8−39 どうしても覆せない現実
浅い眠りから目覚めて、瞼を開けると……上半分が異様に黒い。しかし、その黒は何かが視界を塞いでいるものらしき事に気付くと、まだ少し定まらない意識の中で手を伸ばしてみる。ウゥ〜ん……これ、何だろう?
(柔らかい……。えぇと、この感触どこかで……)
そこまで思い出し、正体が判明して慌てて手を離す。いや、待て待て待て! 何で……「これ」がこんな所にあるんだ⁉︎
「……目、覚めた?」
「あ、あぁ……。えぇと……」
クスクスと上から降って来る、どことなく嬉しそうな声。自分の頭も柔らかな何かに預けられている事にも気付いて、ようやく起き上がる。膝枕なんて初めてなものだから……ちょっとドギマギしてしまいつつも、かなり嬉しい。
「……ここがよく分かったな?」
何かを取り繕うように、ちょっと不機嫌に応じれば。すぐさま、寂しそうな顔をするリッテル。もしかして、何も言わずに出たのが、悪かったのだろうか。思いの外、心配させちまったか……?
「ベルゼブブ様に聞きました。……あなたが考え事をする時は多分、ここだろうって」
しかも、リッテルはこの場所をベルゼブブに聞き出してまで、やってきたらしい。それはそれで、驚きだが……それ以前に、何をベルゼブブは軽々しく暴露してるんだよ。……頭を冷やしたら、すぐに戻るつもりだったのに。
「あんのハエ男……! ったく、いちいちお喋りなんだから……!」
「……ごめんなさい……」
「それ、何に対するごめんなさい、なんだ? ここに来たことか? それとも、ベルゼブブからこの場所を聞き出したことか?」
「違うわ。今まで私のワガママで、あなたを傷つけていたこと……。色々と無理を言って、あなたを苦しめてた事に対して……申し訳ない事をしてしまっていたのだと……」
「別にそんな風に思っちゃいないよ。嫌だったらハッキリ言うし、苦しかったら我慢しないし。……別にお前が申し訳なく思うことなんか、何1つない」
確かに、色々と傷ついてはいたけど。でも、それはリッテルのせいだけではないし、むしろ……俺自身の問題だろう。
俺は、自分に自信がない。そして、リッテルがずっと一緒にいてくれるだなんて、甘い事を確信できる程の余裕もない。他の奴らと仲良くしているリッテルを見ていたら、彼女の相手は俺じゃなくてもいいんだろうとも思えてきて。……とうとう、耐えきれなくなった。リッテルが他の奴らと馴染んでいる姿を見つめるのが、ただただ辛かったんだ。
「じゃぁ……どうして、何も言わずにいなくなってしまったの? どうして、何も言わずに……」
「言っても仕方なかったから。……真祖でも覆せない事や、できない事。それをどう説明しても、お前の望みを満たしてやる事ができそうになかった……ただ、それだけだ。それに、あのままお前らの楽しそうな空気に馴染める程、俺は器用でもなくてな。誰かの輪に割って入っていくのは、とても疲れる事で。俺はそういう苦労をするくらいなら、ハナから諦める癖がついてるんだよ。だから……逃げ出して、ここでサボってた」
「……そう。でも……」
何かを言いかけて俯くリッテルの髪の毛が、肩の少し上からスッパリなくなっている事に気づく。元々は腰くらいまであったはずだけど……一体、何があったんだ?
「そういや、お前……髪、どうしたんだ? 随分、短くなってる気がするんだけど……」
「え、えぇ……ベルゼブブ様に切ってもらいました。それで、みんなに色々と作ってもらって……」
そう言いながら、ニットらしい物を広げて見せた後に……俺の肩幅に合わせるように押し付けて、幅がぴったりな事に少し満足げに微笑むリッテル。だけど……彼女の笑顔があからさまに悲しい事に気づけない程、俺は鈍感でもない。
「……そうか。行くんだな」
「……」
「覚悟とやらが、できたって事か?」
「このままでは、ずっと嘘をついたまま作り笑いしかできない……その事にやっと、気づきました。私はあなたの隣で胸を張って笑いたい。あなたの隣で……後ろめたい思いをしながら嘘を重ねるのは、もう終わりにしたいの。これでは、魔界の真祖様のマスターを名乗るには、あまりにもお粗末だもの。だから、私は自分が納得できる形で、あなたの側に戻って来たい。大丈夫。死なない限り……私には帰る場所があるのだもの。私を忘れないでいてくれると、約束してくれた人がいるのだもの。生きている限りは、何があっても……絶対に諦めない」
「俺はそこまで大層なもんでもないけど。でも……そうか、仕方ないよな。元から、その約束だったし……」
仕方ない? 何が、仕方ないんだ? どうして、行かないでくれと言えない? どうして、寂しいと言えないんだ? それさえ言えれば、彼女は神界に帰ることを諦めてくれるかもしれない。そうだ、このまま暮らしていく事に……何の不都合があるんだ? だったら、いっその事……。
そこまで考えて、自分の考えを強か打ち消す。
それだけは絶対にやめようって、決めたじゃないか。彼女を無理やり縛り付けることだけは、もう絶対にしないって……決めただろうが。
「……泣かないで、お願い。そんなに悲しい顔をして、泣かないで……」
「別に泣いてねーし!」
いくら強がってみても、視界がぼやけるのを止められないまま。まるで、今までの分と言わんばかりに涙が溢れてくる。
ほんの少しの幸せも、ほんの少しの温もりも。どうして、この手に残らないんだろう。どうして、何もかもがこの手をすり抜けて行ってしまうんだろう。
「そう……ごめんね。ワガママばかりで……悲しませてばっかりで。でも、忘れないで。身も心も……私の全てはあなたの物だから……それだけは、忘れないで」
絞り出すような懇願にも近いセリフの後に、口づけをもらっても……互いにいろいろ話しても、互いにいろいろ認めても。どこまで行っても何1つ、何もかもが納得できない。だけど……それでも。彼女の覚悟もまた、俺にはどうしても覆せない現実だった。




