22−24 真綿で首を絞めるように
アリエルがラディを抱いて、セフィロトの玉座に戻れば。そこには宣言通りに霊樹へと戻りつつある少年の姿があった。足を根っこに様変わりさせ、上半身は人の姿を保ちつつも、表皮にはビッシリと鱗が生えている。それに……彼の尾骨からは立派な白銀の尻尾が棚引き、ゆらゆらと優雅に空間をうねっていた。
「……おかえり、アリエル。さっきは散々だったね?」
「そうね。……本当に、散々だった。もう、あいつには2度と会いたくないわね」
アリエルの言う「あいつ」とは当然、マモンの事である。
相手を嘲るような態度に、妙に皮肉っぽい反応。圧倒的な実力に加え、厄介な武器まで持ち合わせる。その上、異常なまでに感覚も過敏らしく……余計なことに気付いては、相手を慮る余裕まで見せつけてくる。基本的に無関心がデフォルトのマナとは真逆の意味で、アリエルはマモンを苦手だと感じていた。
「あのね、マミー。でも……あいつ、そんなに悪い奴じゃない気がするの。……何だかんだで、私を見逃してくれたし」
「えぇ、分かっているわよ。そうね、ラディの言う通りだと思うわ。あいつは基本的に、そこまで悪い奴じゃないのよね。でも……だから、却ってムカつくのよ。いい奴ぶっていられるのは、余裕の表れですもの」
純粋な善意だろうと、打算の偽善だろうと。マモンの行動はアリエルの目には、確かな格差として鮮やかに映る。おそらく、これは「嫉妬」なのだろう。そして、嫉妬の矛先はマモンではなく、彼が連れている「弱点」……リッテルに対するものだ。
《ほんの一瞬とは言え……嫁さんを傷付けたからには、タダじゃおかねーぞ》
自分だって、ラディエルを傷つけたクセに。どの口が言うんだか。
アリエルにしてみれば、マモンの言い分はどこまでも勝手なものに聞こえる。そして、彼は「嫁さん」の取りなしがなければラディエルはもちろんのこと、アリエルさえも刀の錆にしていた事だろう。本人は「気が変わった」等と、気まぐれを装っていたが……それがタダの気まぐれでも、偶然でもないことくらい、アリエルだって知っている。
マモンはリッテルにとことん甘い。だからこそ、お嫁さんのそれとないご希望を渋々と呑んでは、元同僚にさえも目溢しをして見せた。そして……これはどちらかと言えば、余裕と言うよりも我慢に近い。
(悪魔は我慢が何よりも嫌いだって、聞いていたけれど。……何と言うか。天使と契約した悪魔は、角が取れる法則でもあるのかしら?)
正直なところ、マモンのリッテルに対する忖度は奇妙でしかない。
強欲の真祖は最強の悪魔だと、散々喧伝されてもいたが。実際に対峙してみれば、その煽り文句に偽りがない事くらいはすぐに分かると言うもの。彼は冗談抜きで、絶対的な強者でしかない。だからこそ、神界で最下位……要するに、最弱の立ち位置にあるリッテルに対して、どうして彼が過剰に迎合するのかがアリエルには理解できないのだ。
(別に、マモンの事はもうどうでもいいか。……今はそれどころじゃないし)
これ以上彼らの関係性を熟考する必要はないだろうし、考えたところで答えは出ない。それに、アリエルの女神としての歩みの中で、彼らの夫婦仲や関係性は関心外の事柄である。これから新しい世界を顕現させようと言う段階で、古き神の尖兵のディテールにこだわる必要はない。
(そうよ。……私達のこれからに、あいつらはいらないわ)
しかしながら……グラディウスは古き神相手に健闘しているように見せかけて、実質はかなりの窮状に瀕している。元々発動していたルートエレメントアップの制御権も集め切れていなければ、新しい制御魔法も発動済み。その上、城内には侵入者まで確認された。……おそらく、侵入しているのはマモンだけではないだろう。リッテルも潜入している時点で、彼女の上司でもあるルシエルも実働部隊として動いているに違いない。
「ところで……どうするの、セフィロト。このままだと、グラディウスが引き摺り下ろされるばかりか……内側から壊されちゃうわよ?」
「分かっているよ、そんな事。よく分かっているからこそ……こうして根を張り巡らせて、不要な部分を切り離そうとしているんだろう?」
「……そう、そういう事だったの。あなたのその姿は、純粋に霊樹へ回帰しているだけじゃないのね」
「うん、そんなとこかな」
どこか苛立たしげに尻尾を一振りして、セフィロトが説明することには。グラディウスの横腹に開けられた「勝手口」の修復は近くに塒を巻いていたリヴァイアタンに阻止されたそうで……彼は早々に、穴を塞ぐことは諦めたとのこと。それに、グラディウス最下層部には忌々しい楔が打ち込まれており、ジワジワと着実にグラディウスの根幹を支配し始めているらしい。
「……まるで真綿で首を絞めるように、陰湿な感じなんだよ、これが。それに、元々発動していたルートエレメントアップはミカエルが契約していた竜族のものだからね。そもそも僕が発動したものでもない以上、情報を全て拾い切るのは不可能だ。それに……」
新しい魔法の楔になっている鎖の方こそが、元の術者と同じ魔力情報を持つともなれば。セフィロトが制御権を掌握し切る前に、そちら側に制圧されてしまう可能性が高い。
「僕はしばらく、グラディウスの区画整理をしなければいけなくてね。まずはかつてのローレライを色濃く残す部分を切り離す事にしたよ。だけど、さっき受けた毒でちょっと魔力が停滞しているせいもあって、思うように進まなくて。だから……分かっているよね、アリエル」
「えぇ、分かっているわ。……玉座に座ればいいのよね? 女神としてではなく……あなたの母親として、側にいればいいのでしょう?」
「その通りだよ、アリエル。それはそうと、そんな出来損ないを大事そうに抱っこしている必要はないんだよ。この世界では、僕こそが最も愛されるべき存在。……そんなのを抱かれていたら、僕の存在意義が揺らいでしまう」
揺らいでしまうのは存在意義ではなくて、ちっぽけな自信なのでは?
アリエルは内心でそう毒づきながらも、セフィロトに逆らえば自分だけではなく、ラディエルも危ういことを理解しては……彼の望むように演技をすることに決める。ラディエルはグラディウスの魔力準拠で作られた生命体。グラディウスの支配者でもあるセフィロトに受け入れてもらえなければ、魔力を取り上げられて「餓死」してしまう。
「マミー……」
「大丈夫よ、ラディ。……さ、腕はこれで元通りになったわよ。それで、ラディ。本当に申し訳ないのだけど……」
「……うん、分かってる。お留守番の間、私は邪魔にならないように大人しくしてる。マミーを困らせないように、頑張るの」
「……」
アリエルに治してもらった腕を大事そうに撫でながら、ラディエルが聞き分けの良い様子で、ニコリと微笑む。だが、彼女の笑顔があからさまに複雑なものだと見抜いては……自分はとんでもないモノを作り出してしまったのだと、アリエルはいよいよ驚愕していた。
鈍く輝く金属質の割には、滑らかであまりに豊かすぎる表情。ただ無機質な顔を向けられるだけであるのなら、ここまで辛くもないだろうに。だが……ラディエルの笑顔に隠れた健気さが、アリエルの胸をジクジクと痛めつける。
《せいぜい邪魔にならぬよう、身の程を弁えておけ》
マナの女神は要約するに、「お前は邪魔だ」と生まれたてのアリエルに冷たく言い放った。その心ない言葉が、かつての彼女をどれだけ傷つけたかを、傲慢な女神が知っていたかどうかは怪しい。しかし、アリエルはマナの女神とは違う……いや、違わなければならない。「娘」に物分かりのいいことを言わせて、悲しい笑顔をさせてしまって。そして……豊かな感情と表情とを実現させてしまう程に、ラディエルを作り込んでしまったことをアリエルは後悔している。
「……ごめんね、ラディ。しばらくの間、1人にしてしまうけれど……決して、あなたを見捨てる訳じゃないのよ? ただ、私はここから離れられないだけ。……グラディウスの女神である以上、神様のためにお利口にしていないといけないの」
お揃いの悲しい笑顔を見せる「母親」を見上げて……ラディエルはコクリと、尚も従順に頷く。ラディエルだって、本能的にセフィロトには逆らってはいけないのだと、理解はしている。だが、いくら自分のライフラインを支えている相手だからと言えど、自分から母親を引き剥がした彼がとても憎い。そして……ラディエルは必死に考えるのだ。どうすれば、神様から母親を取り戻せるのか。どうすれば、母親を神様から自由にしてやれるのか……と。