8−29 珍しいこともあるもんだ
ご帰宅に関しては、俺が1番乗りだったらしい。あれだけ話し込んだのに、人間界はまだ夕方に差し掛かったところだった。流石、魔界の時間の流れは早い。
そんな事を考えながら、窓の外を見れば。向こうの空が綺麗なオレンジ色をしていて……この様子だと、明日も晴れそうだな。そうして、お空模様を気にするのもそこそこに、夕食の最後の仕上げに取り掛かる。今夜のデザートは、エルノアが気に入る一品に違いないが。はてさて……今日は帰って来るのやら。
「……ただいま〜」
「お?」
オーブンにケーキ型を2つセットしたところで、妙に萎れた声が玄関から響いてくる。へぇ、嫁さんが先だなんて……珍しいこともあるもんだ。
「お帰り。今日は早かったな?」
「そうでもないぞ? 帰り際にきっちり、ルシフェル様に捕まったし……」
「ありゃ、そうだったの? まぁ、いいや。俺も今帰ってきたとこだから、丁度良かったかもな?」
「そうだったのか?」
「うん、まぁ。とにかく、お茶淹れるな。ちょっと待ってて」
「ハィ……」
しかしながら、いつも以上にモジモジした様子で赤くなるルシエル。席に着くこともせずに、何故か俺の隣にやってくる。
「どうした?」
「うぅん。何でもないんだけど……」
「フゥン? あぁ、そうそう。向こうで妙に紳士的なサタンと……マモンにも会ってきた」
「今日は大悪魔の会合だったんだっけ? サタンはともかく、当然、マモンもいるだろうけど……」
「あぁ〜、そうだよな。前回会った時は、あの調子だったもんな。お前が渋い顔をするのも、仕方ないか」
ルシエルはマモンの現状はあまり把握していないんだろう。リッテルが大丈夫そうだ、って事しか知らないのであれば……彼の名前に不機嫌になるのは、当たり前か。
「……いや、かなりビックリしたというか。以前のアイツとは冗談抜きで、別人だったぞ」
「そうなの?」
「うん。少なくとも……今日集まった6人の中では1番、しっかりしてた」
「嘘、だろう?」
「いや、本当。終始イライラしていたけど、ちょいちょい話が脱線し始めるのをちゃんとまとめていたり、他の奴らが勝手な事を言い出すと結構まともな意見を出していたり……。元魔界第1位は伊達じゃないって事なんだろうけど」
正直なところ、今日の会合が無事に終わったのはマモンのお陰だと思う。まぁ、ベルフェゴールがマトモだったのも意外だったが。なんだかんだで、マモンが話の軌道を修正してくれたり、出来損ないを鎮めてくれたのが大きい気がする。
「それとな、神界の皆さんが心配していたリッテルだけど、多分……今のままであれば、そこまで心配しなくて良さそうだぞ。何があったのかは、詳しく知らないが。マモンもリッテルを大事にしているみたいでな。……俺達と同じように、左手の薬指に指輪をしてた」
「それって、もしかして……⁉︎」
「そういう事、らしい。しかも、結構な尽くし具合っぽくて。ベルゼブブの見立てだと、リッテルのお願い事も結構、聞いているみたいだな」
「そっか。だったら尚の事、安心……かな」
俺の報告に嬉しそうにそう呟く嫁さんのお言葉に……何やら含みを感じて、ポットを傾けている手が止まる。尚の事? 他にも、何かいい知らせがあったのだろうか?
「えっと、そっちはそっちで、何かあったのか?」
「うん……。ルシフェル様から内々にではあるのだが……リッテルのことも含めて、今後のお話をいただいた。ルシフェル様……もといマナツリーの計画によると、ボーラへの潜入作戦に悪魔の力を借りたいということだったのだけど……」
「俺は構わないよ?」
あぁ、なるほど。天使長様は悪魔をきちんと協力者として見てくれているという事か。神界と魔界の今までの在り方を考えれば、かなりの進歩だし……いい傾向だと思う。
「うん、ありがとう。でも、ハーヴェン1人に無理させるわけにもいかないし、って話をしたのだけど」
「うん?」
「ルシフェル様は私がそう返事をするのも、お見通しだったみたいでな。……作戦に協力してくれる悪魔の参加者を募ることにしたそうだ」
「悪魔の参加者って……いや、ちょっと待て。そんなおいそれと、天使の計画に参加してくれる悪魔が見つかるかよ……」
しかし、関係性の緩和と悪魔のやる気は別次元の話だ。それでなくとも、悪魔は欲望に忠実な部分がある。俺みたいに「嫁さんのためなら〜!」な気概がなければ、天使に協力しようなんて奇特な悪魔はいないだろう。
「もちろんタダで働いてくれる悪魔がいないことくらいは、分かっているよ。だから向こうである程度、目星を付けることにしたみたいなんだけど。そこで、リッテルを派遣員に任命し、情報収拾をさせたいのだそうだ。その為にも、精霊データの管理役を担う調和部門を復帰させたいそうで……リッテルが帰ってきたタイミングで、私を調和の大天使にされると同時に、配下にリッテルを置くことに……それとなく、決めたらしい」
「そっか。そういう事であれば、問題ないか……。確かに魔界の環境で暮らしていくのは、普通の天使には厳しいものがあるだろうし……なるほどな。それにリッテルが相手なら、マモンも協力してくれるかもなぁ」
「マモンが?」
「うん。リッテルのお願いであれば、聞いてくれると思うぞ」
ようやく淹れたお茶を差し出すと、嬉しそうに受け取って、腰のポーチをゴソゴソし始めるルシエル。そうしてこれまた嬉しそうに手のひらに乗せた小箱の青いリボンを解くと、蓋をパカっと開けてうっとりした表情を見せた。
「なんだ、まだ1つも食べてなかったのか?」
「……楽しみは最後に取って置く主義なの。でも……折角、お茶もあるし。そろそろ、摘んでもいいかな……」
「お好きにどうぞ? ……そういや、他の真祖の分もチョコレートを用意して行ったが。マモンはお土産にするとか言って、そのまま持ち帰ったっけ。一緒にグレムリンも住んでいるとかで、分けてあげるつもりなんだと」
「……本当か、それ?」
「うん。まぁ、グレムリンが自分の配下だからだろうけど……にしちゃ、とんでもない変わり様だろ? 俺だけじゃなくて、他の奴らも信じられないって顔してたし……」
「あの不埒者にそんな優しさがあるなんて、思いもしなかったが……」
不埒者、か。相変わらずマモンに対して不機嫌そうに棘を仕込みつつも、ルシエルの興味は箱の中身に移ったらしい。アプリコットのボンボンを半分の分量で詰めた特別仕様の内容に終始、ご満悦の様子だ。
「あぁ、そう言えば……もう1つ、ハーヴェンに報告しないといけないことがあるんだけど」
「お? 何だ?」
「うん。例の素材のこと。今日ルシフェル様から改めて、私にだけお答えをくださった」
「お前にだけって……。他の大天使はいいのかよ……」
「うん……さっきの魔界の情報収拾の話とセットだったりしたものだから。そんな事を話したら、特にミシェル様があらぬ方向に行きそうだという事で……さっきの計画も含めて、まだ内緒なんだけど……」
「あぁ、そう……」
確かに、彼女達のあのテンションで魔界の話をしたら、色々と収拾がつかなくなりそうだよな。ルシファーの判断は正しいと、俺も思う。それに、魔界側は魔界側で天使に興味津々というか。その辺も伏せておいた方が、嫁さんの精神衛生的にも良さそうな気がする。
「で、素材の正体は何だった?」
「答えはマナツリーの化石だそうだ。マナツリーの化石を人間界に根付かせる事で……新しいマナツリーを育て、神界の力そのものを奪おうとしている奴がいるらしい、という事だったのだが……」
「神界の力そのものを……奪う?」
うん? これはまた……難しそうな話だな。俺には、理屈がサッパリ分からないんだが。
「あぁ。霊樹は同じ根を持つものが2つ以上あると、強い方に力が流れるらしい。で、新しいマナツリーが神界のマナツリーから力を吸い上げようとしているのを……本体は必死に抑えているのだそうだ」
「……そうだったんだ。って事は……2回目にあの場所に入った時、狭く感じたのも、そのせいか?」
「え? そうだったか?」
「……何となく、な。まぁ、1回目は俺自身があっちの姿に戻ったせいかな、なんて思ってたけど……今考えれば、1回目の部屋と2回目の部屋は別物なんじゃないか、って思えるくらいに妙な違和感があったというか。もしかして、あの場所自体がマナもどきの内部なのか?」
「……相変わらず、ハーヴェンは細かいことに気づくよな……。その話も含めて、ルシフェル様に相談してみる」
「そうだな。協力できることがあれば、言ってくれよ? 俺は募集をかけられなくても、お前の為だったらタダでも働けるんだから」
「うん、そうする。……ありがとう」
そこまで話をしたところで、玄関から子供達の声が響いてくるのが聞こえる。どうやらプリンセスも無事、ご帰還召されたらしい。そうして丁度、いい匂いをさせ始めたオーブンの中を覗けば……これまた、いい具合の焼き色に衣替えし始めたタルト・タタンが、今か今かとお披露目を待っている。
うん。今日のデザートも我ながら、とってもいい出来みたいだ。




