1−3 俺と契約しない?
やる気も、矜持も、失っているとは言え。曲がりなりにも、攻撃型の天使だった私は単独で彼を討伐しようとしたが……ハーヴェンは予想以上に強かった。
対する悪魔は、丈4メートルはあろうかという体躯の割には素早く、一対の翼は信じられないスピードでいとも簡単に私の死角に入り込む。漆紺の硬い外皮に覆われた2本の尾は常に強烈な冷気を発しており、近づくだけで震えが止まらないほどの寒気に襲われて……強烈な冷気に阻まれ、こちらの攻撃はまともに当たらないのに、逆に悪魔の手に握られた鋭利な肉斬り包丁は、私の四肢に深浅関係なく無数の凍傷を刻む。魔法の応酬も続いたが、相性もこちらが圧倒的に有利なはずなのに、相手の方が一枚も二枚も上手だった。
そして、最後は飛ぶこともままならない程の大量出血で、朦朧とした意識が途切れる。
自分は死んだのだ……と思っていたが。意外にも、次に意識が戻った時は綺麗に整えられたベッドの上。恐る恐る、視線を泳がせれば……両腕両足は律儀に、手当までされているではないか。
「よう、目が覚めたか? なぁなぁ、腹減ってない? 食いたいものがあったら作ってやるから、言ってみろよ」
目覚めた私を待ちわびたとでも言うように、後頭部で腕を組みながら……姿こそ、かけ離れてはいるが……最後の意識の中で戦っていたと思われる笑顔の相手が、屈託無くそんな事を言う。何が何だか分からなかったが、なぜか無性に温かいものが食べたくて。……自分の意思とは別物の答えが、口をついて出た。
「……温かいものが食べたい……」
彼の問いについ答えてしまって、すぐに心底後悔する。しかし、彼は私の後悔を知ってか知らずか、明るく返事をすると、鼻歌交じりで別の部屋に消えていった。
それから……10分程、経っただろうか。彼が盆に1皿、湯気をもうもうと上げている料理を乗せて戻ってくる。そうして膝の上に置かれたのは、見たこともないくらいに優しい黄色をしたリゾットだった。あまりのいい香りと、綺麗な色味に毒が入っているかもなどと、野暮な疑いも持たずにひと匙口に運ぶと、後は食べるのが止まらなかったくらいに美味しかったことを、今でも鮮明に覚えている。
……結局、米の1粒も残さず空になった皿を確認して、彼は満足そうにひとしきりニヤニヤした後に、私に驚くべき提案を持ちかけてきた。
「なぁ。アンタ、この辺を監視している天使だよな? だったら、俺と契約しない?」
「はぁ⁉︎」
あまりの迷案に、間抜けな声をあげる私をよそに……彼は大真面目だったらしい。提案の続きを語り出す。
「俺さ、料理するのが好きなわけ。でも、魔界だと料理は美味い不味いはあんまり関係ないんだよな。材料が肉と骨だけとか、栄養バランスも彩もあったもんじゃねぇし。で、俺は料理を料理としてちゃんと食べてくれる相手を探しに人間界に来たんだ。でも、俺がそのままうろついているのは、よくないだろ? 本性は悪魔なわけだし、人間に化けててもすぐ他の天使にバレると思うし。だから、お墨付きが欲しいんだよ。アンタが契約してくれれば、あんまり害はないことは分かってもらえるんじゃないかな。悪魔じゃなくて“札付き”の精霊としてだったら、うまくやっていけると思うんだ」
「ふざけるな‼︎ 下級天使とは言え、私は歴とした神界の眷属だ! 悪魔と契約なんぞ、できるか‼︎」
「いや、だから。精霊として契約して欲しくて、歴とした天使殿にお願いしているんだけど……つか、俺の料理食った後でそんなこと言われたら、悲しいだろ〜。もしかして、まだ腹が減ってるのか? 満腹にしておけば、大抵の奴は穏やかになるって、聞いてたんだけどなぁ……」
う〜ん……と困ったように頭を掻く悪魔は、私を殺すことは微塵も考えていないらしい。
その様子を見た時、私は色々と負けた気がした。悔しいが、こいつにはある意味で絶対に勝てない。純粋な魔力や武力だけではなく、別の何かでも私はこいつに完敗したのだと……根拠はないなりに、清々しい程に諒解していた。
「どうしてもと言うのであれば……全幅契約を預けるなら、考えてもいいぞ」
「全幅契約?」
「簡単に言うと、対等の五分五分の契約ではなく、天使側に全てを預ける契約だ。これをする事で、契約相手の魔力をより詳細に把握し……場合によっては、全てを取り上げる契約に切り替える事もできる」
「なるほど? 悪さをした場合は、速攻でお仕置きされるってことか。……それさえすれば、俺が人間界にいることも許してくれるのか?」
「あぁ、それが最低条件だ。……気に入らないなら、私を殺して他の天使を当たるといい」
「そんなことをするくらいなら、助けたりしないって。……まぁ、いいや。分かったよ。にしても、契約かぁ……確か、祝詞と自分の強みを捧げればいいんだよな? ところでアンタ、名前は?」
「……ルシエルだ」
私が名乗った時、彼が何かを噛みしめるような笑顔を見せたのを、今でも覚えている。その意味を知ることは、未だにないけれど……それでも、私の中で彼の笑顔が鮮烈な記憶として、刻まれているのは事実だ。
「そっか。それじゃ、早速。……我が名はハーヴェン。契約名・エルダーウコバクの名において、我が身に封じし永久凍土を捧げ、汝が戒めを受けると共に、マスター・ルシエルに魂全てを隷属させることを誓う」
***
「お、目が覚めたみたいだぞ」
目の前の少女の様子に、自分を重ねたせいだろうか。出会いの日をぼんやり思い出していた私の頭上を、ハーヴェンの声が通過する。見れば彼の言葉通り、小さな精霊の瞳が開きかけていた。いよいよ大きく開かれた少女の瞳は、ハッキリと鮮やかな金色をしている。
「……ここ、どこ? あなた達はだぁれ?」
「ここは人間界のタルルト近郊だ。私はルシエルと言う。で、こっちは……」
「ハーヴェンだ。よろしく!」
相変わらずの爽やかスマイルで、元気に応じるハーヴェン。しかし、折角のハーヴェンの明るさも虚しく、彼女はあたりを見回すと不安そうに「父さまと母さまは?」と、小さく呟き……ポロポロと泣き出した。
「父さま、母さま……!」
「迷子……か」
彼女は竜族。ならば、彼らの住まう竜界からやって来たと考えるのが、自然だ。しかし、竜界は遥か天空の魔力の乱気流に守られた雲海の果てにあるとも言われる、秘境中の秘境。彼女がそこからやって来たのであれば、帰してやれる保証はない。
竜界は神界でも許された者のみが足を踏み入れことのできる、聖域。一方的に出入りすることは許されず、竜族自身の招きがなければ、大天使でも目通りすら叶わない。竜界はそれほどまでに、特別な場所なのだ。当然ながら、二翼の下級天使には「聖域」に入り込む資格があるはずもない。しかし、そんな下級天使の苦悩をまるで無視するかの如く、ハーヴェンが無責任な奇策を打ち出した。
「よ〜し! こうなったら、ルシエルが出世するしかないな!」
「はぁ⁉︎」
「だってさ、確か……天使のお偉いさんだったら、竜界に行けるんだよな?」
「イヤイヤイヤイヤ、待て待て待て! 簡単に言うな!」
「お兄ちゃんに付いていけば、帰れるの?」
泣きながらも、私達のやりとりをしっかり聞いていたらしい。少女がベッドの上から、おずおずとこちらを窺っている。と、言うか……。
「すまない。……こう見えて、私は女だ」
「あ……」
涙を少し残した瞳で、少女はバツが悪そうに俯向くが。一方で、ハーヴェンがさも楽しそうに大笑いし始めた。
「ルシエルの胸は見事にないもんなぁ!」
「うるさい!」
「じゃ、じゃぁ……お姉ちゃんに付いていけば、父さまと母さまに会える?」
「ま、そう言う事だ。とりあえず腹、減ってないか? 好きなものを作ってやるから、元気出せよ」
「……アップルパイ、食べたい……」
「って、勝手に決めるな!」
「いいじゃん、そのくらい。ついでに契約もしといたらどうだ? お前と契約しておけば、この子の魔力も安定するだろ? 野良精霊のままだと、魔力も持っていかれ放題じゃないか。こっちにいる間は、お前が管理してやる必要があるだろうし」
カラカラと、調子よく笑うハーヴェン。そうして言葉の責任を取るでもなく、片手を上げながらキッチンに消えて行ったが……リクエスト通り、アップルパイを焼くつもりなのだろう。
「……たく、あの能天気には相変わらず、調子が狂わされっぱなしだ。とは言え、あれの言うこともあながち間違っていない……か。このままだと、人間界の環境に慣れる前に君の魔力は流出し切ってしまうだろう。君の言う父さまと母さまに会うまで、私と契約しておいたほうがいいかも知れないな。もちろん、君がよければ、だが」
「……お姉ちゃんは天使なの?」
「まぁ、一応。今は翼をしまっているから、分かりづらいだろうけど。……と言っても、恥かしながら、私は最下級の天使だ。竜族である君の契約主には到底、相応しくないんだが」
「でも、お姉ちゃんに付いていくしかない気がする。それに、助けてくれたのもお姉ちゃん達なんだよね? だったら、お礼もしなければいけないと思うの」
「お礼、か。大したことはしてないけどね」
さっきまで泣いていた少女とは、別人かと錯覚する程にしっかりとした受け答えが返ってくる。状況への適応が異常に早い気がするが……幼くとも、一端の精霊ということか。
人間界では、精霊は基本的に1人では生きてはいけない。自ら瘴気を浄化し、魔力を生成する事ができる竜族であっても、そもそも魔力が薄い人間界で「精霊として」生きていくのは厳しいだろう。おそらく、彼女は自分が置かれている世界がどのような物かを理解せずとも、ある程度は「肌で判断」したのだと思う。
「ありがとうが遅くなって、ごめんなさい……私、エルノア。契約名・ハイヴィーヴルの名において、あなたの忠実なる翼となることを、誓います」