22−35 神様の微笑み
ハーヴェンは「プランシー」の身を案じているが、彼はもうハーヴェンが知る姿でこの世に存在しない。それでも……接続されたケーブルを伝って、ハーヴェンの存在を感知出来ずとも、「プランシーだった末端」は機敏にプログラムが自らの存在へ介入し始めたのに反応している。その様子に……あら、とセフィロトの側に控えていたアリエルが小さく声を上げた。
「どうしたの、アリエル」
「……この神父、何かに反応しているみたい。それで……あぁ、そういうこと。……奴ら、とうとう正常化プログラムとやらを打ち込んできたようね」
アリエルの言う「奴ら」とはもちろん、かつての上司・ルシエルを含む天使達のことである。物言わぬ末端に成り果て、玉座の上でガタンガタンと白目を剥いて痙攣している神父を横目に見ながら、アリエルは尚も嘆息する。
……元同僚達の悪あがきもそうだが、「彼」の惨状を冷ややかに見つめられる自分にも嫌気が差して、アリエルは自分を取り巻く環境に尚も辟易していた。そして、その環境にしっかりと組み込まれてしまった自分の身の上を考えれば、考える程……どこで間違えたのだろうかと、自問せずにはいられない。……こんなはずではなかったのに。女神になる事など望んでいなかったのに。
(……だとしたら、私は何を望んでいたと言うのかしら……)
しかしながら……アリエルは自分の本心を見つめ、突き詰めて考えても「本当はどうしたかったのか」を思い出せなくなっていた。最初は確かにあったはずの野望も希望も、どこかに忘れたまま。今のアリエルは目標さえも見つけられないでいる。
「迷う必要はないよ、アリエル。……君は僕と一緒に、グラディウスの神様になるんだから」
「そう……そうよね。だけど、セフィロト。……あいつらの抵抗、かなり厄介みたいよ? 確実にアレを壊し始めているわ」
「みたいだね? まぁ……お調子者が壊れるのは、別に構わないよ。むしろ、プログラムとやらの干渉を一手に引き受けてくれているみたいだから、このまま置いておくのがいいかな」
彼が壊れるだけであれば、いいのだけど。だが、その限りではないだろうと、アリエルは尚も不安で仕方がない。それもそのはず、神父はただ壊れていくと見せかけて……明らかに、別の何かに変化し始めている。セフィロトが彼の変調を見逃しているのか、敢えて無視しているのかは知らないが。この変容はただ、見つめているだけでいい類のものではないだろう。
「ところで、セフィロト。……ローレライの名残は、きちんと切り離せそうなの?」
「……正直なところ、難航しているよ。折角、古い玉座は封印したと言うのに……どうやら、想定外の場所から攻撃を受けているみたいでね。例の魔法による介入ポイントが2つに増えたんだ」
「2つ?」
「うん、2つ。ブリュンヒルドの玉座と、使者の祭壇に対して、それぞれルートエレメントアップとやらの上書きが実行されようとしている。新しい鎖が増えたせいで、今のグラディウスは両足を縛り上げられている状態なんだよ」
しかも、悪いことにセフィロトは未だに「例のロバ」から受けた特殊魔法の副作用から抜け出せていない。
スティグマタイズスィナー……「罪人の不名誉」の名を持つこの魔法の主眼はもちろん、相手を逃がさないことにある。だが、それとは別に……罪人と決めつけた相手に、ジワジワと罰を与える意図も含まれていた。このどこまでも悪趣味で陰湿な付随効果こそ、この魔法の隠れた強みであり……本領とも言える特殊性能でもある。
「あっ、そうだ。だったら……僕の懸念も、彼に肩代わりさせればいいのか」
「えっ?」
だが、セフィロトの陰湿さはロバの悪魔(延いては暴食の真祖)の更に上を行くものだったらしい。さも名案だとばかりに、悪意に満ちた笑顔を溢す。
「セフィロト、まさか……」
「あぁ、そのまさかだよ。面倒なこと、辛いことは全部全部、彼に載せ替えればいい。……そのために、王冠を渡しておいたのだもの。利用しない手はないよ」
何も、そこまでしなくても……と、アリエルが諌める間もなく、セフィロトが嬉々として純白の尾を神父へと伸ばす。その動きはしなやかで、優しげに見せかけて……ゆっくりと確実に神父を締め上げていく。確かに、神父には既に意識はないだろう。だが、苦しそうに痙攣している姿を見れば、彼の魂は未だ肉体に留まっているのも明らか。
(こんなの……まるで、生き地獄じゃない……。死んでしまうよりも苦しく、恐ろしいことだわ……)
……この光景を残酷と言わずして、何と言えばいい?
ガクンガクン、ガタンガタン。玉座の上でのたうち回る神父の体が、いよいよ大きく跳ね上がる。肉体は膨張と収縮とを繰り返し、目まぐるしく内側から変化しているようだが……その破壊と再生のサイクルはもはや、不気味だとか、残酷だとかで片付けられるようなものではない。
「……マミー。あの人、どうなるの? とっても苦しそうに見えるのだけど……」
大人しく様子を見ていたはずのラディも堪らず、アリエルを見上げては不安そうに問う。いくら赤の他人とは言え、初めて見る類の残虐に生まれたての幼な子が怯えるのも当然ではある。しかし……。
「大丈夫よ、ラディ。彼はタダの裏切り者。こうなるのも、自業自得なの。……あなたが心配することは、何1つないわ」
「でも……」
何かを言いかけて、賢いラディはキュッと口を噤む。そして、アリエルもラディが「言いかけた事」を薄々理解してもいた。母も娘も……その先は「ここで言っていいことではない」のも、よく分かっていた。
(……そう、ね。この状況はとっても怖いこと……よね)
目の前の光景を忌避するなと言うのは、まずまず無理な話だろう。神父の変化以上に……そもそも、セフィロトの威容こそが化け物でしかないのだから。半身は純白の鱗と樹皮とで覆われ、辛うじて神々しさを保っているものの。細身な上半身とは不釣り合いな程に、臍下から肉塊にしか見えない幹は肥大しており、不格好さに拍車をかける。だが、シルエットの歪さ以上に、彼の顔に張り付いた「神様の微笑み」がひたすら柔和で、どこまでも綺麗な事が……何よりも悍ましい。
「マミー……私、怖い……。ねぇ……これって、おかしな事?」
「いいえ、おかしくなんかないわ。だって……私も恐ろしいもの」
「そっか……うん、よかった。マミーも一緒なんだ」
「当たり前じゃない。……誰だって、恐ろしいに決まっているじゃない」
不都合を他人に押し付けるのに夢中なセフィロトの耳には、幸いとアリエルとラディの囁きは聞こえていない。そして、彼女達が何に怯えているのかなんて、彼にとっては些細なことでもある。……耳に入れたところで、憂慮する価値もない。
(都合よく無関心を装える所は、本当によく似ているわ。……やっぱり、あなたはマナの子供でしかないのね)
そんな事に今更ながら思い至ると同時に、次のターゲットは自分かもしれない現実が……ただひたすら、恐ろしくて仕方ない。例え、神様からまだ「仲間」だと認識されていたとしても。彼は自分が苦境に放り込まれたのなら、呆気なく「仲間」を身代わりにするに違いない。実際、玉座の神父は砕けてしまうのではなかろうかと思える勢いで、顎をガクガクと鳴らし、声ならぬ悲鳴を上げている。
(何も、ここまでしなくていいでしょうに……)
いくら自分を出し抜こうとした裏切り者とは言え、ここまでの罰は不釣り合いだと、アリエルは苦々しく思う。それでなくても、神父の「背信行為」は多少なりとも予測できていたこと。もし、真っ当な神様を名乗るつもりなら……彼の反駁を予測できた時点で行動を諫め、思い留まらせるのが正しい「お導き」というものだろう。だが、セフィロトは敢えてそれをしなかった。それはつまり……この処罰は彼も望んでいたということであり、彼のサディズムが顕在化した格好である。
「さて……と。フフ、しばらく奴らの抵抗を受け止めておいてね、神父様。僕はそんな余興に構っていられる程、暇じゃないんだから」
せいぜい頑張ってね……と、神父に嘲るように微笑みかけると同時に、セフィロトがクルリとアリエル達に向き直る。しかして……清らかであるはずの満面の笑みを前に、アリエルとラディは尚も神経が縮む思いをしていた。
「おや、どうしたの? そんなに怯えた顔をして。まさか……君達も僕を裏切るつもりじゃないよね?」
「そんなはずないでしょう? ただ、ちょっと驚いただけよ。だって、そっちの神父……もう、骨と皮しか残っていないじゃない」
「あっ、本当だ。……意外と毒の回りが早いね。ロゼクレードルの追加効果は消耗系の神経毒だったはずだけど……フゥン? 霊樹相手だと、組織を壊死させるんだ?」
生き物として致命的な状況だというのに、セフィロトは尚も興味なさげに独り言つ。しかし、相変わらず何かが上手くいかないらしい。正常化プログラムの接続先も、神経毒で麻痺した部分も……不都合は全部、神父に載せ替えたと言うのに。まだ何かが……自分の足を引っ張っている。
「……意外と賢いみたいだね、あいつらのプログラムとやらは。折角、経路を切り替えたというのに……僕の魔力を追尾してきたみたいだ」