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氷の城  作者: 壱百苑ライタ
6/14

広間へ続く通路

七、広間へ続く通路


 あの後、食堂から見てこの一帯は兵舎だと踏んだアヴニールは、「武器を探しましょう」と嫌がるパッセを引き摺って食堂の周辺を捜索し始めた。

 しかし隅々まで捜索しているというのに、主立った物は何一つ見つからず、気がつけばもう探す部屋も最後のひとつ。

「ここに無かったら諦めてよ、第一普通の武器なんて通じる訳ないよ」

「だからなんでそんなこと決め付けられるのかって聞いてるのよ」

「それは………根拠は無いけど、だってあれはおばけみたいなものだし」

「だったらだったで十字架のひとつやふたつ、聖水のひとつやふたつ必要でしょう」

「そうかもしれないけどさぁ………」

 最後の部屋の扉を開く。勢い良く開けた其処は、今までになく埃っぽいどうやら倉庫のようだった。

「そら見たことか! 倉庫っぽいしここならあるに違いないわよ!」

「此処を探すのぉぉ?」

 遂に当たりを引いたアヴニールは諸手を挙げて喜んだ。対してパッセはその余りの薄汚さにがくりと肩を大袈裟に落とす。

「つべこべ言わない! 探すったら探すの!」

「僕嫌だよこんな埃まみれの部やゲホグホっ。ちょっとアヴニール!」

 パッセの言葉などまるで聞き耳を持たぬようにアヴニールは部屋に入るとガタガタと辺りを探索し始める。其の所為で舞い上がった埃にパッセは咳き込みながら、それでも嫌々自分も其の部屋を探し始めた。

「駄目だよ、立派なのは棚とかケースだけ、中には何にも入ってない」

 開く引き出しは悉く何も入っていない。見渡しても布はあってもその下に武器が置かれていることもない。やはり、この部屋でもいくら探そうが何も見つかる気配が無い。

「ねぇ、何にもないよ、アヴニール」

「食堂にはパンケーキを作る材料があったのよ? それなのに武器は無いなんて変だわ。ねぇ変よ、変だと思わない?」

「そんなこと僕に言われても………」

 ぼろぼろになったもとは綺麗な布だと思われる何がしかを抓みながら、パッセは「もう諦めようよぉ」とアヴニールを振り返った。

 アヴニールは、止まっていた。

 パッセに背を向けた状態で、腕を組んで俯き加減で何かを考えているようだ。

「アヴニール?」

 パッセはアヴニールまで歩み寄るとその顔を覗き込んだ。

「私には記憶が無いわ」

 だが、パッセがその表情を見るより先に、アヴニールは顔をぱっと上げるとパッセに背を向けてしまった。

 そのアヴニールの行動に、パッセは不審げに眉を潜めた。

「――――どうしたのさ、いきなり」

「記憶が無いから、私には頼れるものが何もないの。本当に、何も」

 言いながらアヴニールは置かれている棚の引き出しを開けては閉じ、開けては閉じていく。

「でも知識はある。だから何が“おかしくて”何が“おかしくない”のかくらい、区別がつくわ」

 其処まで言って、アヴニールは立ち止まった。パッセは相も変わらずアヴニールの言動に不思議そうに首を傾げている。

「貴方さっき、おばけって言ったわよね」

 振り返ったアヴニールは、とても冷たい瞳でパッセを見つめていた。

「アヴニール………?」

「ねぇパッセ、貴方は何? 何を知っているの? よしんば今までのことがおばけの仕業だとしましょう。私はそんなの信じてなかったけど、でも今までの現象全てそうだと思わないと、とても説明出来ない。でも」

 アヴニールの瞳はパッセをけして逃がさない。食い入るような瞳に囚われて、パッセもその視線から目を離せない。

 アヴニールは両の拳を握り締めた。強く強く、握り締める。

「ねぇ、パッセ………」

 手が震えた。唇も震える。

 今から自分が言おうとすることはとても恐ろしいことだ。

 けれどもアヴニールは言わずにはいられない。

 それは今この場所で、自分が唯一縋るものだから。

 それはあの真っ暗闇の牢獄で見た、たったひとつの灯火と同じものだから。

「私は、あなたを――――信じても、いいの?」

 だからどうか、揺らがないで。

「アヴニール………」

 パッセはとても悲しそうな顔をした。その表情にアヴニールの胸はズキリと痛む。

 自分は今とても酷いことを言っている。それは自覚していた。

 彼は自分を必死で守ってくれているし、彼の存在がアヴニールにとってどれほどの支えになっているか、自分でも分からないくらいに彼の存在は大きい。

 だからこそアヴニールの心には芽生えてしまったのだ。

 彼を、疑う心が。

「ねぇ、パッセ………お願い、教えて」

 自分には記憶が無い。だから彼が自分にとってどのような存在だったのかアヴニールには知ることが出来ない。今の自分にとって、彼は支えだ。けれど記憶を失う以前もそうだったかは………分からない。

 彼以外には。

「僕がアヴニールを裏切ると、そう………思ってるんだね」

 パッセは静かにそう告げると、ふっと自嘲気味に微笑んだ。

「それはそうか、だって僕が何者なのか―――証明するものが此処には何も無い。もしかしたらこんな善良なふりをして、君を閉じ込めた張本人かもしれない。そういうことかい?」

 アヴニールは握り締めていた両手を更に握り締める。まるで祈るようにアヴニールはパッセを見つめていた。

 パッセは力なく笑った。そしてアヴニールをその力ない瞳で見つめる。

 縋るように、見つめる。

「ごめんよアヴニール。僕にはそれを証明する手段が無い。貴方に信じてと言うのは簡単だ。だけど僕は――――自分からそんなこと、言えない」

 パッセは手のひらを握り締める。強く強く、皮膚に爪が食い込むほどに、強く。

「言えないんだ、アヴニール」

 俯いた。とても、苦しげな表情をしていた。アヴニールはその様子をただ見つめていることしか出来なかった。

 そんな彼を見ても、アヴニールの心に芽生えた疑念は――――消えないのだ。

「だから早く思い出してよ、アヴニール」

 顔を上げた パッセの瞳から一滴、流れ落ちた涙が埃まみれの床に黒く染みる。

 ポトポトと染みていく涙は、床に瞬く間に黒点を描いていく。

「僕を、思い出して」

 そしてパッセはそれだけを言い残して、その部屋から――――逃げるように、駆けて行ってしまった。

「あ………」

 其の後姿をアヴニールはただ見送った。手を伸ばすことすら、出来なかった。

 彼は泣いていたのに、彼はあんなにも、自分を慕ってくれていたのに。

「パッセ………」

 アヴニールの瞳からも、何時しかポトポトと涙が零れ落ちていた。

 止め処なく、止め処なく、それは床に斑点を次々と描いていく。

 それでもアヴニールには出来なかった。

「ごめんね………ごめんね、パッセ」

 彼を、信じ抜くことが。

「ごめんね………」

 こんなにも、信じたいと思っているのに。

 斑点が繋がっていく。やがて床に大きな黒い円が描かれる。涙で埋まったぼやけた視界で、その黒い円がぐらぐらと歪み、アヴニールの視界を黒く染めていく。

 じわじわと、闇がアヴニールの足を伝い、背を伝う。

 やがて闇は、視界を失ったアヴニールの体をすっぽりと覆い隠していた。

「私、また独りだ」




 市場へ行った帰り道、一人分の少ない材料を籠に入れてアヴニールは家路に着いていた。

 今日はシチューでも作ろう、夕日に照らされ前に真っ直ぐに黒く伸びる一人分の影をぼうっと眺めながらアヴニールは歩いていた。

 家に着き扉を開ければ、もうすっかり陽が暮れて暗くなった部屋がアヴニールを迎える。テーブルに荷物を置いてから暖炉とランプに火を灯し、アヴニールは一人には広すぎる家をぐるり、見渡した。

 父さんと母さんが居た時は、広いなんて思わなかった。

 自分の部屋にはもう暫く入っていない。父と母が寝ていたベットで、少しでも二人の面影を探しながら眠る毎日。

 待てど暮らせど、アヴニールはたった一人。

 誰も家には帰ってこない。

「夕飯、面倒だな」

 アヴニールはベッドまで歩いていくと倒れるようにベッドに身を埋めた。

 父と母の匂いが、まだ残っている。瞳を閉じて思い切り吸い込めば、まだそこに二人が居るような気がした。

 気がするのに、目を開けばやはりそこには誰もいない。

「どうしてかな」

 どうして私は生まれてきたのかな。

「何でなんだろう」

 何で私はたった一人なんだろう。

「どうして」

 父さんと母さんはここにいないんだろう。

「どうして」

 私は、生きているんだろう。

 アヴニールは瞳を閉じて枕に顔を寄せる。もう此の侭眠ってしまおう、何だか今日も、とても疲れてしまったから。

 目覚めれば、また其処には誰もいない家があるのか。




 アヴニールは涙を拭った。

 それから誇りまみれの部屋を見渡す。其処には、誰もいない。

 自分以外には、誰も。

「いない………」

 それはそうだ、パッセは先ほどどこかへ駆けて行ってしまった。自分はそれを追わなかった。だから自分は今一人だ。

「いなく、なっちゃった」

 自分の所為でいなくなってしまった。アヴニールは自嘲する。

 それからぶんぶんと頭を左右に振ると、時分を奮い立たせるように、両頬を力いっぱい挟むように叩く。

「いいのよ、これで」

 孤独には慣れている。誰もいなくても、人は生きていける。

 あの時だって、そして今だって、アヴニールは生きているのだ。

「狙われてるのは、私だけだもの」

 パッセだってきっと、自分と別れてもしっかりやっているに違いない。

 しっかりした子だから、きっと大丈夫。

「―――――行こう」

 アヴニールは自分も部屋から出ようと一歩踏み出した。

 途端、つるりと。

「はいぃ!?」

 滑って、転んだ。

 自分の涙で埃が濡れて滑りやすくなっていたようだ、それにしたって見事に転んだアヴニールはその拍子に近くにあった棚をどんがらがっしゃん、ひっくり返してしまった。

「ゴホッ、ゲホゴホゴホッ」

 そこら中が舞い上がった埃でいっぱいになる。その埃を払いながらアヴニールは立ち上がると、不意に棚の後ろに視線を向けた。

 その棚の後ろに、それはあった。

「なにこれ」

 釘が一本刺さり、其処には十字架のペンダントが吊るされていた。それには覚えがある。

「これって」

 父と母とを亡くし、教会へ通っていた自分が持っていたペンダントに、それは酷似していた。

「――――いったい、ここは何なの」

 瞬間である。

 アヴニールの全身を再びあの凄まじい寒気が襲った。そして背中にまるで射るような視線を強烈なまでに感じ取る。

 あいつだ。


ずるり。


 やはり音がする。それは奴がこちらへ近づいてくる音。


ずるり。


 アヴニールは体中が震え出すのを必死でこらえようと手で腕を押さえる。

 しかし震え出した体はもう止められない。奴が近づいてくる程に、その震えは激しくなっていった。


ずるり。


 もう、背後まで来ている。


『 見つけた 』


 聞こえた。空気を直接揺らしているような鈍いどんよりとした声。

アヴニールは考えていた。とにかく考える、必死に考える。どうすればいいのか、どうすべきなのか。こいつは何なのか、捕まったら、どうなってしまうのか。

 分からない。

 けれど恐怖だけを感じる。この恐怖は、絶対に気のせいではない。細胞から体中が震えているのだ。まるで奴に呑みこまれてしまったら、存在全てが無くなってしまうかのような、そんな、恐怖なのだ。


ずるり。


 もう直ぐ後ろでその音はする。

 アヴニールは目を思い切り瞑った。そして腕を自分の両手で思い切り握り締める。握り締めたそこは紅い跡になって残った。

 そして、アヴニールは目を開き、息を思い切り、吸った。

「うわぁぁぁああああ!」

 叫んだ。そして、動いた。その瞬間に後ろの黒い影も凄まじいスピードで自分に襲い掛かってきたような、気がした。

 その黒い影に触れられそうになるか否か、アヴニールの指先が、壁にかかっていた十字架に、触れる。

 その瞬間、アヴニールを襲っていたあの気配は、まるで嘘のように消え去った。

「消えた………」

 十字架をそのまま握り締め壁から取ると、アヴニールはふうとため息を一度吐き、その十字架を首へかけた。

「効くじゃないの、十字架」

 それから漸く後ろを振り返る。そこはまるで何事も無かったかのように、入ってきた時と同じ光景が広がっていた。

 アヴニールが倒した、棚以外には。

「ま、まぁいいわ。とりあえず私もそろそろ此処を出よう」

 アヴニールは十字架を握り締めながら、再び足を一歩踏み出した。しかし先ほどの恐怖の所為で足が震え、倒れそうになる。

「あ、ったぁぁ」

 そして其の侭アヴニールは倒れてしまった。再び埃が舞いゲホゲホと咳き込みながら、アヴニールは思い出す。

 倒れそうになった自分を、いつもパッセが支えてくれていたことを。

「――――」

 床に手を着いた侭、指先に力を入れた。

 胸が痛い。胸が、とても痛い。

 ズキズキと痛んで、そして頭の中をパッセの表情がぐるぐる回る。

 怒ったり、笑ったり、人を小馬鹿にしたり、とても優しく微笑んだり。

 そして彼は、最後に――――泣いた。

「パッセ」

 彼の名はパッセ、自分が名付けた。彼とは牢獄で出会って、そこからずっとこの得体の知れない城を二人で回った。彼は何度も自分を助けてくれたし、彼は何度も、折れそうになるアヴニールの心を支えてくれた。

 それが、アヴニールの知るパッセ。

「パッセを探そう」

 きっとそう遠くへは行っていない筈だ。

 アヴニールは立ち上がった。しっかりと自分の両足で床を踏みしめる。もうその体は震えてはいなかったし、その瞳は真っ直ぐに前を見据えていた。

 記憶なんて戻らなくてもいい。戻ろうが戻るまいが、そんなことは関係ない。

 自分は彼を信じたい。

 誰でもない、アヴニールがそう決めたのだ。

「まぁ、思い出せればそれが一番なんだけど」

 アヴニールは歩き出した。部屋から出ると、随分と埃まみれになってしまった服を叩く。そしてある程度ではあるが身綺麗にしてから、右、左と続く通路を交互に確認した。

 自分たちは左から来た。だからパッセは右へ向かっている筈だ。あくまで恐らくだが、まぁどちらに向かってもこの構造ならば回廊は繋がっているのだし、どこかで見つけることが出来るだろう。

 アヴニールはそうと決まればと右へと歩き出した。

 ほどなくして、回廊はまた突き当たり、目の前には丸い部屋、左手に回廊が再び続いている。アヴニールはまず目の前の丸い部屋へと入った。

 先ほどとは違いそこは塔ではなかった。逆にそこは居間か何かなのだろうか、暖かそうな暖炉が燃えて、分厚く赤い豪勢な絨毯が敷かれている。円形の壁は半分が窓硝子になっていて、外で吹雪く雪にがたがたと揺れ、多くは窓に張り付いた白い雪でスクリーンのように覆われてしまっている。

 窓際には窓と同じ長さのふかふかのソファーが設置されており、居間まで自分たちが歩いてきた兵舎のような場所とはそこは隔絶されていた。

「まぁ、いないか」

 こんなだだっ広い場所にいくら居心地が良さそうとは言えパッセが居る筈もない。

 アヴニールは溜息を吐いてからくるり踵を返し歩き出そうとした。

 歩き出そうとしたが、しかし。

「一度くらい………いいわよね」

 アヴニールは再び振り返ると、恐る恐る絨毯の上に足を踏み出し、そして、絨毯の上に、立った。

 ふわ。

 今まで味わったことの無い弾力が其処にはあった。

「なにこれ………!」

 アヴニールは感動に打ち震えた。それから今度は全身でそれを味わおうと恐る恐るしゃがみこみ、そして、寝転がる。

「はふふん」

 ふかふかだった。

 暖炉は暖かく、絨毯はふかふか。貧乏ではなかったが普通の農村の普通の家庭で育った自分にはこんな上流階級の暮らしは夢のまた夢。

 自分は今その夢の中に居る。

 アヴニールは一瞬だけパッセのことを忘れ至福の表情で目を瞑った。

 その瞬間である。

『何やってんだよアヴニール!』

 アヴニールは目を見開いた。勿論そこには誰もいない。

 その声は、アヴニールの記憶の中で響いたから。

「パッセ………?」

 記憶の底に、居た、気がした。

 確かに過去、自分はパッセにそう怒られたことがある、気がする。

 それも一度ではない、きっと、何度も。

「まぁでも、そんな気がするだけだし」

 そう、けれども今のは思い出したのでも何でもなく、そして彼は“今”の自分の名を呼んだ。牢を出てから彼とずっと一緒に居た間に、アヴニールの中で出来た彼のイメージがそう言わせただけのような気もする。

「まぁ、どっちにせよパッセが居たら怒られてるよね、こんな状況」

 アヴニールはうんと伸びをすると、よっこらせと大儀そうに立ち上がった。

 寄り道をしている暇は無い、早くパッセを見つけに行かなければ。

 そして、謝らなければ。

 疑って、ごめんねと。

「行きますか!」

 アヴニールがそう言って今度こそ一歩踏み出そうとした瞬間である。

「!?」

 ふかふかだった絨毯が、急にふと無くなった。

 無くなった、というよりはまるで泥沼のように柔らかくなったと言った方が正しいかもしれない。アヴニールの体は足からズブズブと絨毯の中に呑み込まれて行き、気がつけば首までアヴニールは絨毯の中に呑み込まれてしまっていた。

「なにっっこれ………」

 行っている間にも体は絨毯に沈んでいく。そして遂に顔までもが呑み込まれ、残ったのは助けを求めるように上に伸ばされた腕だけ。

 その腕もずぶずぶと沈んでいき、やがてもがくように動いていた指先まで、無常にも絨毯はアヴニールを、全て呑みこんでしまった。




「それではみなさん、さようなら」

「さようなら」

 けっして豊かではなかったけれど、貧しくも無い小さな農村だった。昔村人が建造したのだという石造りの小さい教会があって、教会の横には村の小さな学び舎があった。

 父と母を失ってからも、神父に施されアヴニールは其処に通っていた。

 昼過ぎに授業が終わると、神父のさようならに合わせて僅か数人だが生徒がさようならと頭を下げる。

 それからそれぞれに子供たちは学び舎を出て行った。中には遊ぶ約束をする者も居たが、大半は家の手伝いの為に足早に帰っていく。

 アヴニールは、いつも最後まで其処に残っていた。そして全員が帰ったのを見送ってから、静かに立ち上がり家路へと着く。

 昔は友達も居たけれど、いつの間にか遊ばなくなってしまった。両親共に亡くし落ち込んでいたアヴニールを、村人達は始めこそ励まし助けてくれた。それでも一向に元気にはならず、むしろ意固地にも他人の手助けを拒み続けたアヴニールは、いつの間にか村の中で話す人もいなくなり、皆もあまりアヴニールに世話を焼かなくなってしまった。

「帰るのかい、気をつけてお帰り」

 神父だけは、いつもそう言ってアヴニールを見送ってくれた。そんな神父にすら、アヴニールは返事を返さず無視をした。

 家に帰り着く。誰もいない家。

 アヴニールは、世界で自分はたった一人だと思った。

 そしてこの気持ちは、誰にも理解出来る筈が無いと、そう思っていた。

 流行病で死んだのは、アヴニールの両親だけだったのだ。

 村人は誰も、病で苦しむ両親を救ってはくれなかった。

 神父だけは助けてくれたけれど、神父の癖に、どうすることも出来なかった。

 そして両親は死んだ。苦しみ抜いた末に死んだ。

 葬式には、誰も来なかった。

 病がうつるからと、誰一人として、来なかった。

「あいつらが、死ねば良かったんだ」

 両親ではなく、両親以外の村人全てが。出来るなら父と母の病気をうつして、あいつらも全員殺してやりたかった。こんな村、無くなってしまえばいいのに、アヴニールは何時しかそう思うようになっていた。

 だけどあれ以来父と母を殺した病はこの村を襲うことは無く、あんなに近くに居た自分さえ病は殺してはくれなかった。

「殺してやりたい」

 アヴニールはキッチンに置かれたナイフをじっと見つめた。

 けれどこれではきっと誰も殺せない。

 父と母が死んで直ぐの頃は、教会に通い両親を返して欲しいと神に縋ったこともあった。けれど縋ろうとも縋ろうとも、神は自分の願いを聞き届けてはくれなかった。だから次第に諦めてしまった。今此処で自分の願いを聞き入れる神なら、初めから両親を奪ったりはしないだろう。至極当然のことのように思えた。

 自分でなんとかするしかないのだ。

 父と母を助けられなかったことも、村人の誰にも復讐することが出来ずひとりこうして苦しみ続けていることも、全ては自分が不甲斐ない所為で、他の誰も悪くはない。

 ならば自分の願いは、自分の力でどうにかするしかないのだろう。




 目が覚めると、そこはあの絨毯の上だった。

 アヴニールは其の上で仰向けになって倒れていた。いや、眠っていたといった方が正しいのかもしれない。またかと、アヴニールは溜息をついた。

 記憶を取り戻す時はたいてい碌な事が無い。けれどこうして、記憶を取り戻していくというパターンは分かった。笑えない作り話のような展開だ。

「嫌なこと、思い出したな」

 かつて絶望の淵に立たされていた自分、そのどす黒い感情にアヴニールは顔を歪めた。こんな気持ちになるのなら、忘れていた方がマシだった、余りにも残酷な記憶。

 アヴニールは上半身を起き上がらせると、重い重い溜息と共に頭を抱えた。

 自分は急に思い出したこのどす黒い感情と、どう向き合えばいいのだろう。けれど思い出してしまったものはもう仕方がない、忘れることなど出来ない。

 もしかしたら、自分は村人を殺したのだろうか。だからこんな所に閉じ込められているのだろうか。

 笑えない、冗談だ。

「そんな訳、ないよね」

 きっと、そんな訳ない。

 アヴニールは自分に言い聞かせるように呟くと、これ以上考えるのはよそうと今度こそ立ち上がった。そして慎重に一歩踏み出す。どうやら大丈夫なようだ。

「さて、進もうかな」

 今は何も考えないでおこう。考えれば考えるほど、恐ろしい考えが浮かんでは消えていく。けれども全て憶測でしかない、全てを知るには、記憶を取り戻すしかない。

 今は憶測で心を痛めている場合ではないのだ。

 そしてもしも、自分が今想像し得る最悪の過去を失ってしまっているのだとしたら。

「――――どうすれば、いいんだろう」

 立ち止まる。足取りが、何となく重かった。

 思い出さなければいけないのに、思い出したくないと思った。

 出来ればずっと、此の侭記憶を失っていられないだろうか。この侭パッセがふざけて言った通り、新しい自分として、生きて行けないだろうか。

 それでも、いいのではないか。

 あぁ、だけど。

「パッセを探さなきゃ」

 彼は泣いていたのだ。早く、思い出してと。

 彼と共に居たいと思うのなら、自分は忘れた侭ではいけない。きっと、彼は悲しむ。彼を忘れた侭の自分を見て、きっと。

 だってそれは“いない”のと一緒だ。以前の私は、もう私の中にはいない。ならばそれは、“死んだ”のと、一緒だ。

 歩き出した。けれどもやはりアヴニールの足取りは重かった。丸い部屋を出て、来た方とは逆の回廊を進んでいく。そこは今までの回廊と違いとても広い回廊で、先ほどの居間に繋がっているからだろうか、まるで城のように壮麗に飾り立てられた部屋のような回廊だった。そこを進んでいくと、大きな回廊には些か不釣合いな小さめの扉が現れる。周囲の豪華さに反してとてもシンプルな木で出来た簡素な扉。アヴニールはそこまで歩いていくと、ドアノブに手をかけ、一度小さく深呼吸をする。

 最早どこで何が起こるか分からない。どこで何を、思い出すか分からない。

 心の準備を常にしておかなければ。アヴニールはほんの少しだけ暴れる心臓を押さえるように胸に手を当てる。

 そして、思い切って扉を開け――――ようとした。

「………っふん!」

 しかし、開かない。押しても引いてもどれだけ力を篭めても、開かない。

 試しに横にスライドさせようとしてみたが、それも違った。上に持ち上げてみようともした、しかしそれも違う。

 試しに思い切り蹴ってやろうかとも思ったが、さすがに木を蹴り破るほどの気合はなく、アヴニールは仕方なく諦めることにした。

 もしかしたら、パッセが鍵をかけたのかもしれない。

 それほどまで、自分に会いたくないのだろうか。

「…………ねぇ、パッセ」

 アヴニールは、静かに扉を背にして座り込んだ。

「其処に居る? パッセ」

 いないかもしれない。けれど居るかもしれない。確認しようがないけれど、アヴニールはなんとはなしに話し出した。

「私、少しずつ記憶が戻ってきたの。パッセがいない間に、いくつか思い出したよ。でもね………まだパッセのことは思い出せないの。何でだろう、パッセのこと、一番思い出したいはずなのに………辛いことばっかり、思い出すの」

 アヴニールは膝を抱え顔を埋めた。

「私が失った記憶って、本当に――――いらないものばっかりだったのかな。だから私は、記憶を失ったのかな。パッセのこと忘れてしまってもいいから、忘れてしまいたいこと、ばっかりだったのかな」

 両親を失ったこと、冷たい村人、抱えきれないほどの、どす黒い気持ち。

「胸が苦しいよ………っ、私、どうすればいいの………?」

 涙が溢れ出した。

 すすり泣く声が、回廊に反響してやけに耳に響く。その響きに感化されまた涙が溢れ出す。アヴニールの涙は、長い間、止まることなく流れ続けた。

 けれど涙は流れても、心の靄は晴れることなく。


『アヴニール』


 其の時だった。

 扉の向こう、くぐもった声だったけれど、確かに聞こえた。

 アヴニールは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げる。

「パッセ………?」

 そう、確かにパッセの声だった。

『そうだよ、アヴニール』

 今度こそ幻ではない、本当に彼がこの扉の向こう側に居る。

 アヴニールは勢い良く振り返ると、木の扉に縋りついた。

「パッセ! 開けて! お願い、パッセの顔が見たいのっっ」

 けれど返事は無い。アヴニールは搾り出すようにもう一度「お願い」と懇願する。

『ごめんねアヴニール、それは出来ないんだ』

 けれど聞こえてきた答えはとても残酷なもので、アヴニールは扉に額を押し付けると再びぽろぽろと涙を流し始めた。

『聞いて、アヴニール』

 けれど、そう語りかけるパッセの声はひどく優しい声だった。アヴニールはだから泣くのを必死でこらえ、その声に耳をこらした。

『此処は駄目だ、だから一度来た道を引き返して。そして僕たちが出てきた礼拝堂まで辿り着いたら、あの牢獄へもう一度だけ行って欲しいんだ』

 アヴニールは目を見開いた。もう一度あの牢獄へ戻る、あまり気持ちの良い話では無い。

『辛いだろうけど、だけどお願い。そして牢獄である物を取って来て欲しいんだ』

 パッセの声は至極真剣だった。嘘を言っているようには思えない。

 アヴニールは涙を拭った。それから「何を取ってくればいいの?」と扉の向こうのパッセに問いかける。其の声は、先ほどまで泣いていたのが嘘のように、凛としていた。

 それから少しだけ沈黙が流れ、パッセは不意に『良かった』と零すように呟いた。

「パッセ………?」

『やっぱり貴方は貴方だ。何も変わらない――――変わるはずがない』

 扉に、両手を着けた。

 何故だろう、扉をひとつ挟んで――――同じように、パッセが手を着いている気がした。

『思い出して、アヴニール。思い出して欲しいんだ。それは貴方にとって辛いことかもしれない、だけど――――』

 けれど、そこまで言ってパッセの声は途絶えた。そして息を呑むような音が聞こえ、直後割くような叫び声でパッセは言った。

『逃げてアヴニール! そこも駄目だ! 早く行って! そして牢獄へ………っ』

「パッセ!?」

 アヴニールは立ち上がった。いったい扉の向こうで何が起こっているのか、胸にかけた十字架を握り締め、アヴニールは躊躇した。

 パッセを助けなければ、アヴニールは無駄と分かっていてもう一度ドアノブに触れようとした。けれども。

「逃げて!! アヴニーーール!!!!」

 劈くように、けれどもはっきりと聞こえた。

 其の声に意識を貫かれたようにハっとして、アヴニールは気がつけば踵を返し走り出していた。

 とにかくがむしゃらになって走った。途中何度も転びながら、其の度に十字架を握り締め立ち上がり、走り出す。

 息が切れ、足が上がらなくなって、それでもアヴニールは走った。

 長い長い回廊を、パッセと歩んだ回廊を、走る。

 食堂を通り抜け、塔を通り抜け、そして漸く辿り着いた礼拝堂。

 倒れこむようにして辿り着いた礼拝堂は静謐で、ひんやりとした空気に包まれていた。アヴニールは膝から床に崩れ落ち、手を付いて乱れた呼吸を整えようと必死で呼吸を繰り返す。

 ぽたぽたと汗が額から床に流れ落ち、激しく上下する胸で十字架が揺れる。

 そして、漸く呼吸が整いアヴニールが見上げたそこに。

「―――――嘘でしょう」

 ステンドグラスに描かれていたのは、胸を真っ赤に染め上げた、少年。

「何よこれ………だってさっきは全然違う絵だったのに………!」

 その絵はまるで、そう――――まるで。

「ふざけるのもいい加減にして! たちの悪い幻を見せるのはよして! 何なの、ここはいったい何なの!? いったい何の為にこんな事するの!?」

 絹のような悲鳴を上げた。しゃがみこんだ侭天を仰ぐように叫ぶ。その衝撃で血が出たのだろうか、喉がじりじりと熱くなる。それでもアヴニールは叫んだ。

「もう此処から出してよぉぉぉおおお!!」

 言下、礼拝堂のステンドグラスが粉々に砕け散った。

 同時に礼拝堂の中で猛烈な突風が吹き荒れる。吹雪が吹き込んできたのだ。

 アヴニールの体も途端に雪に包まれる。それでもアヴニールは動かなかった。まるで死んでしまったかのようにじっとその場に蹲ってしまっている。

 体が冷えていく。体温が急速に奪われて、意識が朦朧とする。

 あぁそうだ、自分はこの吹雪の中を歩いていたのではなかったろうか。

 そうだ、たしかそうだった。

「私、吹雪の中で………」

 何をしていたんだっけ。

 少しずつ少しずつ、アヴニールの意識が消えていく。其の間も吹雪は容赦なく礼拝堂に吹き込んで、そこはいつの間にか雪原の一部と化していた。

 雪が全てを白に染めていく。全てが白に侵されて行く。

――――あぁ、この侭眠ってしまいたい


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