1−15 なぜかとても苦しい
ルクレス地方の首都・カーヴェラ。ぼんやりと、上空から見つめていたことはあったが……こうして街に入るのは、今日が初めてだ。
「ねぇねぇ。あれ、なぁに?」
そんな初めての街へのお出かけに、エルノアがはしゃいでいる。実際、彼女を興奮させるのも無理はないと言わんばかりの大都市は、どこもかしこも賑やかだし、店も多い。貿易の要衝ということもあり、私自身も初めて見る品物が、そこかしこにたくさん溢れていた。
ただ、私も何気なく品揃えだけでカーヴェラをお出かけ先に決めたわけでもない。カーヴェラは様々な種族がごった返す、多文化の地でもあるのだ。行き交う顔には当然、人間が多いが……彼らに混じって、ツノが生えた亜人や牙や長い爪を持った獣人の姿も見られる。
彼らは人間界の魔力濃度に辛うじて適応し、暮らしている元精霊達……通称・精霊落ちと呼ばれる存在だ。精霊としての能力を失い、本性を忘れ……精霊として最期を迎えることよりも、人間界の底辺で生きていく事を選んだ者達。既に魔力レベルは精霊と呼べる水準には及ばず、人間と同じように魔法を失い……本来の生き方だった魔力を糧にすることさえ、忘れている者も多い。
カーヴェラはそんな異形の者が普通に歩いているような場所であり、エルノアが変に目立つこともないため、彼女を連れて歩くのに都合が良いと判断した結果だった。そんな私の思惑を知ってか知らずか……エルノアは跳ねるような歩みを進めるたびに、興味津々で店という店を覗いている。
「欲しいものがあったら、ルシエルに言うといいぞ」
「うん!」
「お前が言うな。……まぁ、いい。ところで、お前は何か欲しいものはないのか?」
「う〜ん。そう言われたところで、あんまり考えたことなかったな。とりあえず、エルノアのよそ行きが必要なことくらいしか、思い浮かばないぞ」
「そうか。何かあれば、言うといい」
相変わらず、無欲な奴だ。悪魔は本来、欲望に忠実なはずだが、ハーヴェンはその欲望が「誰かに自分の作った料理を食べさせたい」ということらしいので、今でも十分満たされているという事なのだろうか。折角、昨日は例の「徳積みチケット」を人間界通貨に換金しておいたのだが……このままではまともに使わないまま、余らせてしまうかもしれない。チケットを直接必要物品と交換する方が無駄がないのかもしれないが、ハーヴェンが何を欲しいのかが分からなかったし、折角なので「買い物」とやらも悪くないと思ったからこその、今日の遠出だったのだが。
(……楽しんでいるのは、エルノアと他1人、と言ったところか)
エルノアの肩には本調子とまでは行かないにしても、多少の元気を取り戻した妖精が乗っている。エルノアが話しかけると嬉しそうに頷きはするが、言葉を発する事はない。いや、強制契約された彼女が言葉を発する事はもう二度とできないのだ。
精霊には、契約名と個体名の2つの名前が存在する。精霊に力を借りる上でとても重要なのは、契約名だけではなく、彼らがそれぞれ持っている固有の名前……個体名も預けてもらって、契約を交わすことだ。
契約名は精霊を呼び出すときの呪文に織り込むためのキーワードとして、最低限知っている必要があるが、これは大抵の場合は種族名や種類名が該当するため、こちらを預けてもらうのはそう苦労しない。だが、個体名の方は信頼の証として、精霊側が任意で天使に預ける自分の固有名でもあるため……これを預けてもらえる、もらえないは天使の手腕にかかってくる。
個体名を知らずとも精霊を呼び出すことは可能だが、力を借りたい精霊の個体数が多い場合は、呼び出すたびに違う個体に力を借りることになる可能性が高い。一方で、個体名を契約の際に一緒に預かった場合は、必ず同じ個体が呼び出しに応じてくれるようになる。
同じ種類であれば、大枠の性質は殆ど変わらないし、エレメントは絶対に覆らない。ただ、個体ごとの純粋な魔力や能力、そして性格にはかなりの差がある。そのため、可能であれば優れた者や自分と「馬の合う」相手を指名して呼び出せるように、個体名も教えてもらえるように努めた方がいい。
しかし、強制契約はその信頼の証であるはずの個体名すらを奪う事で……精霊を隷属させる行為だ。名前を奪われた精霊は自分の精霊としての祝詞すらも忘れ、言葉も失ってしまう。祝詞と表裏一体の名前を呼ばれる事は精霊達にとって、何よりも大切な事のはずなのに。強制契約は天使と精霊の関係性を丸ごと無視する、蛮行に他ならない。
「あっ、そう言えば。俺、ちょっと欲しいものがあったんだった」
エルノアの肩に座っている妖精を見つめて、そんな事を考えている私の思考を途切れさせる、ハーヴェンの声。急に彼がそんな事を言うので……何かを取り繕うように、咄嗟に欲しいものを尋ねてみる。
「あぁ、いや。なんとなーく、秘密にしたいというか……」
しかし……どうしたのだろう、いつもは大抵の事は包み隠さず話すハーヴェンの歯切れが、どこか悪い。そんな彼の様子にしばらく理由を思いあぐねていたが……ちょっと前に、こいつが変なことを考えていたらしいことも思い出した。
「あぁ、なるほど。そういうことなら、ある程度の金額を渡しておく。……好きに使うといい」
「そいつはありがたいが、なるほど……って、なんだよ。なるほど、って」
「……そういう方面の用件は、1人で済ませてこい」
何も、そんなに突き放すような言い方をしなくても、と自分でも思うが。彼がこれからどのようなことをするのかを考えると、なぜかとても苦しい。
それこそ、ハーヴェンは私が不在の時は従順に留守番をしてくれていたが……そういった部分の処理をどうしているのかは、今まで考えてやったこともなかった。どうせ……一緒に暮らしている相手が私だからそんな気にもならない、というのが本音だろうが。
「なんか、誤解してないか?」
「そうか? 何れにしても、構わんよ。私はエルノアと一緒に買い物を続ける。あの子には服が必要なのだろ?」
「まぁ、そうだけれども」
「用事が済んだら、小さめの魔法を発動するといい。そうすれば、私の方で大体の位置を把握できる」
「お、おう……」
ハーヴェンも私の一方的な言い分に、釈然としない顔をしているが。それはこっちも同じだと、やや強引に彼と別れる。どうせ、私が何をしていようと……あいつが何をしていようと、互いに関係ないはずだ。そんな事、分かっている。分かっているはず、なのに。それなのに……今まで感じたこともない焦燥の理由が、私には分からなかった。