1−1 自分が「落ちていく」
あの日は確か、母さまに手を引かれてお城にお出かけしていた。
その日は確か、父さまは「大切なお仕事」でお家にはいなかった。
父さまは普段、書斎で難しい本と睨めっこしている。
自分が知っている文字、知らない文字。
とにかく、文字がいっぱい並んだ分厚い本。
母さまが読んでくれる絵本とは別物の、難しい顔をしている本。
父さまはそんな難しい本を読みながら、何かを書いている。
父さまの字は、とても綺麗だ。
私は、字を書いている父さまが好き。
私が机の上を覗いても怒ることもせず、お膝に乗せてくれて色々なお話をしてくれる。
父さまは物知りだ。
私が知りたいことは、何でも教えてくれる。
分かりやすい言葉で、誤魔化さずに。
父さまのいないお家は空っぽになったみたいに、空気がヒンヤリしていた。
だから、あの日は母さまが「今日は、お祖母さまに会いに行きましょう」とお城に連れて行ってくれた。
母さまも私と一緒で、「ヒンヤリ」に耐えられなかったのかも知れない。
母さまはとても優しくて綺麗。そして、誰よりも寂しがりや。
母さまは父さまがいなくなると、いつも不安そうにしている。
あの日のお城では珍しく、お祖母さまがお迎えしてくれた。
いつもはベッドで寝ているのに、調子が良かったらしい。
そして母さまには、お姉さまがいる。
つまり、私の叔母さまになるのだけれど、叔母さまもとても優しくしてくれる。
お城の人はみんな、優しい。
父さまほどではないけれど、分からないことがあれば教えてくれる。
その日は叔母さまが、お城の秘密のお部屋に連れていってくれた。
お茶の時間が終わっても、母さまとお祖母さまがお話に夢中で、私がつまらなさそうにしていたから……。
叔母さまがとっておきを教えてくれると、連れ出してくれたのだ。
「ここは特別な人しか入れない秘密の場所なのよ」
叔母さまは、お城の奥にある扉の先を見せてくれて、丸いお部屋の真ん中にはヘンテコなドアがあった。
向こう側に何かあるわけでもなく、一枚の板が立っているだけにしか見えない、意味のないドア。
「お部屋の中にドアがあるなんて、変なの。叔母さま、このドア何か意味があるの?」
「開けてみれば、分かるわよ」
「開けていいの?」
「知りたければ、開けるしかないわ」
叔母さまの言葉に、私は何の疑いもなく、ヘンテコなドアのノブに手をかけた。
ノブはすんなり右に回ると、そのままドアが向こうに開く。
それと同時に背中を押されて、私はドアの向こう側に踏み出していた。
踏み出した先に、地面がない。
気が付いた時は、頰を冷たい空気がいくつも通り過ぎた後だった。
耳にはもう、風の音しか聞こえない。
自分が「落ちていく」ということに、実感がない。
どうして、自分は「落ちていく」のだろう?
誰か、教えて。
でも……知りたい事を教えてくれる人はもう、誰もいなかった。