回復魔法が得意になったのもそれがキッカケだったのだし。魔法をストックできるようになったのも、喋れない程に殴られた時に備えての事だったし……そう考えれば、全てを辛いものだったと片付ける必要はないのかも知れない」
喋れない程の怪我って、どういう事なんだろう……。それなのに、父さまは自分で自分を守れるように、一生懸命に魔法の勉強をしたんだ……。
「そんな事があったんですね……。すみません……僕が変な事を聞いた、ばっかりに……」
「いいんだよ。私の中では、既に風化しつつある記憶でもあるのだし。……全ての境遇を不運だと、片付けるのは容易い。自分は不幸なのだと、被害者になるのも簡単だ。だけど、ギノ君は自分は不運だった、不幸だったと……生き延びた事実を、そんな悲しい理由で、染めるのかい? 生きるということには、多かれ少なかれ、痛みが伴う。その痛みが君自身のものである事は、どこまでも変わらない。誰かが肩代わりしてくれる事も、決してないだろう」
でも、覚えておいて。乗り越えられない痛みに遭遇した時は、自分1人で全てを抱え込む必要もないという事。今の僕には、気持ちを受け止めてくれようとしている相手がいるという事。それもまた、間違いないのだから……と、父さまは優しく微笑む。
「ギノ君が生まれた瞬間がどうだったのかは、私には分からない。そして、引き摺るなとも、忘れてしまえとも言えない。とても無責任な事を言うようだけど、私にはきっと、ギノ君の痛みを本当の意味で理解するのは、難しいだろう。でも……それでも。確かに寄り添う事はできると、自負している。私だけじゃない。マスターやハーヴェン殿に、プランシー殿……コンタロー君やハンナちゃんに、ダウジャ君だっている。みんなみんな、ギノ君が悲しそうに泣いていたら、優しく寄り添ってくれるはずさ。悲しみも痛みも、抱えるためにあるんじゃない。どうしても1人で何かを乗り越えられない時に、差し伸べられる手を掴む事は、恥ずかしい事でも、情けない事でもない。それだけは……どうか忘れないで欲しいんだ」
不思議と僕の中を循環していくように、懇々と父さまの言葉が染み込んでくる。泣く事さえも忘れさせる程に切実で、ただひたすら穏やかな響き。それと同時に頭を優しく撫でてくれる手の暖かさに、僕はただ身震いしかできない。
……そうだ。今の僕は、1人じゃない。その事をしっかり再確認するように涙を袖で拭うと、何かが抜け落ちるように冴えていく。
そうして、妙に澄み渡った視界の先から遠くに……自分の泣き声とは別の声が、確かに聞こえてくる。そうか、この泣き声は……。
「おめでとうございます。お子様は元気な男の子ですよ!」
「あぁ、無事に生まれて何よりです。ありがとうございました。妻も無事でしょうか?」
「えぇ、母子ともに健康ですよ。さぁ、テュカチア様もお待ちです。是非、こちらに」
「でしたら……早速、ご対面といこうかな。ほら、エルノアにコンタロー君! 起きて! 生まれたよ! エルノアはお姉ちゃんになったんだよ? ほら、起きて!」
「あ……えっ! 生まれたの⁉︎」
父さまが一生懸命起こすと、さっきまで僕の肩を枕にしていたとは思えない程に、パッチリと目を開いて頬を赤く染めるエル。そうしてコンタローが膝に乗っているのも忘れて飛び上がるものだから、勢いモフモフが廊下に投げ出された。
「アフッ⁉︎ 何が……起きたでヤンす?」
「あ、ごめん。コンタローが居るの、忘れてた……。あのね! 赤ちゃんが生まれたんだって! 早く見に行こうよ!」
「ほ、本当でヤンすか⁉︎ おめでとうございますでヤンす! もちろん、おいらも……あっ、でも。……おいら、お邪魔していいんでしょうか?」
「もちろん構わないよ。是非、頑張った母さまと……赤ちゃんにみんなで会ってくれると嬉しいな」
妙な遠慮をし始めるコンタローを優しく撫でながら、父さまが嬉しそうに僕達を寝室へ招き入れてくれる。新しい命との対面。確かに存在する暖かい世界。
今日はとっても長い1日だった気がするけれど。確かに生まれる命があるという事、そして……生まれた瞬間は平等じゃなくても、生きていかなければいけない事が分かった気がする。苦しいのは、悲しいのは……決して僕だけじゃない。最初が不幸だったと決めるのはまだ早い気もするし、忘れる事もできない。
毎日はこれからも沢山、続いていく。だとしたら、せめてその毎日くらいは楽しい色で沢山染められるように……少しでも、痛みが和らぐように過ごしたい。
逃げているのかもしれない、目をそらしているのかもしれない。それでも。ここにいる僕に寄り添ってくれる人がいる事も変わらない。それだけは……色褪せない僕の大切な事実なのだから。