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氷の城  作者: 壱百苑ライタ
9/14

一階

十、一階


回廊の出口は、それはもう豪華絢爛な部屋に繋がっていた。白い壁紙に煌びやかな金の細工。見ていると目がチカチカと痛くなってしまいそうだとアヴニールは思った。

実際に目を瞬かせながら部屋を見回していると、不意に部屋の壁に大きな鏡が設置されているのを発見した。

「わぁ、大きな鏡ねぇ」

 アヴニールは言って鏡に近づく。

「ほら、見てみてパッセ」

「んー? あ、本当だ! 凄い大きな鏡だね!」

 アヴニールとは少し離れた場所で壁の金細工を突いていたパッセは、呼ばれて振り返りはしたが、あまり興味が無いのか近づいてこようとはしなかった。

「さて、どこからどう調べていく? アヴニール」

「んー? そうねぇ、と言っても記憶が戻るのっていつも突然なんだよねぇ。別に法則がある訳でも無いというか」

 そうなのだ。回廊では何気ない行動をしていると、急に怪奇現象のような訳の分からない事が起こり、そして意識を失っている間に記憶が思い出される、と言った感じなのである。従ってアヴニールにも「こうすれば戻る」というのがある訳では無い。

「でもなんか、こういう普通の豪華な部屋は違うような気がする」

「普通じゃない部屋が良いの?」

「ん? ううん」

 アヴニールは首を捻った。そう答えを求められてもどうという答えは無いのである。

 しかしそんなアヴニールの様子にパッセは少しだけ苛立っているようで、「どうなの?」と些か顔付きが不機嫌そうである。

「そ、そんなに怒らないでよ………」

「だってー、早く思い出して欲しいんだもの」

 パッセはぷうと頬を膨らませた。それを言われてしまうとアヴニールも弱い、うっと言葉を詰まらせると「ごめんなさい」と気まずそうに視線をそらす。

「まぁいいや、とにかくまず一階の部屋を回ってみようか!」

 しかしパッセはそう言うとぱっと笑顔に立ち戻り、「とりあえず、じゃあこっち!」と自分の近くにあった扉に手をかけた。

 パッセは扉を開ける。そしてアヴニールがやって来るまで扉を開けて待っていてくれた。

「はい、どうぞ。お嬢様」

「あら、気が利くじゃない」

「あはは」

 それからアヴニールが通路の出てからパッセも部屋を出て、パタリと扉を閉めた。

 その部屋の鏡に、一瞬だが――――黒い影が、映りこんだ気がした。

 外に出ると、そこは細い通路のようだった。こちらの通路は先ほどの豪華な部屋に比べると実に簡素な造りで、ただの石壁になっている。

 その細い通路を抜けると、今度は先ほどの部屋かのように豪華絢爛な通路に出た。こちらも白い壁に金細工、赤い絨毯が敷かれ先ほどの細い通路の二倍以上は幅がある、実に優雅な通路であった。

「通路は十字になってるみたいだね」

 二人してその豪華さに呆けながらのアホ面を引っさげて通路を歩む。十字路の真ん中に来ると、どうやら真ん中に階段があり、部屋は4つ作られているらしいことが分かった。

 回廊に比べ、屋敷の方は以外にも単純明快な造りのようである。

 だが、しかし。

「何か、階段が変わってるわね」

 真ん中に設置された階段は、お屋敷でメインの階段にするには何やら珍しく思える、螺旋階段になっていた。

「お屋敷の真ん中に螺旋階段なんて、珍しいわよね」

「うーん、訳が分からないねぇ、このお屋敷は」

 アヴニールは一歩踏み込んで螺旋階段の上を見上げる。しかし見上げていたら目が回りそうで、直ぐに顔を引き抜くと「酔いそう」と渋い顔をする。

「馬鹿だなぁ。そんなことより、その部屋から入ろうか?」

 そんなアヴニールをパッセは冷笑し、そして「ほらほら」とやけに次の行動を急かして来る。

 そんなに思い出してほしいのだろうか。まぁ、そうだろうな。

 しかし、以前のパッセはこれほどまでに時分の記憶に執着していなかったように思えたのだが、ここに来て随分と慌てているようにも見える。

 アヴニールは「ほら早く」と自分を見つめるパッセに少しだけ申し訳なくなり胸がつきんと痛むのを感じた。

 きっと、我慢していたのだろうな。それと同時に、自分を早く思い出してもらおうと頑張るパッセが、何て健気なのだろうときゅんとする。

「よし、じゃあそこの部屋から見てみよう!」

 これは意地でも早く思い出してあげなくちゃ。

 アヴニールは記憶奪還への思いを新たにし、一番近場にあった桃色の扉に手をかけた。

 そして思い切り開け放ったそこは。

「すごい………!」

 部屋中が生きた花に飾られた、まるで温室かのような部屋であった。

「何ここ凄い! 凄い綺麗ね!」

「うわぁ、ここ本当に部屋の中なのかな!?」

 これにはパッセも驚いたようだ。床には真っ赤な花が敷き詰められて、部屋の中心には天蓋つきのテーブル。その天蓋には薔薇の花が数々咲き誇り、四方の壁も様々な花が爛漫に咲き誇っている。

「うわぁ、乙女の夢ねぇ」

 アヴニールはうっとりしながらテーブルまで歩いていくと、そこに設置された椅子にそそくさと座り込んだ。

 そこから見る部屋は、まさに花の天国。外が吹雪きというのを忘れてしまうほど、そこはまるで………

「春みたい!」

 そう、まるで春のような部屋だった。

「アヴニール」

 と、急にパッセが何かを後ろ手に隠しながら近づいてきたかと思うと、そっとアヴニールの髪の毛にピンクの綺麗な花を挿した。

「わぁ、ありがとうパッセ!」

「ううん、すっごく似合ってるよ」

 パッセはアヴニールの姿を見て満足そうに微笑む。

 アヴニールもまた、そんなパッセを見て少し恥ずかしそうに微笑んだ。

「で、アヴニール!」

 しかし、直後パッセはその目を爛々と輝かせて自分を見つめてきたので、アヴニールは一瞬ぎょっとして怯んだように身を引いた。

「思い出した!?」

 アヴニールの頬に汗が伝う。

 パッセを見れば、それはもう期待の眼差しで自分を見つめている。しかしどうだろう、この瞳に応えてあげたいのは山々だ、山々なのだが。

「――――ごめんなさい」

「えぇぇぇ」

 まるっきり、思い出しそうな気配は無い。

 こんな不思議な空間だというのに、一向に不思議現象が起こりそうにない。

 不発、である。

「仕方ない………じゃあ次の部屋を探してみよう!」

 そして思い出さなかったことが分かるや否や、パッセは言って直ぐに扉の方へと駆けて行ってしまった。それからまた扉を開くと、「どうぞお嬢様」とにっこり笑う。

「あー、はいはい」

 なんだか、疲れるな。

 一瞬そう思ったがアヴニールは急いで首を左右に振った。そうだ、これはパッセの為にやっているのだ、頑張らなければならないのだ。

「次はどの部屋にする? あ、ちょうどいいからこの目の前の緑の扉の部屋にしようか!」

 そして矢継ぎ早に、パッセは目の前にあった緑の扉を開け放った。

「これじゃ情緒もくそもないわね………」

「何か言った?」

「いいえなんにも!」

 そんな会話をしながら入ったそこは、今度は部屋中に絵画がびっしりと飾られた何とも異様な部屋だった。

その絵画は、不思議なことに何枚もの絵で一枚の絵を描いているようだ。

 その巨大な一枚の絵が描いていたもの、それは。

「凄い、星空の中に居るみたい………」

 そう、其の部屋は四方八方全ての壁天井に星空が描かれていたのである。勿論、床にも描かれている。そして扉を閉めると其の部屋はいっそう暗くなり、けれども不思議なことに描かれた星空の星はよりいっそうキラキラとランプの灯りで輝き出す。絵の具では無い、光を反射する何かで描かれているのだろうか。そして天井から吊り下げられた丸いランプは、更に自分たちを星空の中に居るような心持ちにさせてくれた。

「凄い、凄いわ! この部屋すっごく綺麗!」

「そうだね!」

 言いながら二人ではしゃいでいると、あまりに周囲に夢中になりすぎたせいで、アヴニールは自分の足に自分の足をひっかけてしまった。

「うわっっっととと!」

 そして、そのままよろけると。

「いったぁ………」

 情けなくも、尻餅を着いてしまった。

「大丈夫!? アヴニール!」

 倒れた方とは逆に居たパッセが慌ててアヴニールを見つめる。アヴニールはお尻をさすりながら、「お恥ずかしい」とパッセを見上げた。

「…………」

「気をつけてよアヴニール! 怪我でもしたら大変なんだから」

 アヴニールは、そんなパッセの言葉に「あ、うん」と答えるとゆっくりと立ち上がった。立ち上がりながら、アヴニールは何とも言えない違和感に襲われていた。

 何とは言えない。だが違和感がある。

「どうしたの? アヴニール」

「え、あ、ううん」

「もしかして思い出したの!?」

 再び、ぼんやりとしたランプの灯りでも容易に分かるほどの爛々とした目でパッセはアヴニールを見つめた。

 いよいよもってその期待の眼差しの眩しさにアヴニールはうっと目を細める。

 思い出していない、全く持って思い出していない。

 それどころか、今この現状に違和感を覚えている自分が居る、なんてとても言えない。

「あ、うーん、なんかこう、もうちょっとなのよね。もうちょっとでこう出てきそうな出てこないようなそんな感じ?」

「なんだよそれ、全然思い出してないってことなの?」

 パッセは見るからに落胆した。そしてまた、それに違和感。

「じゃあ次に行こう!」

 言ってパッセは扉へと歩いて行くと、最早恒例となったのか扉を開けた。

「さ、お嬢様」

 そして不意に、アヴニールは其の言葉にハっとする。

「お姫様、じゃないの?」

 星空の部屋に、扉から外の灯りが入り込む。陰影がくっきりと刻まれたその表情は、怖いほどに作り物に見えた。

 作り物のような、笑顔だった。

「だってアヴニールお姫様じゃないし! もう、気づくの遅いよー」

 しかし直後パッセは頬を膨らます。その表情と言葉に、アヴニールは気がつけばほっと胸を撫で下ろしていた。

 先ほど一瞬走ったあの緊張感は何だったのだろう。

 やはり演出効果だろうか。アヴニールはきっとそうだろうと納得することにした。

「次の部屋はどんな部屋だろうね?」

 外に出ると、パッセはうきうきとした様子で次の部屋に足を運んだ。その様子を見てアヴニールは何とはなしにほっとする。良かった、違和感が消えた。これは自分がよく知るパッセだ、と。

「それにしても、此処を作った人は相当おかしな人だよね」

「え、そう?」

「だって、部屋が全部おかしいもの」

 今度は黄色い扉に手をかけながらパッセは言った。けれどもアヴニールは其の言葉には些か共感出来ないと感じた。だってアヴニールはこの部屋を作った人に、もっと違う感想を抱いていたのだ。

 そう、きっとこの部屋を作った人は。

「わ、何だこの部屋!」

 次の部屋は、アヴニールの思った通りだった。

「部屋というか、貯蔵庫なのかな?」

 その部屋には、秋の実りが――――たくさんの収穫物がこれでもかというくらいに様々な方法で置かれていた。地面の上、テーブルの上、天井から吊り下げられている物もある。そしてところどころに積み藁まで。

「この部屋を考えた人は、きっと凄く感受性が豊かな人なんじゃないかな」

 そしてアヴニールはその光景を見て心が温かくなるのを感じた。

「え? どうして?」

 アヴニールの言葉に、パッセは不服そうに眉を潜めた。納得いかないのだろう。子供にはまだ分からないのかもしれない。

「春は花が咲き乱れて、夏は満点の星空。秋は収穫が多ければ多いほど嬉しいし、きっと冬は暖炉の焚かれた暖かい家の中」

 四季折々の幸せが、この部屋には詰まっている。

「とっても浪漫ちっくじゃない?」

 満面の笑みでそう言ったアヴニールを、パッセはどこか呆然とした様子で見つめていた。けれどもやはり納得いかなかったのか、「そうかな」と呟くと背を向けてしまう。

「パッセ?」

 急にそっぽを向いてしまったパッセを気遣って、アヴニールは静かに歩み寄るとその肩にそっと触れようとした――――刹那。

「!」

 まるで殺されでもするかのような形相で、パッセは勢い良く振り返った。そして同時にアヴニールに触れられるのを嫌がるように、肩を押さえながら後ずさる。

「パッセ………?」

 アヴニールはその行動が余りにショックで呆然と立ち尽くした。

「あ、あ……ごめん………」

 パッセもまた、どう言っていいか分からないのか肩を押さえた侭で呆然と俯いてしまった。

 二人の間に、しばし気まずい沈黙が流れた。本当に長い、気まずい沈黙だった。

 今度は都合よく、沈黙を破るような腹の虫も鳴いてはくれない。

アヴニールは呆然としているパッセを悲しそうに見つめると、どこか困ったように、けれども一生懸命に笑顔を繕って、「あのさ」と沈黙を破って問いかけた。

「そんなに、私に触られるの………嫌だった?」

そしてアヴニールは気がついていた。先ほどから感じていた違和感を。パッセは礼拝堂で再開してから一度も、自分と触れ合っていないのだ。

それは普通のことなのかもしれない、けれど礼拝堂以前のパッセは違った。彼はいつだって自分に手を差し伸べてくれていたし、何時だって気がつけば、アヴニールを支えていてくれたのだ。

「ごめんね、気づかなくて。やっぱり、嫌よね私なんて」

 パッセは俯いたまま何も言わない。

 アヴニールは、その無言が余計に辛く、胸がズキズキと痛み出し、気がつけば無意識に胸のあたりにある十字架を握り締めていた。

「………っうあっ」

「パッセ?」

 突然である。パッセは変な声を漏らしたかと思うと、急に苦しそうに喉を押さえその場にしゃがみこんだ。

「うぅ、うあぁ………っううぅ」

「パッセ!? 大丈夫!?」

 その額にはいつの間にかびっしりと汗をかいている。アヴニールは驚いて思わずパッセに駆け寄って、そして―――――其の肩に触れようとした、瞬間。

『 私に触れるなああぁぁぁぁぁああああ!!! 』

「きゃあぁぁあぁ!」

 パッセは腕で思い切りアヴニールを振り払った。その力は到底子供の力とは思えないほどの強さで、まるで突風にでも飛ばされたようにアヴニールの体は宙を飛んだ。

「っっ!」

 そして其の侭壁に思い切り背をぶつけ、地面に崩れ落ちる。

『 くそうっっ、忌々しい十字架め!! それさえ無ければこんな回りくどいこと!! 』

 先ほどの背に受けた衝撃でアヴニールもケホケホと苦しげに咳き込む。目まで霞み、思うように体が動いてくれない。

 そんな状況で見つめるそこには、目を赤く光らせて闇を全身に纏わせたパッセの姿があった。それはまるで“あいつ”そのもの。

 そう思った途端、アヴニールの背筋にいつもの寒気が走りぬけた。

『 許さない、もう絶対に許さない 』

 パッセの姿は見る間に闇に呑み込まれて行く。やがてそれは本当に闇になった。その闇が、ずり、ずりとアヴニールに近づいてくる。

 足がすくんだ。体中が震え出す。其の間にも奴はアヴニールに近づいてくる。ゆっくりと、けれども着実に、ずるずると不気味な音を出して。

「いや………っ嫌だ」

『 十字架め、忌々しい……さあよこせ、それをよこすんだ 』

「やだ………いやだ、いやだいやだいやだああああああ!!!」

 闇がアヴニールに手を伸ばす。先ほどの衝撃で十字架は服の外に出ていた。今はアヴニールの胸のあたりに吊り下がっている。

 体が痛みで動いてくれない。そうしている間にも闇がアヴニールの喉元まで迫っている。

 涙が滲む。

 恐怖のあまり、瞼を開いていられず、せめてもの抵抗で目をぎゅっと瞑った。

「アヴニール!!!」

 その瞬間に。

「アヴニール!!!!」

 それは一度、少し遠くから聞こえた。けれど直ぐにまた近くで聞こえたその声と同時に、アヴニールの体は誰かにぎゅっと、抱き起こされていた。

「アヴニール、大丈夫かい!?」

 アヴニールは力を入れることが出来ず、ゆっくりと少しずつ瞼を開けていった。

 まずは光が見えた、真っ白くぼやけている。そしてぼんやりと輪郭が見える。

 けれども見えていなくても、もう分かる。

「パッセ………」

「遅くなってごめんよ、アヴニール」

 ぎゅっと、自分を強く強く抱きしめる力を感じる。あぁ、懐かしい温もりだ。アヴニールはその胸の中で安心したのか、ぽろり一粒涙を零すと、力尽きたように目を閉じた。




 目を開けると、アヴニールはまだ温もりの中に居た。

 ぼやけた視界が少しずつ明瞭になると共に、目の前の顔が動く。アヴニールが目覚めたことに気づいたのか、その顔はこちらを覗き込んだ。

「起きた? アヴニール」

「パッセ…………」

 視界がくっきりと明瞭になったそこには、やはりパッセの顔があった。自分を抱きとめた侭、ずっと座って待っていてくれたのだろう。アヴニールはいつの間にかパッセの膝枕で眠ってしまっていたようだ。

 その状況に気がついて恥ずかしくなり少し頬が赤くなったが、赤くなっていることを悟られまいとアヴニールはゆっくりと体を起こそうとする。しかし、その瞬間に全身に痛みが走り、アヴニールは表情を歪めた。

「無理しないでアヴニール。暫くじっとしてた方がいいよ」

 パッセはいかにも心配そうな顔でアヴニールを覗き込むと、「ゆっくり休んでいいんだから」と優しく額のあたりを撫ぜた。

「――――私は子供じゃないわよ」

 その行為がくすぐったくて、アヴニールは彼の口癖に倣った。それを聞いたパッセは可笑しそうに笑うと、「今は子供みたいだよ」と優しく微笑む。

「駆けつけるのが遅くなってごめんね」

「ううん………私の方こそ、あんな酷いことを言ってしまって………」

「ごめんなさい」と、アヴニールは目を伏せて涙を堪えながら言った。すると零れそうな涙をパッセの指がそっと拭い、前髪をとかすように彼の手がアヴニールの額を撫ぜる。

「いいんだ、むしろあんまりにも早く信用してくれたから正直驚いてたくらいだしさ。僕の方こそ酷いことを言って………本当にごめんね」

「どうして? パッセは何も酷いことなんて」

 パッセはゆっくりと首を横に振る。

「早く思い出して欲しい、なんて」

 アヴニールは目を見開いた。パッセはそんなアヴニールの瞳をじっと見つめる。

「今の貴方に、これほど酷なお願いは無いよね」

 パッセは言って、困ったように笑った。その目尻から、ぽとりとひとつアヴニールの頬に涙が零れ落ちる。

 涙の粒は、温かかった。アヴニールは人の涙が温かいことを初めて知った。

 そして気がつく。

 神に許されない気持ちだったとしても、自分はこの少年のことを――――いや、そんな言葉ではとても表せない。アヴニールにとって、パッセは文字通り掛け替えのない存在になっていた。

 彼が傍に居てくれるなら、例えどんな過去を自分が背負っていたとしても――――受け入れることが、出来るかもしれない。

 いいや、受け入れたいと思える。

「パッセ」

 アヴニールに不意に呼ばれ、パッセは少し驚いたように下を向きアヴニールを見つめた。

「ねぇ、教えて。パッセと以前の私は、どんな感じだったの?」

 アヴニールは目を閉じた侭、表情はとても穏やかに微笑んでいた。パッセはその質問に少しだけ驚いたけれど、自分もふっと笑うと「そうだなぁ」と宙に昔を思い浮かべるように語り出した。

「正直、性格は今のアヴニールと全然変わってない。違うところと言えば、今よりずっと逞しかったってことと………僕のことは、本当に本当の子ども扱いだったって事かな」

 パッセは言いながら苦笑した。

「僕は早く大人になって、背だって高くなって、アヴニールよりずっとずっと逞しくなって、子ども扱いなんて絶対に出来なくしてやろうって、毎日そればかりだった」

 言いながらパッセはアヴニールの頭を撫ぜる。

「こんな事、以前のアヴニールなら絶対にさせてくれなかったと思う」

 パッセがアヴニールを撫ぜる手つきは、まるで愛しい人を愛でるそれだった。その指先の動きにアヴニールの心臓は少しずつ少しずつ高鳴り出す。

 自分より、子供の筈のその少年が――――やけに大人に見えてしまう。

「ずっと思ってた。僕がもっと早く生まれていたら、或いは貴方がもっと遅く生まれていたら、って。そしてそうしたら、あらゆるものから貴方を守ってあげられたのに、って」

 不意に見上げたパッセは、とても遠い目をしていた。それは今のアヴニールではなく、かつてのアヴニールを想う瞳なのだろう。そう想うとアヴニールは複雑な心持ちになって、今度はズキリと胸が痛んだような気がした。

「とにかく僕は、貴方を守りたいんだ。全てのものから、貴方を守ってあげたい。貴方はとても不器用な人だから、僕みたいな狡賢いのが必要だと思うよ。だからどうかいつまでも、いつまでも――――僕を傍に置いてほしい」

 気がつくと、パッセはアヴニールをじっと見つめていた。その瞳と目が合って、アヴニールの心臓は大きく一度、脈打つ。

 パッセの瞳は濡れたようになっていて、そして少しずつ、少しずつその瞳が自分に近づいてくる。

 それを見止めたアヴニールの心臓はうるさいくらいに耳の中で響き出した。そのせいで、急に意識がぼんやりと、まるで幻想の中にでも居るような心持ちになってくる。

 気づけばパッセの顔はすぐそこにあった。

「アヴニール………」

「パッセ………っ」

 アヴニールはぎゅっと目を瞑った。パッセの指が、アヴニールの唇をなぞる。アヴニールはそれにびくりと反応した。その様子を見たら、パッセは何だか急におかしくなってしまって、気がつけばぷっと吹き出してしまっていた。

「え? え?」

「怖がりすぎだよアヴニール! 僕より大人なんじゃなかったの?」

「な、ななな!」

 目を開くと、パッセの顔はもう遠くに行ってしまっていて、自分を見て本当におかしそうに笑っていた。それを見たアヴニールは恥ずかしさのあまり顔を急激に真っ赤に染め上げると、上半身を急いで起き上がらせる。同時に背筋に先程と同じ痛みが走り「いっだー!」と情けない声を上げた。その光景にパッセは更におかしくなって笑い出し、それを見てアヴニールは恥ずかしさの余り涙まで溢れてくる。

「仕方ないじゃない! 私の知識にも記憶にもこんな状況無かったもの!」

「言い訳が子供っぽいよ」

「うるさいわね! 子供の癖に大人をからかうんじゃないわよ!」

 言ってアヴニールはパッセの頭を軽く小突く。

「いたた、それ昔もよくやられたよ」

「パッセ生意気だもの、そりゃやるでしょうね!」

「あ、酷いなぁ!」

 目が合って、二人同時に笑い出した。すると急に緊張感が抜けてしまったのか、アヴニールはうんと伸びをしてからもう一度パッセの膝に寝転がった。

「あ、ちょっと!」

「もうちょっと貸してよ、なんだか疲れちゃった」

「まったく、調子いいんだからさ」

「苦しゅうない」

「殴るよ、お姫様」

 パッセが拳を振り上げ、アヴニールは即座に「ごめんなさい」と謝る。そしてまた二人で笑い出す。あぁ、幸せだ。そう思ったら不意にアヴニールは昔のことを思い出した。

 父と母がまだ居た頃、いつも家の中はこんな空気だった。だからなのか、家族三人一緒にいる時間が一番長くなる冬が、当時一番好きだったっけ。

「あ、そうだ」

 アヴニールは思い出したように起き上がると、急に「いたたた」と痛みを堪えながら立ち上がった。

「ちょっとアヴニール、無理しないで」

 それを慌てて支えながら、パッセが少し心配そうに言う。

「あのね、私行きたいところがあるの」

「行きたい所?」

「うん、あとひとつ、行ってない部屋があるのよ」

 パッセに支えてもらいながらアヴニールは歩き出した。歩いているうちに、少しずつだが背中の痛みも取れていく。それほど酷く打ちつけた訳ではないようだ。この調子ならもう少しすれば治るだろう。

 そして二人は最後の扉、紫の扉の前へとやって来る。

「此処?」

「うん、此処」

 そして二人同時に、ドアノブに手をかけて。

「せーの!」

 二人同時に、扉を開けた、其処は。

「わぁ………!」

「やっぱり………」

 窓の外には吹雪が吹き荒れているのが見える。けれど暖炉には火が燃えて、テーブルには椅子が二脚。食卓にはほかほかのシチューが並べられ、まるでそこは。

「僕たちの家みたいだ!」

 アヴニールが言うより前に、パッセが言った。

 そして言うが早いか、パッセはアヴニールを連れて食卓へと向かう。

 アヴニールを椅子に座らせ、自分もその向かいに座って。

「へへへ、懐かしいねぇ」

 パッセは、照れたように微笑んだ。

 その瞬間、アヴニールは視界いっぱいに光が溢れ出したような感覚に襲われる。

 そうだ、自分は知っている。 この光景を、とてもよく知っている。

 春は二人で花を摘み、夏は二人で夜空を見上げた。秋は裏の畑で二人で収穫をして、そして冬は、私よりも何故か母の味に近いパッセのシチューを家で頬張る。

 この四つの部屋は、全てアヴニールの思い出そのものだったのだ。

 しかも誰でもない。

「アヴニール?」

 今こうして目の前に座る、パッセとの大切な、大切な思い出そのもの。

「パッセ」

 アヴニールは目の前に座るパッセをじっと見つめた。その瞳をパッセは不思議そうに見返したけれど、不意にはっとしたようにパッセは目を見開き息を呑んだ。

 そしてその瞳からは、ぽろぽろと大粒の涙が零れ出す。

「アヴニール………なの………?」

「寂しい思いをさせてごめんね、パッセ」

 そうだ、彼の名は“パッセ”。私の名前は“アヴニール”。新しい自分などと言って、私は最初から彼の名を無意識に覚えていたのだ。

「思い出したんだね!? アヴニール!!」

 言いながらパッセは耐え切れなかったのかわんわんと泣き出してしまった。

「うーん、全部って訳じゃないと思うんだけど、でも思い出したみたい」

 それを見ながら、アヴニールはパッセの頭をがしがしと撫ぜる。

「子ども扱いするなよぉ!」

「じゃあ子供みたいに泣かないの。うーん、しかし何だか不思議な気持ちだわ」

 記憶が無かった頃の事もまだ覚えているし、全て思い出したわけではないようで、むしろどちらかと言えば記憶が無かった頃の自分に記憶がくっついたような感覚ではある。

 何はともあれ、アヴニールはパッセをすっかり思い出した。

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