1−32 サンクチュアリピース
眼下に映るのは、広大な屋敷。大きな湖の浮島に聳えるそれは……屋敷というよりは、城に近いかもしれない。バハムートは音もなく、そんな「城」の前庭部分に降り立つ。そうして、私達を柔らかな芝の上に下ろして、「理性」の姿に戻って見せた。
「……私の頭がもう少し、座り心地が良ければ良かったのですが……。余計に疲れさせたかもしれませんね」
「いえ、そんな事は……」
「しっかし、随分と大きな屋敷だな? 一体、何人くらいで住んでいるんだ?」
目の前の相手が「規格外」の大物だというのに、気圧される様子もなく、いつもの調子でハーヴェンが尋ねる。流石に無礼なのではと心配したが、バハムートは気にもとめていないらしい。
「私と妻、エルノアの3人暮らしですよ。実際、この屋敷の8割は本棚で埋まっております」
「本……ですか?」
「えぇ。私は女王殿下より魔法書の解読と管理、魔法の指南書の作成を仰せつかっております。……とりあえず、中にどうぞ。大したもてなしも出来ませんが……改めて、色々とお話したいと思います」
彼はそう言って、エルノアを抱えながら器用に扉を開ける。彼に招き入れられた扉の先に広がるのは、落ち着いた色調のエントランス。しっとりとしたマホガニーブラウンの空間には、臙脂色のソファが誂えたように揃えられていた。
「あなた……! お帰りなさいませ……‼︎」
屋敷の主人が帰ってきたことに気づいたらしい、もう1人の家人が出迎える。雰囲気からしても、彼女がバハムートの言う「妻」なのだろう。柔らかな桃色の長い髪に、豊かな睫毛の下に覗く大きなエメラルドグリーンの瞳。バハムートが長身なせいもあって、余計小柄に見えるが……それを差し引いても、儚げな様は佳人と呼ぶに相応しい。おそらく、娘が心配でずっと泣いていたのだろう。大きな目の下は赤く腫れて、うっすらとクマを作っていた。
「……エルノアは無事だよ。こちらの方々が親切にして下さったおかげで、こうして私達の元に帰ってきた」
「まぁ、それは……!」
そう言われて、彼女が改めてこちらに向き直り深々と礼をする。その隣で……バハムートも彼女と同じように、もう一礼すると、丁寧に謝辞を述べ始めた。
「私達の娘を助けてくれて、本当にありがとう。夫婦ともどもいくら礼を述べても、足りないくらいです。是非、改めてお礼をしたいのですが。……少々、お時間を頂けないでしょうか」
「そうですわ。是非、ゆっくりしていらしてください。まずはお茶をご用意いたします。……こちらにどうぞ」
2人揃って、そこまで深々とお辞儀をされると……却って恐縮してしまう。それにしても、さっきから気になっているのだが。あれだけの実力を持ちながら、目の前の紳士はどうしてここまで腰が低いのだろうか。
「私はエルノアを休ませてから、すぐに行く。それまで、お客人に失礼のないように頼むよ」
「えぇ、もちろんですわ」
その答えを求める間も無く、促されて奥方の後について屋敷の長い廊下を行く。廊下は採光のためか、天井部分がガラス張りになっている代わりに窓はなく、両脇の壁は本棚で埋め尽くされていた。「8割が本棚」と彼は言っていたが……大げさな話でもないらしい。
「こちらですわ。どうぞお掛けになってお待ちください。すぐにお茶をご用意いたします」
「いえ、お構いなく……」
言われた通りにソファに腰を預けると、ようやく感じ始めた疲れもさることながら……滑らかな感触に、吸い込まれてしまいそうだ。それは、ハーヴェンも同じらしい。何度も浮き沈みしながら、ソファの感触を確かめている。
「……何でできているんだろうな、このソファ。沈み具合といい、肌触りといい……」
「落ち着け。客人としてとは言われたものの、相手は竜族の大物だ。……粗相はできん」
「そんなに緊張しなくても、いいと思うぜ? 現に、あの竜神様はバカ天使も許したくらいだし」
「まぁ、そうなんだが……」
そんなことを話しながらしばらく待っていると……奥方ではなく、バハムート本人が先に現れた。そうして彼は彼で、自然な様子で私の向かい側に腰掛ける。
「お待たせして、すみません。お茶がまだですが時間も惜しいですし、具体的に礼の話をさせていただいても?」
「いえ……お気遣いいただかなくて、大丈夫です。私達もエルノアと過ごせたことは、何よりもかけがえのない時間だったわけですし……それに、私はあの子が無事にご両親に会えれば、それでいいとも思っていました。ですので、この場を持ってあの子との契約もお返しします」
私の言葉にすかさず、ハーヴェンが抗議の視線を向けてくる。私とて……彼の視線の意味は、十分に分かっているつもりだ。今更あの子と離れるのは、私だって寂しい。だが、あの子は本来この世界にいるべき存在。初めから人間界で出会うこと自体が間違っていたのだから、こればかりは仕方ないだろう。
「……私はあなた達さえよければ、あの子をこのまま預けたいと考えています」
しかし図らずとも、バハムートの方は私の提案を受け入れるどころか、予想外のことを言い出した。エルノアを……このまま、預かっていていいのか?
「きっと気づいていると思いますが、あの子には相手の悪意や悲しみなどの感情を、読み取る力がございまして。エルノアが命を懸けてまで、守ろうとしたのですから……きっと、あなた達は信頼できる相手なのでしょう。そんな仲間と出会って、娘はとても大切なことを学んだのだと思います。何かを守るということ、何かを慈しむということ。それはこの竜界では決して、体験できるものではなかったでしょう。そんな風に……成長の機会を得たあの子を、このまま竜界に閉じ込めれば、芽生えた成長の芽を摘んでしまうことにもなりかねません。……とは言え、エルノアはあまりにも未熟。このまま預けたのでは、迷惑をかける事の方が多いはずです。そこで……私から礼と手間賃を兼ねて、2つほど贈り物をしたいと思うのですが」
「……?」
「まず、1つはこちらです」
そう言って彼が差し出したのは、黒い宝石をあしらった金色の鍵だった。これはまさか……。
「この屋敷の鍵です。ただし、どんな扉でもこの屋敷に通じるポータルにする魔法の鍵、という特注品ですが」
「……サンクチュアリピース、ですか」
「サンクチュアリピースって……いつもお前が使っているやつも、相当な貴重品だって聞いてたけど?」
そうハーヴェンに言われて、自分が持っている鍵も机の上に置く。私が持っていた方は白色の魔法結晶が嵌め込まれている、質素極まりない銀色の鍵だが……こちらはこちらで、天使が必ず持っている特注品だ。
「サンクチュアリピース。鍵の持ち主を特定の空間へ運ぶためのポータルを、魔力負担もなしに一時的に作る魔法道具だ。私が持っているのは、神界に通じるポータルを作るためのもの。そして、こちらはこの屋敷に通じる鍵……ということは、竜界へのポータルを作る鍵ということになるが……」
竜界は秘境中の秘境だ。そんな場所に繋がるサンクチュアリピースを、おいそれと中級天使の私が受け取るわけにはいかない。
「申し訳ございません。……これは受け取れません」
「なぜ?」
「私には、このような貴重な物を預かる資格が足りません。それでなくとも、こうしてバハムート様にお目通り頂いている事すら、畏れ多いことです」
そこまでやりとりしたところで、奥方がお茶を運んできた。彼の目配せを受け取ると私達と主人の分、そして最後に自分の分も淹れて、一緒に運んできたアップルパイを取り分けて机の上に並べる。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がって」
そう言いながらも、彼女自身は自然な様子でバハムートの隣に腰掛ける。付かず離れずの、丁度いい距離感。これが、夫婦というものだのだろうか。ふと見れば……バハムートの黒い尻尾の上に奥方のピンク色の尻尾が折り重なっていて、黒い尻尾はそれを受け入れるように一列に生えていたはずの棘を器用に引っ込めていた。ハーヴェンとの距離を測りあぐねている私には……なんだか、とても羨ましく映る。
「……バハムート様、か。すみません。そう言えば、名前を名乗っていませんでしたね。申し遅れました。私はゲルニカと申します。そして、こちらは妻のテュカチアです。私のことは今後、ゲルニカとお呼びください」
「……主人が大変、失礼いたしました。私のことも合わせて、テュカチアと呼んでいただけると幸いですわ」
「それで、どうしても受けとってはもらえませんか?」
私が断固受け取らない姿勢を崩さないでいると、ゲルニカは別の可能性に声をかけることにしたらしい。今度は縋るように、ハーヴェンに向き直る。
「では、こちらは悪魔殿にお預けしましょうか。どうだろう? その……」
「ハーヴェンだ。そういうことなら、いいぜ? 俺が受けとっておくよ」
「ちょっと待て! お前、何を言ってるんだ⁉︎」
「ルシエル、考えてもみろよ。俺達だって、エルノアと離れるのは寂しいだろ? こいつを受け取っておけば、エルノアに会いに行けるじゃないか」
「確かに、そうなんだが……」
全く、こいつは何を考えているんだ? その鍵がどれだけ貴重なものか、分かっているのか? もし……手にできるということになれば。鍵1本を手に入れるために、「徳積みチケット」全てをつぎ込んでも構わないという天使も出てくるだろう。
竜界は本来、簡単に出入りできる場所ではないのだ。他の世界は人間界を筆頭に魔力が失われつつあるというのに、ここまで魔力の濃密な世界が存在していること自体が奇跡に近い。それはつまり、竜界に出入りさえできれば魔力を思う存分補給できるだろうし、更にあわよくば竜族と契約できるかもしれないオマケ付きだ。しかし、ゲルニカはどうやら、私の懸念もお見通しらしい。鍵について、更に続ける。
「……ただし、その鍵は誰でも使えるわけでありません。そこに埋まっているのは、私の鱗でして。私が認識している相手しか通さないように、魔法回路を構築してあります。そういう意味でも特注品なのですが……きっと天使様は、他の者に悪用されることを懸念されたのでは? ……心配して下さり、ありがとうございます。でも、それは杞憂というものです」
「私もあなた達であれば、いつでも歓迎ですわ。ぜひ、お納めくださいまし」
「そういうことであれば、やっぱり俺が預かっておくよ。にしても……このお茶、美味しいなぁ」
「あら、お口に合って何よりですわ。もし良ければ、お帰りの際にお持ちになります?」
「あ、本当? だとしたら……ちょっといただけると、嬉しいです」
「コラ、ハーヴェン‼︎ いい加減にしないか。図々しすぎるだろ!」
ハーヴェンは相変わらずの能天気を発揮しているが、ゲルニカ夫妻は全く気にする様子もなく、むしろ満足しているようにさえ見える。なんだか……私だけ妙に空回りしている気がして、落ち着かない。
「さて、もう1つの贈り物についてですが。こちらは何が何でも、天使様に受け取っていただかなければいけません」
「……なんでしょうか……?」
ハーヴェンが鍵を押し頂いてしまった手前、断る方が色々と却って失礼な気がしてきた。本当に調子が狂う。
「先ほども申した通り、エルノアは未熟です。あなた達を守るというよりも、守られることが多いでしょう。それでは迷惑をかける以上に……危険な目に遭わせてしまうかもしれません。そこで……私自身が精霊として、あなたと契約を交わそうと思います」
「いや、いくら何でも……私には、とても務まる内容ではないかと……‼︎」
「お願いしている手前、誠に勝手な話ではあるのですが……これは、私自身のためでもあります。確かに竜界は未だに豊かな魔力を保ち、竜族は不自由なく暮らしていますが……一方で精霊としての矜持を失いかけているのも、事実なのです。かつての過ちがあったとはいえ、我々はぬるま湯のような世界で他の種族が苦しんでいることも知らずに、自分達だけ傷つくことなく暮らしている。そんなことが続けば、本来何かを守るためにあるはずの力を使うことすら忘れてしまうでしょう」
「しかし、私は中級の天使です。あなたの契約主にはとても……」
「あぁ、魔力の乖離を心配しているのでしょうか? それならば、ご心配には及びません。魔力の負担は全て私の方で賄う、全幅の契約をお約束致しましょう」
「……‼︎」
それは申し訳ない以前に、私は契約主としても相応しくない事ぐらい、すぐに分かる。
相手は「規格外」とまで記された、未知の魔力レベルを有する精霊だ。はっきり言って、私が扱えるかというよりも、神に近い存在でもあるだろう彼を天使が従える事自体が、間違っている。
しかし、ゲルニカの方は契約を譲る気はないらしい。更にこう付け加えた。
「もちろん、私はエルノアのように出張りっぱなしという訳にはいきません。必要な時に、呼び出す程度で構わないのです。それこそ……自分で言うのもおかしな言い方ですが、最終手段として手札に加えておいてもらえないでしょうか」
そこまで言われても尚、私がまごついていると……ハーヴェンがやれやれと見かねたように、助け舟を泳がせる。
「……ルシエル。いい加減、腹を決めろよ。竜神様にここまで言わせといて断るなんて、それこそ失礼だろ」
そうなのか? そう、なのかも知れない?
娘のためとは言え。ここまで言わせておいて断るのは、恥をかかせることにもなりかねない……のだろうか。
「……分かりました。私でよろしければ……謹んでお受けいたします」
ようやく絞り出した私の答えに、ゲルニカも満足したらしい。にこやかに頷くと……続いて契約の祝詞を契約主に託す。
「では、早速。……我が名はゲルニカ。契約名バハムートの名において我が牙、我が咆哮、我が翼。我が身全てをマスター・ルシエルのために捧げることを誓いましょう」
まさか、ここに来て2人目の竜族……しかも規格外の大物と契約する事になるなんて。竜界にたどり着けたらエルノアをただ帰してやれればいい等と、漠然と考えていたのだが。親の愛というのは……私如きの思惑など、あっという間に転覆させる程に、深淵なるものらしい。