5−26 ベリーよりも甘酸っぱい気分
夕刻の早い時刻。まだまだ本格的な夜には遠いが、カーヴェラの目抜き通りの店は、軒並み店仕舞いを始める。それもそのはず……物騒な夜に店を開ける間抜けは、繁華街であろうとも、ただの1人もいないだろう。
その一角、目抜き通りにあるカフェ・アンジェラも例に漏れず早々に表の看板を下げ、既に営業を切り上げていた。通りの角にあるせいかもしれないが、アンジェラはケーキセット1食で銅貨3枚という値段設定の割には、客足が絶えない人気店である。そして、人気を支えているのは店主の姪であり、パティシエでもあるミリアが腕を振るって作る色とりどりのケーキだ。
だが、ミリアは上には上がいることを思い知り……ふらりと店にやってきた凄腕の料理人の技を目の当たりにして、いつになく探求に燃えている。そんな彼女は業務時間を終えても、あの素晴らしい「ザッハトルテ」を再現しようと厨房で奮闘し続けていた。
「ミリア。あのケーキ、再現できそうかい?」
店先のチェックと他のスタッフに日当を配給し終えたミゲルが、厨房で未だに難しい顔をしているミリアに声をかける。しかし……いつになく難しい顔をしている姪っ子の様子では、目標達成にはまだまだ時間がかかりそうだ。
「材料は完全にメモしたつもりなんだけど……。うまくチョコレートが定着しない……あの方が作ったケーキは表面も綺麗に固まっていたのに、どうしてもチョコレートが固まる前に中途半端にスポンジに染み込んでしまって……。冷やせればいいのだろうけど、あの時に冷やしていた様子もないし……う〜ん、どうして〜⁇」
「再現するのは難しい、なんて仰っていたけれども……嘘はないということか。あの素晴らしいケーキはきっと、看板メニューになると思うのだが……まぁ、そればかりは仕方ないだろうな。流石、あの奥方に世界一と言わしめるだけはあるのだろう」
「……にしても、叔父さん。あの方達、何者なのかしら? ご夫婦みたいでしたけど、何だろう……奥様の方はちょっと怖いというか、愛想がないというか。……いつもあんな感じで、あの方は振り回されているのかなぁ?」
「こらこら。お客様に対して、それは失礼でしょ? ただ少なくとも、あの奥様は貴族出身なんじゃないかな。もしかしたら、旦那様の方は元々召使いで……奥様の世話を焼いていたのかもしれないよ?」
「な、なるほど! それで、あんなにケーキ作りが上手だったのね!」
「まぁ、あくまで予想だけど、ね」
そうか、元召使いか。だとしたら、結婚までさせられて、自由もなく縛り付けられて……なんて可哀想なのだろう。
ミリアはあらぬ誤解を抱きながら、あの方……ハーヴェンが何気なく返したエプロンを見つめている。
「おっと、こちらはちゃんと洗わないとね」
片や、姪の意味ありげな視線を気にもとめず、エプロンをミゲルが何の気なしに調理台から拾い上げるが……。
「ダメ! それは洗わないで‼︎」
「ど、どうして?」
「あ、その。もしかしたら、ケーキのヒントが残っているかもしれないでしょ? 匂いとか……」
「いや、材料は把握しているんだろう? だったら、匂いのヒントはいらないんじゃ……?」
「とにかくダメ! それはしばらく洗わないで!」
「あ、あぁ……?」
いつになく必死にエプロンを奪取する姪の勢いに、違和感を覚えながらも、ミゲルは最後に売り上げを確認するために店先に戻っていく。日当を支払い、他のスタッフを家路に就かせた後の店には、ミゲルとミリアしかいない。カフェの2階部分で一緒に暮らしているのだが、両親から半ば押し付けられるようにして預けられたミリアを育ててくれたのが、叔父のミゲルだった。
しかし、顔さえ碌に思い出せないような両親がミリアを可愛がる事はなく……そしてミリアをぞんざいに扱いはしないにしても、ミゲルも店のことが忙しい間は構ってくれない。それは仕方がない事。幼いミリアにも、分かっていたが……とても寂しいのにも、変わりはなかった。
そんな中、店にあったレシピ本を見るのが好きだったミリアがお菓子作りにのめり込むのは、自然な事だったのかも知れない。そうして、寂しさを埋めるようにお菓子作り没頭した結果。気づけば、ミリアは店の看板を背負うパティシエとして、なくてはならない存在になっていた。
ミリアは所謂一種の天才なのだろうが、ケーキ作りにのめり込み過ぎた挙句に、甘いもの好きが祟ったせいで……お世辞にも、スタイルがいいとは言えない体型になってしまっている。甘党なのはミゲルも一緒だが、彼の方は四六時中甘いものを食べているわけでもなく、それでなくとも普段は自ら店先に立ち、給仕と店の切り盛りで意外と運動量が多い。そのため、彼の方はスラリとスマートな印象だ。そして恋とは無縁のミリアとは対照的に……ミゲルのギャルソンエプロンは、密かにラブレターを集める特技がある。
(悔しいけど……今日はこのくらいにしておこう……)
明日も変わらずやってくる。ケーキの再現はまた明日の朝にする事にして、今日はもう眠らなくては。
(にしても、あの方が身につけたエプロン……いい匂いがする……)
心なしかヒンヤリとした感触を残したそれには、仄かなチョコレートとベリー類の甘い匂いが染み付いている。エプロンを大事そうに2階の自室に持ち帰って……しばらくは自分の部屋で保管しよう。さもないと、折角の残り香ごとミゲルに洗われてしまう。
《お嬢さん。突然厨房を借りて悪かったな》
最初から最後まで、気取らない感じのあの方の面影を思い出しながら床に就く。あぁ、また近いうちに会えたらいいな。久々に感じる、ベリーよりも甘酸っぱい気分を噛み締めながら……ミリアは目を閉じる。そんなフワフワした気分の中で、今夜はとてもいい夢が見られそうな気がしていた。