1−26 レモンパイ
「……とんでもないことになってしまった……」
いつも以上に難しい顔をしたルシエルのレモンパイは……手つかずのまま。本当は空腹らしい彼女も、流石に食事はきちんと完食したが……さっきから、異様にため息が目立つ。そんなルシエルを尻目に、エルノアとピキちゃんは食後のデザートまで堪能しきったらしく、すでに船を漕いでいる状態だ。やれやれ、仕方ない。今夜はやたら元気がないルシエルの代わりに、俺がエルノアを寝かしつけることにした。
「……ハーヴェン。ルシエル……は多分、大丈夫だと思うの……」
「どういう意味だい?」
「……多分ね、ルシエルの悩み事はちょっと嬉しい……ものみたいなの」
「フゥン?」
譫言とも取れない言葉を呟くエルノアをベッドに転がすと、いつになく瞬速で眠りに落ちる。今日はそれでなくとも、この子も色々と笑ったり泣いたりと大変な一日だったのだから、仕方ないのかもしれない。
そして、こちらはこちらで悩み多きお年頃らしい……小さくブツブツ言いながら頭を抱えているツレに、そっとお茶を運ぶ。相変わらずレモンパイは減っていないが、さっきのエルノアの言葉もあるし、少し愚痴を聞いてやればいいだろうか。
「おい、大丈夫か?」
「……ハーヴェン、私はどうしたら良いのだろう……?」
「何がだ?」
「……今、これが神界で大流行しているらしくてな……。私としては、とても居た堪れなくてな……」
一層大きなため息とともに、1冊の文庫本サイズの本をテーブルに滑らせるルシエル。これは……一体、何だ?
「愛の……ロンギヌス⁇」
「昨日のアーニャの件を、マディエルが報告書として提出した小説だそうだ」
「お、おぅ?」
「……私も一応、中身を読んだのだが……」
歯切れの悪いツレを余所に、小説とやらをパラパラと捲る。中は人間界言語で書かれていて、どうやら俺にも読めるものらしいが……。そんな風に見慣れた文字に目を走らせると、俺達がナーシャに着いた時の騒動、作戦会議に、催眠魔法発動……と昨日の出来事が結構、細かく書かれているようだ。……だが、俺としては内容よりも筆致が妙に気になる。
「……夢魔と天使の戦いは熾烈を極めました。黒の魔法と白の魔法が幾度となくぶつかり合い、あたりの空気を震わせながらも乙女達の愛を乗せ、激しく美しく火花を散らします……プッ、なんだこれ⁉︎」
……ダメだ。俺としてはもう、色々と限界。これを笑わずに読むのは……ちょっと無理。
「人が真剣に悩んでいるのに、笑うなよ‼︎」
「あぁ、ロンギヌス、私の思いを届けておくれ。銀色に輝くロンギヌスは天使の思いを受け取り、夢魔を追い詰めます。その矢はまるで、恋文を届ける白い鳩のように翼を広げるのでありました……届けておくれ⁉︎ 恋文⁉︎」
きっと、これを書いた奴は真剣なんだろう。それを笑うのは失礼な気もしたが、やはり俺にはどこか間抜けに見えて仕方ない。妙に美化されて描かれている俺と、それを巡る2人の争いという構図で進んでいる報告書とやらは……一端の恋愛小説と言っても差し支えない、立派な出来栄えだ。
「あぁ、そういうことか。向こうに行ったらこんな物が流行ってて、お仕事を茶化されたと」
「そうなんだ。……本当に消えて無くなりたい気分だ……」
「ま、こういうものはある意味一過性ものだから、気にしなくていいだろ。別に悪いことをしたわけじゃないんだし。それに……俺としてはちょっと嬉しいかな?」
「嬉しい? 何がだ?」
「だって、これで晴れて公認ってことだろ? 俺の存在は少なくとも、お前のいる世界では前向きに受け入れてもらえたわけだ。それって……別に悪いことじゃないだろう?」
俺の言葉に目を丸くして驚いているが……どうやら、ルシエルなりに腹に落ちるものがあったらしい。そうだな、と小さく呟いて……ようやく、置き去りにされたままのレモンパイにもフォークを落とした。
「……天使と悪魔は、相容れないものだと思っていたが。結局のところ正反対の存在だというだけで、小競り合いこそあっても、目立った争いはしたこともなかったわけだし……」
確かに、人間界で何の気なしに顔を合わせれば、天使は「秩序を守る」という名目で、悪さをしようとしまいと……否応無しに悪魔に襲いかかってくる。でも、俺の場合はルシエルに「なんとなく勝って」しまった。
あの時はそのままルシエルを殺すこともできたのだが……辛そうな顔を見たときに殺すのではなくて、彼女と一緒にいることを望む自分がいた。なぜか、彼女の瞳に誰かの面影を見た気がして、殺せなかったんだ。悪魔は良くも悪くも、自分の欲望にトコトン忠実。あの時、ルシエルを生かしたこと……それは、俺の悪魔としての本能だったのかもしれない。
「まぁ、お前らとしては闇堕ちする人間が出ないようにお勤めしているんだろうが、俺みたいな奴もいるわけだし。その辺は、あまり難しく考えなくていいんじゃないかな」
そんな軽口を叩きながら、ルシエルの様子を伺う。彼女の方はお小言を吐き出して、憂いも少し軽くなった模様。ようやく、デザートの減りがいつものスピードに戻っている。そうしているうちに、レモンパイが半分くらいになったところで……ルシエルが思い出したように、俺にちょっとした質問を投げてきた。
「そう言えば、ハーヴェンって……元は人間だったのか?」
「あぁ。死に際に食欲に纏わる欲望に飲み込まれて、闇堕ちしたらしい。だから、悪魔になった俺を迎え入れたのは暴食のベルゼブブだった」
「食欲? ……意外と少食なお前が、か?」
「ん〜。ただ、人間だった頃のことは、名前以外は本当に覚えていないんだよ。ベルゼブブには記憶が戻ったら大切なものを返す、とか訳の分からないことを言われたけども」
「大切なもの?」
「あぁ。ただ……俺にはそれがどう大切なのか、サッパリ見当がつかない」
フゥン? とルシエルはいつになく、無邪気な表情を浮かべているけど。こうしていると……彼女の見た目は14、5程度の子供にしか見えない。
「ハーヴェンは悪魔になって……どのくらいになるんだ?」
「……そうだな、こっちの時間で280年ってとこかな?」
「そうか。なら、私の方がかなり年長だな?」
「え、そうなの?」
「私はこう見えて、600年ほど生きている」
「600歳⁉︎」
さっきまで、内心子供にしか見えないとか思っていた目の前の少女が……そんな年寄りには、とても見えないんだが。
「つか……天使って、どういう仕組みで生まれてくるんだよ?」
「……天使は生贄として神に捧げられた娘が、神の加護と慈悲を受けて転生する。ただし必ず転生するわけでもないし、その辺の条件を私はよく知らない。しかし……なんの因果だろうな。昔の神への生贄というのは基本的に“選ばれた救世主”として大切にされるせいか、天使は一般的に高慢な者が多い。そして、特権思想が根強いのも事実だ。まぁ、そういう出自なものだから、天使は女しかいないし……魔力を失ってからの人間界では、神への生贄なんて儀式そのものが無くなりつつある影響で、近代では数はほとんど増えていない」
「そういや、天使ってさ……子供とか産めたりするの?」
「生殖機能は転生の時に失っていてな。……天使が子供を成す事は出来ない」
「そうか。なんか、残念だな」
「……悪いが、産めたとしてもお前の子供はゴメンだぞ」
「え……そういう薄情な事、言っちゃう?」
「だって……そうでも言っておかないと、歯止めが効かなくなるだろう?」
レモンパイをようやく完食した彼女が、はにかんだように赤くなって俯くが……おぉ。この赤面は、初めて見るお顔だぞ。そんな世にも珍しい、ルシエルの普通の女の子っぽい反応に……今夜はそのお顔を拝めただけでも、何かが満たされる感覚があった。