22−84 早くお家に帰りたい
私は今、疲れている。猛烈に疲れている。ここは神界の自室、調和の大天使の個室。グラディウス崩落から、明けて3日。……仕事は山積み、疲労も目一杯。後にも先にも……こんなに忙しい時期はなかっただろうし、もう2度と経験したくない。
先の争いは結果として、「こちら側」の勝利で終わったものの。結局は宿願叶わず、ローレライを失う結果になったのだ。世界の魔力調整の問題は今後、最重要課題として神界全体で取り組まなければならない。当然、天使長や大天使階級はしばらく働き詰め確定だ。
それなのに……これから必要な人材であるはずの救済の大天使が、戦場で知れっと降格していたとあらば。その穴を埋めるのも急務とばかりに、私は報告もそこそこに、人員の選定に駆り出されていた。もちろん、ファルシオンをそのまま所持しているのだから、ラミュエル様が再昇格すればいいのでは……と思っていたのだが。そのラミュエル様自身が大天使に戻ることを固辞し、強引にファルシオンをマナに返却した為、大天使の穴埋めが暗礁に乗り上げてしまった。ラミュエル様本人は、ヴァルプスを離反させてしまったことに対する反省とけじめなのだと、仰ってはいたが……おそらく、理由はそれだけではなさそうだと、私はそっと理解している。そこには多分……ハミュエル様に対する引け目や、責任も上乗せされているのだろう。
そして答えが出ないものは仕方ないと……何故か一旦、私が救済部門も兼任する羽目に陥っていた。……これ以上仕事を増やされたら、帰りが遅くなるじゃないか……。ハーヴェンとの時間がますます、減ってしまう……。どうして、こうなった?
(だけど……悪いことばかりじゃない、か)
一方、人間界の状況はこれからゆっくりと改善していく見込みだ。最大級の霊樹が人間界に降りたとなった以上、瘴気の浄化は速やかに進むだろうし、今後は人間も魔法を使えるようになるはず。何せ、人間界の霊樹・ユグドラシルが最強の霊樹・ドラグニールと結合し……新たな霊樹・オフィーリアとして、最高の形で再降臨したのだから。ここまでの布陣をして、快方に向かわない方がおかしい。
そして、かつての過ちを繰り返さないためにも、人間達には魔力に対する知識を教育していく必要があるが……その辺りは、悪魔達の手も借りながら地道にやっていくしかないだろう。
(しかし……結局はヴェグタムルの行方は分からず終いなんだよな……)
ふと、手元のパネルから視線を上げて、虚空にため息をつく。もちろん、ロンギヌスのプログラムが完遂していないことも、プログラムが作り出した空間でヴェグタムル……ベースはヴァルプス……と交戦した事、既のところで逃してしまった事も報告済みだが。……何故かヴェグタムルを逃してしまったことよりも、私の帰還に付随するラブストーリー(なのか?)の方が大きく扱われ、マディエルが早速「新作」の執筆に取り掛かっているらしい。
「セバスチャン様の分も含めて、ネタはバッチリですよ〜! シャカリキで報告書出しちゃうんで、楽しみにしていて下さいぃ〜! 燃えてきましたよぉぉぉぉ‼︎」
……とは、マディエル大先生の宣言(絶叫)である。……天使達の士気が別方向に沸いたのは、言うまでもない。
(解せぬ……。どうして、こう……天使は恋愛事情を優先しがちなんだ? もっと、他に考えるべき事が山ほどあるだろうに……)
あぁ、頭が痛い。本当に……割れるように、頭が痛い。早くお家に帰りたい……。
「……ルシエル様、大丈夫?」
これ見よがしにため息をついたのが、いけなかったのだろう。同室で「とある事」を調べてくれている、新入りの部下・ラディエルが心配そうにこちらを見つめている。
「あぁ、ごめん。私は大丈夫だよ、ラディエル。……それで、どう? 何か分かりそう?」
マナの女神との協議の結果。アリエルの忘れ形見でもあるラディエルは、無事に天使として神界に受け入れられていた。
……ローレライが消失してしまった今、機神族だったラディエルを支えられる霊樹は存在しない。だが、紛れもない女神が生み出した存在である以上、マナもラディエルを無視できなかった様子。きっと、罪滅ぼしの意味もあるのだろう。マナは自分の髪の毛を媒体に、ラディエルの無機質な肌に天使としての温かな肉を与えた。
そうして……今は自然な表情で私を心配そうに見つめるのは、彼女が「後輩ちゃん」と呼んでいたらしい「誰かさん」に生写しの天使。私がもう1人増えたみたいで、やや複雑な気分だが。彼女との関係性は「養母」・「養女」として読み替えればいいのだし、実際にハーヴェンは私にソックリなラディエルを見て、「娘ができたみたいだ」と喜んでいた。新しい家族が増えたと思えば、これはこれで悪くない。
「……ウゥン、これ以上は分からないわ。ヴァルプスのデータを洗ってみたけど……ヴェグタムルの行方は追えないみたい。ごめんなさい……」
「いや、いいんだよ。そもそも私が逃したのが、何よりも悪いのだし」
やはり、尻尾は掴めない……か。ヴァルプスをベースとしている以上、行動パターンや思考回路は彼女譲りだと思っていたのだが。神界に残された精霊データも全て揃っているわけではないし、何より……ヴァルプス自身が神界にあまり協力的ではなかった事もあり、「向こうのデータベース」に関する情報は残っていない。
(お手上げ……か。あの時、もっと深追いすれば良かったんだろうか……)
「あっ、でもね。……行方は追えないけど、気になることはあったの」
「えっ?」
私が再び頭を抱えそうになった、その刹那。おずおずと、彼女が「気になったこと」を教えてくれる。何やら、ラディエルは彼が名乗った「ヴェグタムル」という名前が気になったらしい。
「……あの、ヴァルプスのデータベースに、明らかにこっちのモノじゃない言葉が混ざっていて。ローレライが機神族のお名前を付ける時に使っていた情報網に、いくつか変なものが紛れていたの」
「変なもの……?」
「うん。例えば……ヴェグタムル、だけど。この単語には、別枠の情報パケットがくっついていて。わざわざ“バルドルの夢”って、注釈が入っているの」
「バルドルの……夢?」
「それでね、そのバルドルには“愛される者”、他には……スヴィパルには変化する者の他に“吊るされた男”って記載があるわ。でも……」
「う〜ん……それだけでは、意味が分からないな……」
「だよね……ごめんなさい」
情けなくも、率直な感想を漏らしてしまったが。途端にしょんぼりし始めたラディエルの姿に、すぐさま申し訳ない気分になってしまう。しかしながら、彼女の気づきは何かの「とっかかり」になりそうな気がする。意味は分からずとも、顔見知りに「繋がり」がありそうだと分かれば、ここは十分だ。
「いや。大発見だよ、ラディエル。お手柄だ」
「そ、そうなの?」
「うん。今の話で、ヴェグタムルとバルドルには何らかの関わりがある事が分かったのだから。……バルドル、か。そう言えば、あれだけアケーディアが探していたのに……どこかに姿を眩ませていたっけ」
それこそ、不自然なくらいに。
アケーディアはバビロンのお願いもあり、バルドルを連れて帰ることにも相当の神経を注いでいたらしい。マナの化身とくっつくとなった段でも、彼の存命を優先するために策を巡らせたりと、かなりの働きっぷりだったのだとか。その上で、ダンタリオンの魔法発動や防衛作戦にも非常に協力的だった……と言うのは、マモンの擁護答弁の一節だ。
そんな強欲の真祖様の進言や証言もあり、アケーディアは特段手酷い断罪もなく、バビロンと一緒にリルグに住まうことを許されている。深い事情やキッカケは不明だが、最終的にはベルゼブブとも和解したとかで、殊の外穏やかな人間界暮らしを満喫しているそうな。……たまにダンタリオンやゲルニカと一緒に、魔法談義に花を咲かせているとも聞き及んでいるが……マモンがしっかりと目を光らせているとあっては、私が心配する必要もなさそうだ。
「いずれにしても、バルドルの行方を追った方が良さそうだな。……明日、ルシフェル様とベルゼブブ様に相談してみるよ」
「ルシフェル様はともかく……ベルゼブブ様?」
「あぁ。一番彼の素性を知っていそうだからね。……何せ、大元の魔法道具の作者だし」
「そうなのね! それじゃぁ……」
「うん。まだ、諦めるのは早い……と、同時にそろそろ、疲れてしまった。……もう、こんな時間だ。今日はこの位にしておこう。明日も忙しくなるだろうし……ここはキリがいい所で帰ってしまうに限る」
神界時計を見やれば、人間界の時刻はとっくに夜の9時を回っている。これ以上の残業はハーヴェンの手間や負担を考えても、やめておこう。それに……。
「ふふ、ルシエル様。それはそうと……今日のデザート、何だろう?」
「さぁ、何だろうなぁ……ま、ハーヴェンのデザートに不味いはあり得ないし。楽しみなのには、変わりないかな?」
「それもそっか」
そうして、一緒に帰ろうと手を差し出せば。嬉しそうに手を繋いでくれる、ラディエル。そうだよね。ラディエルもハーヴェンのデザートを楽しみにしているのだもの。ここは潔く、撤退してしまおう。
「……あの、ね。ルシエル様」
「うん? 何かな?」
「私、この調子ならマミーを待っているの、頑張れると思う。……まだまだ、ずっとずっと、先だと思うけど。あ、その……だから……」
「あぁ、分かっているよ。……これからも一緒に頑張ろうね。よろしく、ラディエル」
「うん!」
仕事は山積み、不安も悩みも一杯一杯。だけど……一緒に頑張ろうと、言ってくれる相手がいるのなら。私はこの世界をもっともっと愛せる気がする。しかも、そんな世界で回る日常には愛する旦那と、美味しいデザート付き。これで頑張れないだなんて、薄情すぎる。
(この先も……ずっとずっと。この温かさを噛み締めていられる……そんな世界が続けばいい)
特別な事なんて、必要ない。
特別な存在になんて、ならなくていい。
ただ一緒にいて、ただ一緒に笑って。
ただただ……毎日を一緒に過ごして。
今あるのは、何気ない日常だけど。
どこまでも、代わり映えのしない日常だけど。
今がとにかく、幸せなのは間違いないんだ。
ある日、退屈だったはずの毎日に混ざった色のおかげで……私は今の日常を愛していられる。
だから……今すぐ帰るからね、マイダーリン。
これからも甘いデザートと、甘い時間を用意してくれないと……絶対に許さないんだから。