5−21 ザッハトルテ
……という事で、厨房にすんなり通してもらったが。流石に材料は一通り、揃っているらしい。食材の質も悪くないところを見るに、ミゲルが自信満々でケーキに拘るのも分かる気がする。
そうだな……この材料だとザッハトルテ、いけそうだ。アプリコットはないが、ラズベリーとイチゴがあるみたいだから、それでフルーツソースを作って仕込むか。本当はナッツ類もあればいいんだが。それもないみたいだし、こればかりは仕方ない。
「ちょっと時間がかかるけど、待っててくれる? もし良ければ、側で見ててくれても構わないけど」
そう言いながら、借りたエプロンを身につけると……既に勝手に動くようになった手を頼りに、ケーキ作りに入る。
「こ、これは……! 素晴らしい手際ですね……! 確かに、ご主人は相当の腕をお持ちのようだ……」
「当たり前でしょう? 何たって、私の旦那様なのだから」
(その根拠、ちょっとズレてないか……)
こんなところにまで図鑑を持ち込んで、ヤケに自信たっぷりのルシエルの横には、ミゲルとメモを持ったコックらしき女の子が立っている。きっと彼女が、この店のケーキ担当……さっきの話にあったミゲルの姪っ子らしい。一生懸命、材料と手順をメモしているのを見る限り、相当に勉強熱心な様子だ。
(手順を説明するのは面倒だけど……解説はいらないかな? 因みに、ベースのチョコレートスポンジを作る時にココナッツを混ぜるのが、俺的にはポイントだったりするぞ〜。なんつって)
「な、なるほど……ケーキ生地にココナッツを混ぜる、と……」
着眼点がズレていないところを見るに、おそらく彼女自身の腕前も確かなのだろう。それはそれで、もちろんいい事なんだけど……。
(しかし……なんだろうな、このデジャヴ……)
必死にペンを走らせている、ちょっとぽっちゃりした彼女の雰囲気に……誰かの面影を思い出しつつ。アプリコット代わりのベリー類を煮詰めて、フルーツソースを作る。砂糖で煮詰めるとちょっと甘くなりすぎるので、蜂蜜を少し加えた後はレモンの輪切りを浮かべる。果肉が跡形もなく煮崩れしないように気をつけながら、焦げ付かないように鍋をかき回しつつ……そうしている間に、シットリめに焼きあがったスポンジケーキを横にスライスして冷ます。ソースの鍋も火から下ろしてレモンを取り除き、しばらくとろみが定着するまで待ったところで、スポンジケーキの断面にたっぷりと塗る。
「さて。最後はチョコレートを湯せんにして……と」
絶妙な温度で溶かしたチョコレートに、ほんの少しだけ生クリームを加えてケーキをフォンダンにする。更に、表面が冷えて固まるのを待っている間に、砂糖を加えていない残りの生クリームをツノが立つ程度に泡立てる……と。
「本当はケーキ自体も、もう少し冷やした方がいいんだが……まぁ、今はそんな贅沢は言えないか。ほれ、できたぞ。後は切り分けて、生クリームを添えて召し上がれ」
そう言いつつ、実は色々と冷やすのにさり気なく魔力を解放していたのは、内緒だ。
試練を達成してから出せるようになったのは翼だけではなく、尻尾の冷気もらしい。気づいたのは、つい最近だったが……手だけピンポイントに冷やしたりできたりするので、料理に便利なこと、この上ない。
表面上は、タネも仕掛けもないように見えただろうが。実際はトリック満載の、人間には同じ手順では完全に再現不可能な1品が、彼らの前に鎮座している。少し騙したような気がして、メモを取っていた彼女にちょっと申し訳ない気分になる。
「おぉ! では、早速!」
頬を紅潮させて、ミゲルが出来立てホヤホヤのザッハトルテに包丁を滑らせる。そうして……内緒の冷気でうまく固まってくれた表面が軽やかにパリッと音を響かせて、綺麗に寸断された。
「……ハーヴェン。これ、アプリコットじゃないぞ」
「仕方ないだろ。アプリコットが正統派なのは百も承知だけど、なかったんだから」
「う、うん……」
「こんな場所で必要以上の食い気を出すなよ……」
さっきは物足りないとか失礼なことを言いながら、店のケーキを食べなかったくせに……。見れば、嫁さんはしっかり出来立てのザッハトルテを受け取りながら、あんなに手放そうとしなかった図鑑を俺に押し付けてくる。……食べている間は持っていろ、ということのようだ。やれやれ……。
「……先ほど、奥方が仰ったことがよく分かりました……。確かに、当店にはこれ以上のケーキはございません。材料はシンプルなように見えましたが、それを補ってなお余りある……この複雑な余韻と上品な甘さ……実に、素晴らしい」
ようやく納得してくれたらしい、ミゲルがしみじみと呟く。その横で、女子2人が既に2切れ目のケーキを頬張っている。彼女達に言葉はないが、相当に気に入った様子だ。
「これで分かりましたか? 主人のケーキは世界一なのです」
「しこたま食べた後に、そんな大げさなことを言うなよ……つか、ほれ。口元にチョコレートが付いてるぞ」
「あ、ぅ……」
ポケットから取り出したハンカチで口元を拭いてやると、イヤに刺々しくて慇懃だった嫁さんの表情が急に子供っぽくなる。今更何を恥ずかしがって、赤くなってるんだよ。……こんな状況になったのは、どちら様のせいだとお思いで?
「とりあえず、妙なことになったけど……これで、よかったかな?」
「え、えぇ……十分すぎるほどです。こうも鮮やかに、華麗な手際を見せつけられたら……ぐうの音も出ません」
いや、別に勝負していたわけじゃないと思うんだが。ルシエルといい、ミゲルといい。揃いも揃って……何を勘違いしているんだよ。
「……まぁ、それはさておき。さっきは嫁さんが失礼なことを言って、すまなかった。俺としては、この店のケーキも美味しいと思うし、今日の代金はちゃんと払うよ。それと、お嬢さん。突然、厨房を借りて悪かったな」
「はわ⁉︎ い、いいえ、何も問題ありません!」
「そう? あぁ、因みに今日作ったケーキだけど、ザッハトルテっていうんだ。一生懸命メモを取っていたみたいだから、満足のいくものができるようだったら、店で出しても構わないよ。ただ分量は伏せてあるし、材料はシンプルだけど……繊細な作りをしていたりするから、再現はかなり難しいと思うけど」
「そ、それは本当ですか⁉︎」
「うん。構わない。俺自身、勉強熱心な子は嫌いじゃないし。まぁ、頑張って」
そう言いながら、借りたエプロンの汚れを確かめる。うん、特に汚した部分はなさそうだ。
「エプロン、返すな」
「は、はい! 今日はありがとうございました」
なぜか顔を赤くしている女の子を他所に、妙に複雑な表情をしているルシエルに向き直る。って、何をそんなに不機嫌そうにしているんだよ。……俺だって、ちょっとは不機嫌になる事もあるんだぞ?
「……出先で料理をする羽目になるなんて、思いもしなかったぞ……」
「……」
俺がちょっと詰るつもりで、そんな事を言ってみると。きっと、責められていると感じたのだろう。ルシエルが図鑑を取り返しつつ、無言でピタリとくっ付いてくる。そうして図鑑を盾にして、俯きながら上目遣いで許しを乞う表情に……今までの彼女にはなかったはずのあざとさを感じる。……どこでこんなテクニックを覚えたんだろう。
「あぁ、別に……怒ってないから。ほら、次の店に行くぞ」
「……次の店?」
「あぁ……ということで、ミゲルさん。お会計、済ませたいんだけど。あとさ、この辺に雑貨屋とかない?」
「え? あぁ……とにかく、店の方にどうぞ」
「うん。さ、ルシエルも行くぞ」
***
「では、お会計……ですが、本日は素晴らしいケーキのレシピを教えてくださいましたので、お代金を頂戴するわけには参りません。……こちらは本日の謝礼になります。どうか、お納めください」
「いや、元はと言えば……嫁さんが失礼なことを言ったのが、いけなかったんだし。迷惑料も含めて、銅貨10枚でどうかな」
「いいえ、そういう訳には……」
「材料も結構、使っちまったし。別に謝礼とかいらないから。代わりに、雑貨屋の場所教えてくれないか?」
俺の方がそこまで言って……ようやくミゲルの方が折れた。「誠に申し訳ありません」と言いながら、雑貨屋の場所を教えてくれる。
「この目ぬき通りを店の出口から向かって、左に少し行ったところにアンティークの雑貨屋がございます。品物もセンスもいい店ですので、ここからも近いですし……寄ってみてはいかがでしょう」
「うん、そうするよ。今日は色々と、ありがとな」
「いえいえ、こちらこそ本当にありがとうございました。またのご来店、心よりお待ちしております」
そうしてミゲルに見送られて外に出ると……店先の椅子で待っていたらしい、ルシエルの顔は未だに不服そうだ。あの……何をそんなに、怒っていらっしゃるのでしょう……?
「ハーヴェンのケーキの方が、あのパティシエとかいうのが作ったものより、美味しいのは事実だ。別に、失礼なことは言ってない……」
あっ。怒っているのは、そこか。そんなところに……プリプリしてくれていたの?
「いや。店の中であんなことを言うのは、しっかり失礼だと思うぞ……。まぁ、それはともかく。次に行くぞ。ミゲルさんからいい感じの雑貨屋を教えてもらったから、最後にそこに寄ろうな」
「何を買うんだ?」
「まぁ、あればとびっきりの物を買おうかな、っと思っててな」
きっと今の彼女が、間違いなく喜びそうなもの。それさえあれば、毎朝の幸せ気分がよりバージョンアップして、充実するのは確実だろう。それこそ……今のちょっとした不機嫌なんか綺麗に吹き飛ばすくらいに、ご機嫌になってくれるに違いない。